第57話「俺がいなくても回る村」
丸一日、寝ていた。
起きて広場を覗くと、誰も俺に声をかけてこない。住民たちは黙々と、しかし穏やかに笑いながら、各自の持ち場で作業している。
……寂しくはないぞ。これが理想だったんだ。
朝の空気は少しひんやりしていて、山脈の方角から吹く風に木の葉の青い匂いが混じっている。中央広場を横切っても、「賢者さま」と駆け寄ってくる人間がいない。相談もない。苦情もない。
完璧だ。
完璧すぎて、ちょっと落ち着かない。
広場の端に立って、集落全体を見渡してみた。
東の水場では、住民たちが輪番の順に水を汲んでいる。揉めている気配はゼロだ。南側の畑では、石畳の境界線に沿って二つの家族が黙々と種を蒔いていた。互いに会釈だけ交わして、それだけ。俺が仕組みを入れる前の、あのぎすぎすした空気が嘘のようだ。
西の拡張区画から、エルマの声が飛んできた。
「柱の位置、もう少し東にずらした方がいいですよ。午後の日差しの角度を考えると、この位置じゃ三時間しか影が持ちません」
建設作業の段取りを、ドスの班の職人に指示している。ドス本人は別の現場に出ていて、ここにはいない。つまりエルマが自分の判断で動いている。
「計算すれば分かることです。ここ、こうして……あっ」
勢いよく振った腕が柱に当たり、積んであった板が崩れた。慌てて拾い集めるエルマ。
「だ、大丈夫です! 計算は合ってますから!」
職人が苦笑しているが、言われたとおりに柱の位置を直し始めた。あいつの理屈は強引だが、実際に正しいことが多いから、周りも逆らわなくなってきたらしい。
食堂の方に目を向けると、炭火の上で油が跳ねる軽快な音がした。
「マーレンさん! あの子が持ってきた木の実、潰して煮込んだらとろみ出ますよ! いけますって!」
「あんた、味見で半分食べるつもりでしょ」
「い、いや! 今日は三分の一で!」
「増えてんのよ!」
ハンスがマーレンの横で新しい調味料の調合を試している。食い意地は相変わらずだが、あいつはいつの間にか食堂の助手として完全に定着していた。マーレンも怒鳴りつつ追い出す気はなさそうだ。飯に対する執着だけは本物だから、使いどころがある。
北の見張り台の近くでは、子供たちの声が上がっていた。
「こっちだよー! 隊長の命令だぞー!」
リタが木の棒を振り回して、五、六人の子供を率いている。何かの探検ごっこらしい。その後ろを、ノルがとことこついて歩いていた。
「……リタちゃん、あんまり走ると転ぶよ……」
小さな声は誰にも聞こえていない。けれどノルはリタが落とした木の実をそっと拾い、足元の虫を踏まないように避けてやっている。あの子なりの見守り方だ。
二人とも、居場所ができたな。
俺は木陰のいつもの場所に腰を下ろした。背中を太い幹にもたせかけて、足を投げ出す。
空を見上げた。雲が西から東へゆっくり流れている。
俺がいなくても、集落は回っている。
水場が機能し、畑が動き、建物が建ち、飯が作られ、子供たちが遊んでいる。誰も俺を探していない。
これが──理想だったはずだ。
はずなのに、胸の奥に妙な重さがある。虚しいのかと言われると違う。面倒が減ったのは純粋にありがたい。ただ、やることがなくなると、人間は考えなくていいことまで考え始める。前世の休みの日と同じだ。
……考えるのは面倒だから寝よう。
「おーい、昼寝か?」
カイだった。木陰に近づいてきて、隣にどかっと腰を下ろした。額にも首筋にも汗が光っている。こいつは朝から体を動かしていたんだろう。
「お前、丸一日寝てる間、一回も呼ばれなかったんだってな」
「ああ。最高だった」
「新しい家の基礎でちょっと揉めたんだけど、エルマとドスで解決してた。畑の水路の調整もカルルの班が勝手に片づけてた」
カイが広場の向こうを指さした。その先で、カルルが黙々と板を運んでいる。腰を痛めて離脱していた頃の弱々しさは、もうない。隣の職人と短く言葉を交わし、手際よく木材を組み上げていく。
「カルルも完全に戻ったな」
「ああ。あいつが自分で腹を括ったんだろう。人の心は効率化できねぇからな」
「……お前、仕組みを作って楽しようとしてるだけだろ」
「バレた?」
カイが呆れたように笑った。だが、その目のどこかに感心したような色が混じっている。
「旧大陸のリーダーは力で人を従わせてた。命令して、罰して、恐怖で動かしてた。俺が知ってるのはそういう指揮官ばかりだ」
「最悪だな」
「ここは違う。お前が段取りを組んだだけで、みんなが勝手に動いてる。怒鳴る奴もいない。罰もない。なのに揉め事すら起きない」
カイが頭をかいた。
「正直な、リーダーってのは先頭に立って汗をかくもんだと思ってた。でも──お前のやり方は、俺の知ってるどの指揮官より賢い。悔しいけど」
「褒めてんのか、けなしてんのか」
「両方だ。お前ほんとムカつく」
そう言って、カイは笑った。呆れ顔だったが、目は笑っていた。
……まあ、こいつにそう言われるのは、悪くない。
「で、仕組みが完成したお前は何するんだ?」
「昼寝」
「即答すんなよ!」
カイの声が木陰に響いた。遠くで住民が何人か振り返ったが、すぐに自分の作業に戻っていく。
そう。誰も俺たちに構わない。俺がカイとだらだら喋っていても、集落は回る。
これが、俺の作りたかったものだ。たぶん。
……たぶん、が少し引っかかるが。面倒だから寝よう。
夕暮れ。
南の空が橙に染まり、集落の影が長く伸びる頃、俺は外周の柵のそばを歩いていた。
草原が夕日に照らされて金色に波打っている。虫の声と、風に揺れる草の音だけが耳に届く。
南の方角に──一瞬、銀色の何かが光った。草の間で、ちらりと。すぐに消えた。
……また来てるのか、あの耳の子。
食堂に戻って、マーレンに声をかけた。
「今日の余り、少し分けてくれ」
「あら、あの子の分?」
「……余り物を捨てるのがもったいないだけだ」
「はいはい。もったいないのね」
マーレンは意味ありげに笑いながら、煮込みの残りを木の器に盛ってくれた。パンの切れ端と、マナ香草を添えて、丁寧に葉で蓋をしてある。余り物にしては気合いが入りすぎだ。
南の柵の外に、器をそっと置いた。大きな葉を敷いて、その上に。あの子がやったのと同じように。
……何やってんだ俺。
翌朝。器はきれいに空になっていた。代わりに、見たことのない青い花が一輪、置かれていた。
少しだけ口元が緩んだのは、まあ、花がきれいだったからだ。それだけだ。
──と、その時。
拡張工事を始めたドスが、血相を変えて駆けてきた。
「ユウトさん! 地面掘ってたら……変なもんが出てきた! 石じゃねぇ、何か……光ってるんです!」
ドスの泥だらけの手が、小刻みに震えている。
……嫌な予感がする。面倒事の匂いだ。
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