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第55話「置いてあった木の実と、知らない匂い」

 朝靄に包まれた集落の南の柵。その外側に、それはあった。

 大きな葉が丁寧に敷かれ、その上に三つの品が並んでいる。銀灰色の毛皮。見たことのない濃い紫色の木の実が数個。そして、束ねられた薬草。

 誰かが、夜のうちにここへ置いていった。


 朝の見回りで最初に気づいたのはドスだった。呼ばれた時点で、もう嫌な予感はしていた。


 嫌な予感というか、心当たりがありすぎる。


 昨夜の記憶が脳の隅で暴れている。銀色の耳。ふわふわの感触。琥珀色の瞳。──忘れろと言ったはずだ、俺の記憶力。


 毛皮に鼻を近づけると、知らない匂いがした。甘くて、どこか野性的な、花とも果実とも違う残り香。昨夜、草むらで転んだ時にかすかに嗅いだのと同じだ。


 まだ寝ていたかった。こんな朝から考えることを増やさないでほしい。


「なんだろうね、これ。贈り物かい?」


 マーレンが腕を組んで、葉の上の品々を見下ろしていた。


 柵の周りには、もう数人の住民が集まっている。朝飯前に人だかりができるとか、勘弁してくれ。


「危なくないですか? 誰が置いたか分からないのに」


 カイが眉をひそめている。当然の警戒だ。真面目な男は、いつだって真面目なことを言う。


「ししょー! なにこれ、なにこれ!」


 リタが俺の服の裾を引っ張りながら、目を輝かせていた。好奇心の塊みたいな八歳児に、警戒という概念はない。


 その隣で、ノルが小さな体をリタの後ろに隠すようにして覗いている。六歳の泣き虫は、知らないものが怖い。いつも通りだ。


 ──と、思った。


 ノルの視線が、毛皮に釘付けになっていた。


 住民たちが一歩引いている中で、ノルだけが前に出た。リタの背中から離れて、小さな手を毛皮に伸ばす。


「ノル、触っていいの?」


 リタが不思議そうに聞いた。いつもなら真っ先に泣くか隠れるかするのが、この子だ。


 でも、ノルは怖がっていなかった。


 小さな指が銀灰色の毛皮に触れる。撫でるように、ゆっくりと。まるで生きている動物を慈しむみたいに。


「……これ、きれい」


 消えそうな声だった。でも、その一言で場の空気が変わった。


 怯えるように毛皮を遠巻きにしていた住民たちの肩から、すっと力が抜ける。六歳の子供が怖がらないものを、大人が怖がっているわけにはいかない。


 ノルは毛皮に頬を寄せて、目を細めた。


「ふわふわ……あったかい……」


 泣き虫のくせに、動物のものには妙に親しみを見せる子だな。


 俺がぼんやりそう思っている間に、事態は動いた。


「うおっ、これ木の実か!? 見たことねぇ色だな!」


 ハンスが横から手を伸ばし、木の実を一つ掴んだ。


 そして──迷いなく齧った。


「あんたっ! 毒だったらどうするんだい!」


 マーレンの怒声が飛ぶ。だが遅い。ハンスの顎はもう動いている。


 噛んだ瞬間、ハンスの目が見開かれた。


「──うっめぇ!!」


 朝の集落に響き渡る大声で叫んだ。


「前に食ったのと全然違う! 甘ぇのに後味がすーっとする! なんだこれ!?」


「だからって知らないものを齧るんじゃないよ! ユウト、あんた何か分かるかい?」


 マーレンに振られた。面倒だが、まあ、俺も気にはなっていた。


 残った木の実を一つ手に取る。掌に収まる大きさで、表面は深い紫色。指先に触れた瞬間、【効率化】が反応した。


『食える。毒はない。果肉に甘みが強く、マナが濃く含まれている──南の大草原に自生する種で、この地域には見られない。わざわざ運ばれてきたもの』


 南の大草原。あの足跡と、同じ方角。


 触っただけで産地まで分かるとか、俺のスキルは果物の目利きか。便利だけどな。


「食える。毒はない。栄養も高くて、マナを含んでる。産地は南の草原──ここには自生しないものだ」


「だから言った! 俺の舌は正確なんすよ!」


 ハンスが勝ち誇った顔をした。お前の舌じゃなくて俺のスキルが判定したんだが。


 カイの表情が引き締まった。南の草原。足跡の方角と一致する。


「わざわざ遠くから、食い物を運んできたってことか」


「そうなる」


 全員が黙った。敵意のある存在が、食べ物を丁寧に葉の上に並べるだろうか。普通は、しない。


 マーレンが木の実と薬草を抱えて、さっさとキッチンに向かった。料理人の目だ。こうなったマーレンは止まらない。


 しばらくして、食堂に甘い香りが漂い始めた。


 マーレンが木の実の皮をこんがり炙って、薬草をすりつぶしたペーストを添えた一皿を出してきた。焦げた皮の香ばしさと、薬草の清涼感が混ざり合い、食堂の空気がまるごと変わる。


 一口、食べた。


 噛んだ瞬間、果汁が弾けた。温められた果肉がとろりと舌の上に溶け、甘さが口いっぱいに広がる。だが甘いだけじゃない。すうっと鼻に抜ける風味は草原の風みたいに爽やかで、後味に薬草のほろ苦さが重なって、味の奥行きが深い。喉を通る頃には、体の芯がほどけるように温まった。マナの余韻が、じんわりと残る。


「……うまい」


 素直に出た。否定できないほどうまいと、素直になるしかない。


 ハンスが隣で二皿目を平らげている。カイも黙々と食べている。


 テーブルの端では、リタが毛皮を肩にかけたまま木の実を頬張っていた。


「獣の王さまだぞー! がおー!」


 毛皮を羽織って両手を上げる。八歳は何でも遊びに変える。


 ノルはその横で、毛皮の端を握ったまま小さな口でもぐもぐしている。


「あったかい……おいしい……」


 その呟きは小さかったが、妙に心に残った。


 平和だ。平和すぎて、このまま昼寝に移行したい。


「で」


 マーレンが俺の向かいに腰を下ろした。腕を組んで、にやにやしている。この声のトーンは危険だ。


「その贈り物を持ってきた子ってのは、どんな子なんだい」


「知らない。顔もちゃんと見てない」


「嘘おっしゃい。あんた、さっきから木の実を手のひらで転がしてるじゃないか」


 見下ろすと、確かに右手で最後の一粒を転がしていた。無意識だった。


「あんたの彼女候補だね、こりゃ。あたしが料理作ってあげたいわ、その子に」


「顔すらちゃんと見てない!」


 声が裏返った。食堂の全員がこっちを見た。ハンスが腹を抱えて笑っている。余計なことを増やすな、全員。


「丁寧に選んだ贈り物を柵の外に並べる子が、ただの通りすがりなわけないだろ?」


 反論できなかった。


 ……あの耳の子、センスあるな。


 心の中でだけ認めた。口に出したらマーレンが暴走する。確実に暴走する。面倒の極みだ。


 木の実の料理を平らげて、俺は最後に残った一粒を手のひらで転がした。


 あの子は言葉が通じない。名前も知らない。顔もちゃんと見ていない。


 でも──美味いものを持ってくるセンスだけは、認めざるを得ない。


「……次に来たら、マーレンの飯でも置いておくか」


 自分の口から出た言葉に、少し驚いた。

お読みいただきありがとうございました!


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