第6話「戦わないサバイバル。石と罠で獣をハメる」
悲鳴の上がった川の上流へ走ること数分。
俺は茂みの陰から、その惨状を目の当たりにしていた。
黒い体毛に覆われた巨大な猪の化け物。その前にへたり込んでいるのは──ボロボロの服を着た、数人の男女だった。
***
化け猪の太い牙が、薄暗い木漏れ日を受けてぎらりと光る。牙の表面に淡い燐光が走っているのは、マナとかいうやつか。
体高は俺の胸ほどもある。通常の猪の数倍だ。鼻息が地面の落ち葉を巻き上げ、踏みしめた土がめくれ上がるたびに、血と獣臭が混じった空気がこちらまで押し寄せてくる。
男女は五人。革の鎧のようなものを着ているが、あちこちが裂け、にじんだ血が布地を黒く染めている。手にした粗末な剣や槍は、もはや構えるだけで精一杯という有り様だ。
……いや、帰りたい。今すぐ寝床に戻って昼寝の続きがしたい。
先頭に立っているのは赤毛の女だった。
ポニーテールに束ねた燃えるような赤い髪。日に焼けた肌。仲間を背に庇い、震える手で剣を構えている。
「くそっ……ここまで来て……!」
声は掠れていたが、腹の底から絞り出す気迫があった。足は震えているくせに、一歩も引かない。
だが、誰の目にも明らかだ。あの五人の戦力では、化け猪には勝てない。突進を一度でもまともに食らえば、人間の体なんか簡単にひしゃげる。
見捨てるか。
俺の頭に真っ先に浮かんだのは、それだった。
石のナイフ一本持って飛び出したところで、仲良くひき肉にされるのがオチだ。
『注意──対象は大型の敵性獣。推定体重四百キロ。正面からの戦闘は不可能に近い』
ほらみろ。スキルも無理だと言っている。
俺はそっと後ずさろうとした。
「きゃあっ!」
化け猪が前足を振り上げ、赤毛の女の隣にいた青年を吹き飛ばす。
青年は木の幹に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちて動かなくなった。
「テオ! ──あんたたち、逃げな! あたしが止めるから!」
赤毛の女が吼えるように叫び、仲間を背に庇ったまま化け猪の前に立ちはだかる。
足がガクガクしているのに、剣を握り直す手だけは妙に力が入っていた。
……ああ、だめだ。
腹の底に、じわりと嫌な感触が広がる。
あの手の覚悟を据えた人間を見捨てると、後で確実に腹に残る。前の世界で似たようなことがあった。目を逸らして、翌日から飯がまずくなった。
正義感じゃない。
ここで見て見ぬふりをしたら、今後の俺の安眠に障る。見殺しにした記憶なんか抱えて寝たら、夢見が最悪になるに決まっている。
つまりこれは、快適な睡眠のための投資だ。
「ああもうッ! 本当にめんどくせえ!」
俺は舌打ちして、考えるのをやめた。
***
「おい、スキル! あいつと殴り合わずに仕留める方法を出せ! 一番楽なやつを!」
念じた瞬間、視界が一変する。
『半径五十メートルの地形を読み取り完了──崖の深さ、斜面の角度、大木の根の張り方。すべて使える』
脳内に、周辺の地形が立体的に浮かび上がった。
川沿いの斜面。その先にある、えぐれた崖の縁。そして──俺が昨日仕掛けた、あの跳ね上げ式のくくり罠。
『化け猪の突進速度と体重から算出──崖の縁まで誘導すれば自重で落ちる。罠で足を止め、枯枝で追い打ちをかける連携が最適。実行の難しさは低い』
淡い青色の線が、俺の進むべきルートを示していた。
やることは単純だ。こいつの注意を引いて走る。罠にかけて、崖に落とす。
一度も刃を交えない。それが一番効率的だ。
「おらあッ! こっちだクソ豚!」
俺は茂みから飛び出し、手頃な石を拾って化け猪の鼻先に全力で叩きつけた。
「グゴァッ!?」
見事に命中。血走った目が赤毛の女から俺に向く。
「ちょっ──いきなり何やってんの!? 死ぬわよ!?」
赤毛の女が叫ぶ。構っている暇はない。
「俺を追いかけてこい! ──お前らもすぐ後ろについてこい!」
怒鳴りながら、全速力で森の中へ駆け出す。
「グルオォォォォッ!」
背後から、地響きを立てて突進してくる化け猪の気配。大木がへし折れる音が追いかけてくる。足の速さは向こうが圧倒的に上だ。直線距離なら五秒で追いつかれる。
だが、ここは俺が五日間かけて地面の起伏まで把握した庭だ。
『前方三十メートル、大木の左側を通過。直後に右へ跳ぶこと』
スキルの道案内に従い、木の根を避け、泥を躱しながら駆け抜ける。
大木の横を通り抜けた瞬間、俺は全力で右に跳んだ。
化け猪は急には曲がれない。四百キロの巨体がそのまま直進し──
バキンッ!
