第54話「銀色の耳と、やわらかい衝撃」
二日連続で夜の見回りに出ている自分が信じられない。
一晩だけと言ったはずだ。なのに、あの銀色の光が頭から離れなくて。
──面倒だ。面倒なのに、足が勝手にこっちに向いている。
月が昇り始めた南の柵の外周を、昨夜と同じように歩いていた。明かりは持たない。足元の草を踏む感触だけが、暗がりの中で自分の位置を教えてくれる。
カイとドスには「念のためもう一晩だけ」と伝えた。カイは妙ににやついていたし、ドスは「任せとけ」と北の外周を引き受けてくれた。
だから南は俺の担当だ。
別に、あの光をもう一度見たいわけじゃない。効率的に考えて、昨夜と同じ場所に同じ時間帯に来れば遭遇の確率が高い。それだけの話だ。
……誰に言い訳してるんだ、俺は。
夜風が草原を撫でていく。乾いた土と青草の混ざった匂いが鼻をかすめた。虫の声が遠くでちりちりと鳴っている。昨夜より空気が少しだけ冷たい。
柵に沿って歩き、昨夜あの光が見えた辺りで足を止めた。
草むらは静かだった。風に揺れる草の波だけ。不自然な動きはない。
いないのか。
もう来ないのかもしれない。昨夜、俺の気配に気づいて逃げたのだから、警戒して寄りつかなくなっても不思議じゃない。
帰って寝よう。そうだ、寝るのが正しい。夜は寝る時間だ。怠惰は夜更かしを許さない。
踵を返しかけた。
その時、草がピコッと動いた。
違う。草じゃない。
草の間から突き出た、小さな三角形の──銀色の耳が、ぴくりと揺れたのだ。
心臓が跳ねた。
いた。
昨夜見た銀色の光の正体。草むらの中で、地面に伏せるようにこちらを窺っている。耳の位置からして、人間の頭と同じくらいの高さだ。
息を殺して、一歩近づいた。
耳がぴたりと伏せた。気配を察したらしい。だが逃げない。じっとこちらの出方を待っている。
もう一歩。
耳が小刻みに震えている。怯えているのか、それとも──。
あと三歩。背の高い草を掻き分ければ姿が見える距離だ。
本来なら逃げるのが効率的だ。正体不明の存在に夜中に近づくなんて、生存の手順として最悪の一手だ。追うな。寝ろ。忘れろ。
そっと手を伸ばした。草を分けようとした。
瞬間、草むらの中から何かが弾けるように飛び出してきた。
「クァッ!?」
甲高い声が夜を裂いた。
小柄な体がこちらに突っ込んでくる。逃げようとしたのだ。だが方向を間違えた──俺の方に。
素足の足が俺の脛に引っかかった。
バランスが崩れる。二人分の体重が後ろに傾いて、受け身も取れずに背中から草の上に倒れた。
背中に夜露で湿った草の冷たさが広がる。
そして、胸の上に──やわらかい何かが落ちてきた。
軽い。驚くほど軽い。三十キロちょっとという足跡の分析が脳裏をよぎった。
だが、軽さに反して──やわらかかった。
胸に突っ伏した頭から、銀色の髪がさらりと散らばる。月の光をそのまま紡いだような淡い銀。その髪の間から覗く三角形の耳は、さっき草の向こうに見えたものと同じだった。
頬に、その耳が触れた。
ふわふわだった。
細くて繊細な毛並み。体温を含んだやわらかさ。毛先が頬を撫でるたびに、くすぐったいような心地よさが全身に広がる。
「ウ、ウゥッ……!」
胸の上の塊が身じろぎした。小さな手が俺の胸を押している。起き上がろうとしているのだ。
顔が近い。
見上げた先に、琥珀色の瞳があった。
大きな目だった。涙が滲んでいる。月明かりを受けて、琥珀が金色に光っていた。
小柄な少女だった。
銀色の髪と、頭頂部から生えた三角形の狼耳。背中の向こうで、ふさふさの尻尾がぶわりと膨らんでいるのが見える。
獣人だ。
旧大陸の文献で名前だけ知っていた、人の形をした亜人種。耳と尻尾を持ち、人族とは異なる言葉を話す種族。
「クゥ……ッ! ガァウッ!」
少女が何か叫んだ。怒っているのか怯えているのか、判断がつかない。声が震えている。顔が真っ赤だ。耳がぺたんと倒れたまま、小刻みに揺れていた。
言葉が分からない。一言も。
少女は俺の胸を押す力だけでは起き上がれないと悟ったのか、横に転がるようにして体を離した。立ち上がり、後ずさる。銀色の尻尾が脚の間に巻き込まれている。
「ウゥ……!」
もう一度、何か言った。非難するような、訴えるような響き。
俺は草の上に転がったまま、片手を上げた。
「……悪い。わざとじゃない」
伝わるわけがない。でも、それしか出てこなかった。
少女が一瞬だけ動きを止めた。琥珀色の瞳がこちらを見つめる。涙が一筋、頬を伝った。
それから──風のように走り去った。
銀色の髪と尻尾が月明かりの中を跳ねて、草原の闇に溶けていく。足音は信じられないほど軽い。あっという間に気配が消えた。
南の方角に。
俺は仰向けのまま、しばらく動けなかった。
草の上は冷たい。虫が鳴き始めた。月が見下ろしている。空が妙に広い。
脳の奥で、【効率化】がちかちかと反応し始めた。
『接触面積と柔軟度の分析を開始──推定接触時間は四秒、体毛の密度と──』
「黙れ」
全力で却下した。
接触面積とか柔軟度とか、今そんな情報は要らない。断じて要らない。お前のその余計な仕事ぶりだけは効率化してくれ。
体を起こして、膝についた草を払った。心臓がまだうるさい。走ったわけでもないのに、呼吸が乱れている。
見てない。体に触れてない。耳の感触しか覚えてない。
……いや、耳の感触も覚えてない。何も起きてない。夜の見回りで転んだだけだ。
嘘だ。全部覚えている。銀色の髪の手触りも、琥珀色の瞳も、胸を押す小さな手の温かさも。
だがそれは──今、考えるべきことじゃない。
考えるべきは一つだ。
あの子の言葉が、一言も分からなかったこと。
獣人語。人族の言語とはまるで異なるあの響き。音の並びが違いすぎて、意味の推測すらできなかった。
食料庫に忍び込んでいた犯人。南の草原から来た、マナを持つ種族の少女。泣きそうな琥珀色の目。
そして──言葉が、通じない。
柵に背を預けて、空を仰いだ。月は何も答えてくれない。帰って寝よう。明日になれば冷静になれる。きっとなれる。たぶん。おそらく。
心臓がうるさい。
耳はふわふわだった。髪は月光みたいに銀色だった。瞳は琥珀色で、涙が滲んでいた。
だが、それよりもずっと重大なことがある。
──あの子の言葉が、一言も分からなかった。
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