第50話「腹が減っては交渉もできない」
旅商人トビアスは、整った道を見て足を止めた。
水路を見て目を丸くし、規格化された木造家屋を見て口を開け、食料庫の保存食の山を見て腰を抜かしかけた。
だが、本当にこの男が声を失ったのは──マーレンの料理を口にした時だった。
順を追って話そう。
昨日の夕方。温泉の余韻に浸っていた俺のもとに、レオンが「商人が来ました!」と駆け込んできた。
渋々湯から上がって集落の入口に向かうと、荷物を満載にした馬車と、人の良さそうな笑顔を浮かべた男が立っていた。
「いやぁ、お邪魔します! 東の港から参りました旅商人のトビアスと申します! いい集落ですねぇ!」
三十を少し過ぎたくらいか。日に焼けた肌。旅慣れた足取り。愛想のいい声。
──ただし、目だけが笑っていなかった。
明るい声とは裏腹に、鋭い視線が集落をぐるりと舐め回している。水路、家屋、食料庫、整備された道。その一つ一つを、まるで値札を貼るように見つめていた。
「ほう……石組みの水路ですか。港町でもこれだけの造りは珍しい。施工費だけで金貨五十枚は下らない」
独り言のつもりなのか、聞かせているのか。
「この道路は排水溝まで完備ですか。これだけの街道整備は──金貨七十枚でも足りない」
……こいつ、全部を金に換算している。
カイが横から口を挟んだ。
「おい、金貨がどうとか言ってるが、売り物じゃないぞ」
「ええ、もちろん! つい癖で。すみません」
トビアスが頭を掻く。だが目は相変わらず鋭い。叩き上げの商人というのは、こういうものなのだろう。笑顔は武器で、目は秤だ。
面倒な客が来たものだ。温泉に戻りたい。
「まあ、商人なら用があるんだろ。カイに言ってくれ。俺は関係ない」
「まあまあ、そう言わず! 東の港でこちらの干し肉を食べまして。旅人が持ち込んだとかで。一口食べて飛んできたんです」
トビアスの目が光った。
「こんな味、旧大陸の市場でも出会ったことがない。貴族の晩餐にだって並ばない品ですよ」
褒めすぎだ。俺が楽をしたくて保存条件を割り出しただけの、ただの燻製肉だぞ。
「で、おいくらで卸していただけます?」
……もう値段の話か。早い。
「腹が減っては交渉もできないだろ。とりあえず飯でも食え」
面倒事を先延ばしにするための、苦肉の一手だった。
結果として、これが決定打になった。
食堂に通したトビアスの前に、マーレンの料理が並ぶ。マナ香草で風味をつけた焼き肉。三種の調味料で味つけした根菜の煮込み。岩塩と木の実の甘辛い漬け物。
トビアスが一口食べた。
フォークが、止まった。
「……は?」
二口目。三口目。噛むたびに表情が変わっていく。愛想のいい商人の仮面が剥がれ落ち、素の驚愕が露わになる。
「なんだこれ。こんな味が、新大陸の──しかも開拓地で?」
マーレンが腕を組んで、どこか得意げに鼻を鳴らした。
「当然でしょ。うちの食材と調味料は一級品だからね」
「冗談抜きで、旧大陸の高級料理店と張り合えます。いや、素材の質で言えば勝ってる」
トビアスが煮込みをもう一口。
「お、これもいいですね。……いくらで卸します?」
食べながら商談。ある意味、効率的だ。
その時、トビアスが馬車から布袋を取り出した。
「お近づきのしるしに、おまけですよ。東の港で仕入れた珍しいものです」
袋の中身は見慣れない木の実や乾燥した果実、色鮮やかな貝殻の飾りが幾つか。
──瞬間、横から小さな影が飛び出した。
「わあっ! なにこれ、きれい!」
リタだ。貝殻の飾りに目を輝かせて、両手で掴んでいる。
「ししょー見て! きらきらしてる!」
「おい、人のものを勝手に──」
「いいですよいいですよ! お嬢ちゃん、それあげます」
トビアスが笑った。今度は目も笑っている。子供相手には素が出るらしい。
──ただ、リタが珍しいものに飛びつく姿を見ると、何となく嫌な予感がした。この好奇心の塊に見知らぬ品を与えたら、次に何が起こるかわからない。
まあ、貝殻くらいなら大丈夫だろう。たぶん。
トビアスが次に取り出したのは、見慣れない食材だった。黒い果実、白い根菜、紫色の葉。東の港で仕入れたらしい。
「正直言ってこの食材、扱いがわからなくて──」
説明が終わる前に、にゅっと手が伸びた。
ハンスだ。
黒い果実を一つ掴み、そのまま口に放り込んだ。
「お、お前! それ毒があるかもしれないって港の連中が──」
「んぐんぐ……」
全員が固唾を呑んで見守る。
ハンスが顔をしかめた。──と思ったら、にかっと笑った。
「いける。甘みが強い。ただ皮が渋いから剥いた方がうまい。種のまわりに苦味があるから、そこだけ避ければ──うん、焼いたらもっとうまくなるな、これ」
一口で、そこまで言い当てた。
トビアスが目を見開いた。
「お前さん……東の港の食い道楽たちが三日がかりで出した結論を、一口で当てたぞ」
「え、そうすか? 俺、腹減ってただけっすけど」
ハンスが頭を掻く。悪気はない。ただ食い意地が張っているだけだ。だが、その舌は本物だった。
トビアスの目つきが変わった。集落を見回したときの、あの秤で量る目だ。
「この集落……とんでもないところだ」
トビアスが居住まいを正した。
「改めてお願いがあります。この集落の村長に会わせてください。正式に交易の話がしたい」
カイが俺を見た。マーレンが俺を見た。レオンが俺を見た。ハンスが俺を見た。
食堂にいた住民が、全員、俺を指差した。
──嘘だろ。
「いや、俺は村長じゃない。断じて違う」
「皆さんの総意のようですが……」
「総意じゃない。誤解だ。カイ、お前が村長だろ」
「俺は現場監督だな」
「マーレン」
「あたしは料理担当よ。賢者さまに任せるわ」
「その呼び方やめろ」
「賢者さま!」
住民の一人が叫んだ。二人、三人と続く。
「賢者さま! 賢者さま!」
──逃げよう。
俺は全力で食堂を飛び出した。背後で「ししょーにげたー!」というリタの声と、マーレンの「あの子は照れ屋だから気にしないで」という声が追いかけてくる。
照れ屋じゃない。面倒が嫌なだけだ。
結局、交易の取り決めはカイとマーレンがまとめてくれた。俺は一切関わっていない。他人が勝手に働いてくれるなら、それが最も効率的だ。
思えば、保存食も調味料も道路も、全部「楽をしたい」から始めたことだ。毎日の料理が面倒で保存食を作った。塩だけの味に飽きて調味料を作った。旅人の案内が面倒で道を作った。
その全部が、交易品になった。
怠惰を突き詰めた先に、商いが生まれる。世の中わからないものだ。
翌朝。
トビアスは保存食をたっぷり馬車に積み込んで去っていった。代わりに残されたのは、旧大陸の布が三反、鉄の小道具が一箱、そして──集落の存在を東の港に広めるという約束。
カイが鉄の鉈を嬉しそうに振っている。マーレンは布を広げて「やっとまともな服が縫える」と目を輝かせていた。
俺はハンモックの上で、遠ざかる馬車の砂埃を眺めた。
……人が増えるぞ。面倒が増えるぞ。でもまあ、労働力も増える。
差し引きで、まあいいか。たぶん。
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