第52話「二つ名は要らない、昼寝をくれ」
「怠惰の賢者さま、おはようございます!」
朝、テントから出た瞬間に聞こえてきた敬称に、俺は本気で中に引き返そうかと思った。
いつの間に俺の呼び名が「賢者さま」から格上げされたんだ。怠惰の、が付いている。二つ名だ。
「怠惰の賢者さま、今日の作業のことで──」
「怠惰の賢者さま、昨日の宿泊区、旅人に大好評です!」
わずか十歩の間に三人から呼ばれた。俺はまだ寝起きだ。頭が追いつかない。
……帰りたい。テントの中に。
広場に出ると、さらにひどかった。新しく来た旅人まで「怠惰の賢者さまの集落」という呼び方をしている。木板に『怠惰の賢者さまの教え:怠ける者こそ最も賢い』と彫っている住民までいる。
彫るな。
「カイ」
「おう、おはよう。怠惰の──」
「その先を言ったら二度と口を利かない」
「……おはよう、ユウト」
カイが笑いを噛み殺している。目の奥が完全に楽しんでいる。
「いつからあの呼び方が広まった」
「三日前くらいかな。旅人が『あの怠け者の賢者さまの村はどこだ』って聞いてきてさ。住民が食いついて、あっという間だ」
トビアスが港で俺のことを吹聴したせいだ。あの商人、余計なことを。
旧大陸には「賢者信仰」と呼ばれる風習があったらしい。知恵のある者を神の代弁者として敬う文化だ。開拓民の骨の髄まで染みついていて、「知恵者=崇拝対象」の回路が出来上がっている。
呪いだ。解呪の方法が見当たらない。
朝飯のマーレンの雑穀粥が冷めるまで挨拶が続いた。飯が冷める。これは効率が悪い。
──限界だ。
「いい加減にしろ。ルールを作る」
食堂の中央で立ち上がった。住民が一斉にこちらを見る。
【効率化】に意識を向けた。頭の中に、淡い声が落ちてくる。
『崇拝を効率的に止める手段──該当する最適解なし。感情に基づく呼称の変更は、強制力を持たない場合が多い』
……俺のスキルが匙を投げた。初めてだ。
だが、仕組みで止められないなら、決まりごとで抑え込むしかない。
「今日から肩書き禁止だ。俺のことは名前で呼べ。『ユウト』だ。二つ名も敬称もいらない」
食堂がしんと静まった。住民が顔を見合わせる。
そして──囁き声が波のように広がった。
「……肩書きを嫌がるなんて」
「さすが怠惰の賢者さま……謙虚だ……」
「虚飾を捨てて民と同じ目線に立つ……これが真の賢者……!」
違う。そういう意味じゃない。
「いいか、もう一度言うぞ。肩書き禁止だ。名前で──」
「はい! ユウトさま!」
「『さま』もいらない!」
「ユウトさまは『さま』すら要らないと仰る……! なんという器……!」
だめだ。会話が成立していない。
否定すればするほど、住民の目が輝いていく。キラキラした瞳が、前世のブラック企業で「君は優秀だから」と言いながら仕事を押し付けてきた上司の目と重なった。
崇拝は責任の種だ。責任は労働の苗だ。労働は俺の天敵だ。
「カイ。お前からも言ってくれ」
「無理だな」
即答された。
「否定すればするほど箔がつくんだよ。お前が嫌がれば嫌がるほど、『あの人はすごいのに偉ぶらない』ってなる。もう詰みだ」
──絶句した。
反論できない。論理的に正しい。正しいのが腹立たしい。
ため息をついて座り直した。冷めた粥を啜る。味は変わらないが、敗北の風味がする。
肩書き禁止のルールは、制定から半日で形骸化した。住民たちは律儀に「ユウト」と呼ぼうとするが、三回に一回は「ユウト──あ、怠惰の賢者さ……ユウト」と言い直す。
二つ名が正式名称になりかけている。
もういい。寝よう。寝れば忘れる。
ハンモックに向かって歩き出した、そのときだった。
「た、大変です!!」
息を切らしたレオンが、南の方角から全力で駆けてきた。顔は真っ赤、汗が額から滴り落ちている。膝に手をついて、肩で息をしている。
「ユウトさん! 南の柵の外に──でっかい足跡が! 前よりずっと近い! 爪痕もあります! すっごいでかい爪痕です!」
住民が色めき立った。「魔獣か!?」「南からか!?」
「落ち着け。レオン、どのくらいの大きさだ」
「こ、こんくらいです!」
レオンが両手を大きく広げた。人の頭ほどの大きさを示している。
……それは象だろ。
「確認してくる」
南の柵に向かう。途中、集落の東側を通りかかった。
エルマが旅人用宿舎の骨組みを黙々と組んでいた。ドスの指示で昨日の宿泊区を拡張しているらしい。丸太を担ぐ背中は小柄だが、動きに迷いがない。あの二人は放っておいても仕事が進む。ありがたい存在だ。
南端の柵に着いた。
柵の外、五歩ほどの距離に──確かに、足跡があった。
レオンが言ったほど「でっかい」わけではない。人間の子供くらいの大きさだ。ただし、指の先に爪痕がくっきりと刻まれている。
二足歩行。小柄。爪つき。
人間の足跡じゃない。だが、魔物の足跡とも違う。規則正しく並んでいる。逃げてもいない。歩いて、この柵のそばまで来ている。
三日前にも同じ場所を見た。あの時は二十歩は離れていた。それが今日は五歩。明らかに近づいている。
風が草原を渡る音がした。乾いた土と青い草の匂い。その中に──微かに湿った毛皮のような、甘い獣の気配が混じっている。
戻ってきたレオンが、横からそっと覗き込んだ。
「……あれ。もうちょっとでかかったような」
「暗い中で見たんだろ。大きく見えただけだ」
「は、はい! でも本当にでかかったんです! 夕方で影が伸びてて……!」
「報告はいい。助かった。だが次からは、もう少し落ち着いてからにしろ」
「は、はい! 気をつけます!」
レオンが背筋を伸ばして駆けていった。大げさだが、情報が早いのはいい。正確さは後から補える。
もう一度、足跡を見下ろした。
二足歩行で、爪がある。人間じゃない。だが、食料庫を荒らすだけで、住民に危害は加えていない。
南の草原の、変わった獣。旅人の言葉が頭の中で重なる。
崇拝問題に頭を抱えている場合じゃなかった。
南の柵の外に残された足跡は、三日前よりも明らかに近い。
そして、柵の木板の低い位置に──小さな爪で引っ掻いたような、新しい傷が増えていた。
お読みいただきありがとうございました!
もし『この怠惰な主人公、面白いな』と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、執筆の励み(と睡眠時間の確保)になります!