「ギュイアッ!?」
昨日仕掛けた跳ね上げ式くくり罠のツルを見事に踏み抜いた。
もちろん、四百キロの獣を宙吊りにはできない。だが一瞬だけ足が絡まり、突進の勢いが死ぬ。
その隙に。
『頭上三メートル。腐りかけの枯枝の根元に投石』
走りながら握っていたもう一つの石を、枯枝の根元めがけて投げつける。
メキメキッ──ドスゥゥンッ!!
数百キロはありそうな巨大な枯れ木の塊が、バランスを崩した化け猪の頭上に直撃した。
脳震盪を起こしたのか、化け猪は白目を剥いてその場に崩れ落ちる。足がピクピクと痙攣していた。
「……よし」
俺は膝に手をつき、荒い息を整えた。
一度も剣を振るわず、殴り合いもせず、石を投げて走っただけ。
──戦わないのが一番効率的だ。
もう二度とやりたくないが。
***
「……嘘でしょ」
呆然とした声。
振り返ると、追いついてきた赤毛の女たちが、動かなくなった化け猪と俺を交互に見ていた。
「魔法も武器も使わずに……あんな化けもんを……」
赤毛の女の口が、半開きのまま閉じない。握りしめていた剣の切っ先が、力なく地面に触れている。
「おい。怪我人は大丈夫か」
俺が声をかけると、赤毛の女はハッと我に返った。が、深々と頭を下げるかと思えば──
「あんた、何もんなの!?」
詰め寄ってきた。顔が近い。
「さっきの、どうやったわけ? 石投げて走っただけじゃないの。なんで猪が勝手に転がるのよ」
矢継ぎ早に問い詰めてくるその目には、恐怖より好奇心のほうが勝っている。さっきまで死にかけていた人間の反応とは思えない。
「……運が良かっただけだ」
「嘘おっしゃい。あんな都合よく枯枝が落ちてくるわけないでしょうが」
面倒くさい。この女、やけに鼻が利く。
「あたしはマーレン。こいつらのまとめ役……って言えるほど立派じゃないけどね」
名乗りながら、もう仲間のところへ駆け寄っている。気絶した青年──テオの容態を確かめ、止血の布を手早く巻き直す。その手つきは慣れたものだった。
「テオ、しっかりしなよ。死んだら飯食わせらんないでしょうが」
励ましているのか脅しているのか分からない声で、マーレンはテオの頬を軽く叩く。
その腕が持ち上がったとき──何かの紋様が目に入った。
焼印のような、不自然に規則正しい模様。手首の内側、普段なら袖で隠れるあたりに刻まれている。
『判定不能。既知のどの文様にも合致しない』
スキルが珍しく匙を投げた。
……まあいい。他人の事情に首を突っ込むと、さらに面倒なことになる。
「俺はユウト。ここは血の臭いが残るから危ない。俺の拠点があるから、そこまで来い。飯と屋根くらいはある」
「──え、いいの?」
マーレンの目が一瞬丸くなったが、すぐに口角が上がった。
「あんた、見た目のわりに世話焼きじゃない」
「違う。血の臭いに別の獣が寄ってくるのが面倒なだけだ」
「はいはい。素直じゃないのね」
もう聞いていない。テオを仲間と二人がかりで担ぎ上げ、残りにも声をかけ始めている。
「ほら、立てるやつは自分で歩きな! ぐずぐずしてると本当に次が来るよ!」
仕切りが速い。さっきまで死線にいた人間とは思えない切り替えの早さだ。
「とりあえず歩けるやつは自分で歩いてくれ。担ぐ体力は俺にはない」
怠惰の化身として当然の申告だ。
マーレンがこちらを見て、にやりと笑った。
「あんた、こんな森の奥で……一人で暮らしてたの?」
「一人で暮らしたいから暮らしてたんだ。……まあ、来りゃ分かる」
「へえ。面白い男」
勝手に面白がるな。
こうして俺の平穏な孤独ライフは、盛大に崩壊し始めた。
お読みいただきありがとうございました!
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