第53話「足跡は嘘をつかない」
朝一番、南の柵の外に膝をついた。昨日レオンが騒いでいた足跡は、まだ地面にくっきりと残っている。
指先を地面に触れた。湿った土が冷たい。朝露がまだ乾いていない。
【効率化】が反応した。『二足歩行。推定体重三十から三十五キロ。歩幅はおよそ四十センチ前後で、爪痕あり──人型だが、人ではない』
分かっていた。だが、数字で突きつけられると背筋が冷える。
膝立ちのまま、足跡の周囲に手のひらをかざした。スキルが読み取りを続ける。
『足跡の深さから踵への重心偏りが大きい。歩行の癖は人間に近い──ただし爪先の沈みが深く、指の構造が異なる。爪は鉤型で、肉食獣に近い形状。歩行姿勢は直立』
人間みたいに歩く。だが足は獣。
足跡一つでここまで読めるのか、俺のスキルは。便利だが、なんというか、獣の追跡者にでもなった気分だ。
足跡の輪郭を目で辿った。素足に近い五本の指。その先端に短い爪の跡がくっきり食い込んでいる。人間の爪ではありえない深さだ。
ふと、思い出した。
食料庫だ。ここ一週間ほど、夜になると食料が少しずつ減っていた。干し肉が一本、木の実が一握り。荒らされた形跡はなく、丁寧に取って丁寧に去っている。残された齧り跡は、ネズミにしては大きすぎて、人間にしては小さすぎた。
俺はもう一度、足跡に指を近づけた。
『食料庫に残された齧り痕の歯列幅と、足跡のサイズ──一致する。犬歯がやや鋭く、門歯は人型に近い。同一の個体と推定される』
食料庫の犯人と、この足跡の主は同じだった。
小柄で、爪があって、食べ物に興味がある。集落の中にまで忍び込んでくるくせに、人には見つからないように動いている。
さらに──足跡の周囲の土に、違和感があった。指先が微かに熱を帯びる。
『足跡の周囲にマナの残留を検知。微量だが、人族はこの密度の痕跡を残さない──マナを体内に保有する種族の特徴と一致する』
マナを持つ種族。
人間じゃない。魔物とも違う。北の山脈にはドワーフがいると聞くし、西の原生林にはエルフの集落があるとトビアスが言っていた。だが南の草原については、旅人の「変わった獣がいる」という世間話しか情報がなかった。
獣じゃない。これは、知恵のある何かだ。
……面倒だ。知恵のない相手なら罠を仕掛けて終わりだった。知恵があるとなると、対応が厄介になる。厄介は安眠の敵だ。
立ち上がって膝の土を払った。今日の昼寝の予定が完全に吹き飛んでいる。
集会所に向かった。カイとドスがいた。朝の作業割り当てを話し合っている最中だったらしい。エルマも隅で木材の寸法を測っていた。
「南の足跡、調べてきた」
カイが即座に顔を上げた。こいつは「南の接近者」の話になると反応が早い。
「どうだった」
「二足歩行で体重は三十キロちょっと。小柄で爪がある。人間じゃない。それと──食料庫の齧り跡とサイズが一致した。同じやつだ」
カイの表情が引き締まる。
「食料庫にまで入り込んでるってことか」
「ああ。しかも足跡の周りにマナが残ってた。マナを持つ種族だ。ただの獣じゃない」
沈黙が落ちた。エルマが手を止めてこちらを見ている。
「見回りを強化しよう」
カイが言った。案の定そうなる。
「夜も回すべきだ。柵の外の足跡は夜のうちに増えてる。つまり、そいつは夜に来る」
「寝ずの番とか正気か? 人間は八時間寝るべきだろ。俺は十時間でもいい」
「誰も寝ずにやれとは言ってない。交代制で回せばいい」
「俺も行くぞ」
ドスが椅子から身を起こした。がっしりした腕を組んで、拳を掌に打ちつける。
「夜番なら任せとけ。暗いところも力仕事も平気だ。何か出てきたって、俺がぶん殴ってやる」
「ぶん殴るのはやめろ。相手は知恵がある」
「おう、そうか。じゃあ優しくぶん殴る」
それは殴るのをやめたとは言わない。
「師匠」
エルマが寸法測りの手を止めて駆け寄ってきた。
「一人で行かないでくださいよ。マナを持つ種族って……何をしてくるか分からないじゃないですか」
「別に一人で行く気はない。というか行きたくない」
「嘘ですよ。昨日も南の柵あたりをうろうろしてたって、レオンが──」
「あいつの報告は三割増しだ。うろうろはしてない」
エルマが不安そうな顔をしている。強がりのくせに、こういう時だけ素直に心配を見せる。
「分かった。三人で交代制だ。俺とカイとドス。一人二刻ずつ。──一晩だけだぞ」
「ああ」
カイの返事が軽い。一晩で済まないことを、こいつは分かっている。
その夜。
月が昇った頃、俺は南の柵の外周に立っていた。
乾いた草と湿った土が混ざった匂いが鼻をつく。虫の声が遠くで鳴っている。足元は夜露で僅かに湿り、踏むたびに微かな音を立てた。
明かりは持たなかった。夜行性の相手なら、火を見れば逃げる。月明かりだけを頼りに、目を闇に慣らした。
集落の方を振り返ると、食堂の窓から灯りが漏れていた。あっちは暖かくて、マーレンの作った飯の残りがある。こっちは暗くて、寒い。
なんで俺はここにいるんだ。
柵にもたれかかって腕を組んだ。月明かりの下、草原が青白く広がっている。風に揺れる草の波が、果てしなく続いていた。
──足跡の分析が、頭から離れない。推定体重三十キロ前後。人間の子供くらいだ。爪痕は浅い。凶暴な魔物の足跡じゃない。
食料庫を壊すんじゃなく、齧っていた。量もわずかだった。
つまり──腹を減らしているのか。
そんなことを考えていた時だった。
風が止まった。
虫の声が、ふっと途切れた。
柵の外、十五歩ほど先。背の高い草が、不自然に一箇所だけ揺れている。風はない。
息を止めた。
揺れが止まる。静寂。自分の鼓動だけが、やけにうるさく聞こえる。
草の向こうから、微かな息遣いが聞こえた。小さな、浅い呼吸。怯えているような、こちらを窺っているような。
俺は動かなかった。追うのが面倒だったのもある。だがそれ以上に──動いたら逃げる、と直感で分かった。
互いに動かない時間が続いた。
草むらの向こうで、時折かさりと小さな音がする。少しずつ柵に近づこうとして、やめて、また近づこうとしている。
風が、ふっと吹いた。
雲が動いて、月明かりが草むらを照らす。
一瞬だけ──銀色の光が見えた。
草の隙間から覗いた、ふわりとした三角形。月光を受けて白銀に輝く、やわらかそうな毛並み。ぴこり、と片方だけが動いて──すぐに草の中に沈んだ。
耳だ。
月が再び雲に隠れた。光が消え、草がざわりと揺れ──気配が、南へ遠ざかっていく。足音は驚くほど軽かった。
追うべきか。追いたくない。眠い。
だが、心臓だけは妙に速く動いていた。
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