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第6話「戦わないサバイバル。石と罠で獣をハメる」

 悲鳴の上がった川の上流へ走ること数分。

 俺は茂みの陰から、その惨状を目の当たりにしていた。

 黒い体毛に覆われた巨大な猪の化け物。その前にへたり込んでいるのは──ボロボロの服を着た、数人の男女だった。


 化け猪の太い牙が、薄暗い木漏れ日を受けてぎらりと光る。牙の表面に淡い燐光が走っているのは、マナとかいうやつか。

 体高は俺の胸ほどもある。通常の猪の数倍だ。鼻息が地面の落ち葉を巻き上げ、血と獣の臭いが混じった空気が茂みの向こうまで漂ってくる。


 男女は五人。革の鎧のようなものを着ているが、所々が破れ、血が滲んでいる。手には粗末な剣や槍を持っているが、どいつもこいつも足が震えて立っているのがやっとだ。


 ……いや、帰りたい。今すぐ寝床に戻って昼寝の続きがしたい。


 先頭に立っているのは赤毛の女だった。

 ポニーテールに束ねた燃えるような赤い髪。日に焼けた肌。仲間を背に庇い、震える手で剣を構えている。


「くそっ……ここまで来て……!」


 彼女の声は掠れていたが、腹の底から絞り出すような気迫があった。


 だが、誰の目にも明らかだ。あの五人の戦力では、化け猪には勝てない。突進を一度でもまともに食らえば、人間の体なんか簡単にひしゃげる。


 見捨てるか。


 俺の頭に真っ先に浮かんだのは、それだった。

 石のナイフ一本持って飛び出したところで、仲良くひき肉にされるのがオチだ。


『注意──対象は大型の敵性獣。推定体重四百キロ。正面からの戦闘は不可能に近い』


 ほらみろ。スキルも無理だと言っている。

 俺はそっと後ずさろうとした。


「きゃあっ!」


 化け猪が前足を振り上げ、赤毛の女の隣にいた青年を吹き飛ばした。

 青年は木の幹に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちて動かなくなる。


「テオ! ──あんたたち、逃げて! あたしがこいつを食い止めるから!」

 赤毛の女が絶望的な声を上げ、仲間を背に庇ったまま化け猪の前に立ちはだかった。


 ──その瞬間、前世の光景が鮮明にフラッシュバックした。


 隣の席の同僚が上司に詰められていた夜。俺は目を逸らした。翌日、そいつは来なくなった。

 あの時の、腹の底に溜まった嫌な後味。


 正義感じゃない。断じて違う。

 ここで見て見ぬふりをしたら、今後の俺の安眠に障る。見殺しにした記憶なんか抱えて寝たら、夢見が最悪になるに決まっている。

 つまりこれは、快適な睡眠のための投資だ。


「ああもうッ! 本当にめんどくせえ!」


 俺は舌打ちをして、考えるのをやめた。


「おい、スキル! あいつと殴り合わずに仕留める方法を出せ! 一番楽なやつを!」


 念じた瞬間、視界が一変した。


『半径五十メートルの地形を読み取り完了──崖の深さ、斜面の角度、大木の根の張り方。すべて使える』


 脳内に、周辺の地形が立体的に浮かび上がる。

 川沿いの斜面。その先にある、えぐれた崖の縁。そして──俺が昨日仕掛けた、あの跳ね上げ式のくくり罠。


『化け猪の突進速度と体重から算出──崖の縁まで誘導すれば自重で落ちる。罠で足を止め、枯枝で追い打ちをかける連携が最適。実行の難しさは低い』


 淡い青色の線が、俺の進むべきルートを示していた。

 やることは単純だ。こいつの注意を引いて走る。罠にかけて、崖に落とす。

 一度も刃を交えない。それが一番効率的だ。


「おらあッ! こっちだクソ豚!」


 俺は茂みから飛び出し、手頃な石を拾って化け猪の鼻先に全力で叩きつけた。


「グゴァッ!?」


 見事に命中。血走った目が赤毛の女から俺に向く。


「ちょっと! いきなり何やってんの!? 死ぬ気!?」

 赤毛の女が叫ぶが、構っている暇はない。


「俺を追いかけてこい! ──お前らもすぐ後ろについてこい!」

 俺はそう怒鳴り、全速力で森の中へ駆け出した。


「グルオォォォォッ!」


 背後から、地響きを立てて突進してくる化け猪の気配。大木がへし折れる音。足の速さは向こうが圧倒的に上だ。直線距離なら五秒で追いつかれる。


 だが、ここは俺が五日間かけて地面の起伏まで把握した庭だ。


『前方三十メートル、大木の左側を通過。直後に右へ跳ぶこと』


 スキルの道案内に従い、木の根を避け、泥を躱しながら駆け抜ける。

 大木の横を通り抜けた瞬間、俺は全力で右に跳んだ。


 化け猪は急には曲がれない。四百キロの巨体がそのまま直進し──


 バキンッ!


「ギュイアッ!?」


 昨日仕掛けた跳ね上げ式くくり罠のツルを見事に踏み抜いた。

 もちろん、四百キロの獣を宙吊りにはできない。だが一瞬だけ足が絡まり、突進の勢いが死ぬ。


 その隙に。


『頭上三メートル。腐りかけの枯枝の根元に投石』


 走りながら握っていたもう一つの石を、枯枝の根元めがけて投げつけた。


 メキメキッ──ドスゥゥンッ!!


 数百キロはありそうな巨大な枯れ木の塊が、バランスを崩した化け猪の頭上に直撃する。

 脳震盪を起こしたのか、化け猪は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。足がピクピクと痙攣している。


「……よし」


 俺は膝に手をつき、荒い息を整えた。

 一度も剣を振るわず、殴り合いもせず、石を投げて走っただけ。

 ──戦わないのが一番効率的だ。


 もう二度とやりたくないが。


「……嘘でしょ」


 呆然とした声。

 振り返ると、追いついてきた赤毛の女たちが、動かなくなった化け猪と俺を交互に見ていた。


「魔法も武器も使わずに……あんな化け物を……」

「おい。怪我人は大丈夫か」


 俺が声をかけると、赤毛の女──マーレンはハッと我に返り、深々と頭を下げた。


「あ、ありがとう……! あなたがいなかったら、あたしたち全滅してた。あたしはマーレン。本当に恩に着るわ」


 気丈に振る舞ってはいるが、声も腕も細かく震えている。

 その腕に──何かの紋様が刻まれているのが見えた。焼印のような、不自然に規則正しい模様だ。


『判定不能。既知のどの文様にも合致しない』


 スキルが珍しく匙を投げた。

 ……まあいい。他人の事情に首を突っ込むと、さらに面倒なことになる。


「俺はユウト。ここは血の臭いが残るから危ない。俺の拠点があるから、そこまで来い。飯と屋根くらいはある」

「いいの……!?」

 マーレンは泣きそうな顔で、気絶した青年──テオを仲間と担ぎ上げた。


「とりあえず歩けるやつは自分で歩いてくれ。担ぐ体力は俺にはない」


 怠惰の化身として当然の申告だ。


 マーレンが怪訝な顔をした。


「あんた、こんな森の奥で……一人で暮らしてたの?」

「一人で暮らしたいから暮らしてたんだ。……まあ、来りゃ分かる」


 こうして俺の平穏な孤独ライフは、盛大に崩壊し始めた。

お読みいただきありがとうございました!


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