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第45話「まずは飯だ。話はそれからだ」

 集落の広場に、生まれて初めて嗅ぐ種類の匂いが立ち込めていた。


 焼けた肉の脂。甘い根菜の蒸気。そしてマナ香草の、どこか花のような芳香。

 その三つが交わった瞬間、俺の腹が──盛大に鳴った。


 恥ずかしいとか言ってる場合じゃない。この匂いは反則だ。


「マーレン、あとどのくらいだ」


「焦んないの。あと三分。蒸らしの時間を省いたら台無しよ」


 キッチンでは、マーレンが忙しく鍋と石窯を行き来していた。


 昨日から仕込みは始まっていた。俺が【効率化】で算出した最適なレシピに従い、マーレンが腕を振るう。役割分担としては理想的だ。俺はレシピだけ出して、あとは寝ていればいい。


 頭の中に、スキルが勝手に呟く。


『肉百に対して紫の葉が二枚──赤い茎の絞り汁が三滴──白い根のすりおろしが小さじ一杯。この配合が香りの相乗を最大にする』


 最初の三十秒だけ強火で表面を焼き固め、弱火に落として十五分。仕上げに蓋をして五分蒸らす。マナ香草の風味は急な加熱で飛ぶから、蒸らしの段階で加えるのが最適──と、スキルは言っている。


「あんたの頭から出てくるレシピを形にするのは、あたしの腕。いいコンビじゃない?」


「コンビとか言うな。俺はもう寝たい」


「素直じゃないわねえ」


 蒸らしが終わる。マーレンが石窯から肉を取り出した。


 表面に薄く焼き色がつき、マナ香草の緑が映える。切り込みを入れた瞬間──ジュウッ、と肉汁が琥珀色に光りながら溢れ出した。


 湯気に乗って、甘い脂と花の香りが一気に広がる。


 横では、白い根を焼いた付け合わせがほくほくと湯気を立て、赤い茎で作ったソースが深い赤紫色で小皿に盛られていた。


「いい色ね……よし、みんなを呼ぶわよ!」


 広場に長机が並べられた。


 集落の住民──約四十人が、ぞろぞろと席に着く。いつもの食事の風景だが、今日は明らかに違う。漂ってくる匂いに、住民たちがそわそわしている。


「なんだこの匂い……」


「いつもの塩焼きじゃないぞ」


「賢者さまが何かしたらしい」


「賢者さまじゃない」


 木の皿に料理が配られていく。マナ香草で味付けされた肉の薄切り。白い根のロースト。赤い茎のソース添え。見た目からして、今までの「塩と焼くだけ」とは次元が違う。


 ──と、誰かが皿を受け取るなり、待ちきれないように齧りついた。


「うっめぇ!」


 大声。第一声がそれだった。


 がっしりした体格の男が、肉を片手で掴んだまま目を丸くしている。この間の開拓で合流した新顔だ。名前は──確かハンス。


「ちょっと! ちゃんと噛みなさい! 喉に詰まるわよ!」


 マーレンが即座に怒鳴ったが、ハンスは気にする様子もなく二口目を頬張った。


「いや待てマーレンさん、この肉すげぇぞ。表面の焦げ目がぱりっとしてて、中は柔らけぇ。噛むと──なんだこれ、花みてぇな匂いが鼻に抜ける」


 手が止まらない。三口目。四口目。すさまじい勢いで皿が空になっていく。


「あと、この赤いやつ。酸っぱくて肉の脂を切ってくれる。これがねぇと重くなるから、ちょうどいい」


 的確だった。


 マーレンが少し驚いた顔をしている。赤い茎のソースは、まさに脂の重さを軽くするためにレシピに加えた一品だ。味覚だけは妙に鋭い男らしい。


「……あんた、食い意地だけじゃなくて舌も立つのね」


「うまいもん食う時だけは真剣だからな!」


 ハンスがからからと笑う。底抜けに陽気な笑い方だった。


 だが、空になった皿をじっと見つめた瞬間、ほんの一瞬だけ声が低くなった。


「……旧大陸じゃ、明日食えるかも分かんなかったからな。食えるうちに食う。それが俺の信条だ」


 軽い口調だった。笑顔も崩していない。けれど、その一言の裏にある重さは──聞き流せるものじゃなかった。


 すぐにハンスは「おかわり!」と手を挙げて、場の空気を自分で塗り替えた。


 ハンスの「うっめぇ!」が合図になったように、住民たちが一斉に食べ始めた。


「うまい!」「なにこれ!」「今までの飯と全然違う!」


 歓声が広場に弾けた。肉を噛む音。驚きの声。笑い声。木の皿を抱え込んで離さない者。もう一切れと手を伸ばす者。


 その中に、見覚えのある顔があった。


 カルルだ。足の怪我で休んでいたはずだが、いつの間にか席に着いている。動きはまだ慎重で、右足をかばうようにそっと伸ばしているけれど、表情は穏やかだった。


「カルル、大丈夫なのか」


「ええ、もう大分。明日から作業にも少しずつ戻れそうです」


 静かに肉を一切れ口に運んで、目を細めた。


「……うまい、ですね。こんな飯が毎日食べられるなら、怪我した甲斐がありましたよ」


 冗談を言えるくらいには回復したらしい。よかった。怪我人が出ると集落の作業効率が落ちるからな。──それだけだ。別に心配していたわけじゃない。


 カイは、静かに食べていた。


 黙々と。一口ずつ。噛みしめるように、ゆっくりと。


 二切れ目を口に運んだ時、箸が止まった。


「……う」


 声が震えている。


「うめぇ……」


 カイが、腕で目を擦った。鼻を啜る音。


「旧大陸でも、こんな飯食ったことねぇんだよ……俺たちは奴隷だったからな。硬い黒パンと水っぽいスープだけだ。肉なんて年に一回食えるかどうか。それが──こんな……」


 声が途切れた。三切れ目を、震える手で口に運ぶ。


「……うめぇなぁ」


 近くの住民たちが、何人かうなずいた。目を潤ませている者もいる。


 マーレンが腰に手を当てて、どこか誇らしそうに笑った。


「あんたたち、もっと食べなさい。今日はたくさん作ったからね」


 歓声がさらに大きくなる。広場全体が、温かな賑わいに包まれていた。


 俺は長机の端に移動して、騒ぎから距離を取った。


 自分の皿を、静かに食べる。


 マナ香草の風味が、肉の旨味を舌の上で何倍にも膨らませる。噛むたびに新しい味が広がった。最初に来るのは塩気と脂の甘み。次にマナ香草の花のような香りが鼻に抜け、最後に赤い茎のソースの酸味がすべてを引き締める。


 ──うん。うまい。


 前世では、コンビニ弁当と冷凍食品で毎日を凌いでいた。味なんて気にしたこともなかった。こうして丁寧に作った飯を、外の風を浴びながら食べるのは──悪くない。


 いや、効率がいいだけだ。屋外で食べると片付けが楽だし。


 カイが突然立ち上がった。


「みんな聞け! この飯を作ってくれたのは、マーレンとユウトだ! 特にユウトは──」


「おいやめろカイ」


「あのまずい飯を──いや、マーレンごめん──あの普通の飯を、ここまで進化させた! ユウトの効率化がなければ、この味は──」


「カイ。感動スピーチは結構だが、俺はもう眠い」


「最後まで聞け! 俺たちはユウトに──」


 住民たちが一斉に立ち上がった。


「「「賢者さま、ありがとうございます!」」」


「だから賢者さまじゃ──」


「「「ありがたや! ありがたや!」」」


 拝むな。飯で拝むな。


「マーレン。お前、今日からこの集落の料理長な。全部任せた。俺は寝る」


「あら、任命してくれるの? いいわよ、引き受けたげる。あんたはレシピだけ出しなさい」


「それも面倒なんだが」


「却下」


 もう無理だ。逃げよう。


「俺はもう昼寝するぞ! あとは全部任せた!」


 全力でハンモックに向かって逃げる。背後からカイの「待てユウト! まだ話が──」という声と、住民たちの拍手が追いかけてきた。


 ハンモックに潜り込んで、ようやく静かになった。


 遠くから住民の笑い声と、木の皿が重なる軽い音が聞こえる。マーレンが歌うように誰かに配膳の指示を出している声。ハンスの「おかわり!」がもう三回目だ。


 ……悪くない。飯がうまいと、人は笑うんだな。


 ふと、食料庫の方向で銀色の何かが動いた気がした。


 木々の隙間に、ちらりと。小さな影。広場に漂う肉と香草の匂いを、遠くから嗅いでいるような──。


 ……まあ、気のせいだろう。あの毛玉も、今日の匂いには惹かれたのかもしれない。


 今日は、よく眠れそうだ。

お読みいただきありがとうございました!


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