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第44話「覗き防止は紳士の嗜み」

 暑い。


 この大陸に来て初めて「暑すぎて昼寝できない」という深刻な問題に直面した。

 そして、暑さよりもっと深刻な問題が──マーレンが上着をはだけた。


「あっつ……ユウト、今日やばくない? あたし溶けそう」


 マーレンが首筋の汗を手の甲で拭いながら、上着の前を大きく開けた。亜麻の下着越しに、汗で張りついた鎖骨のラインが見える。


 目を逸らす。全力で逸らす。


 ……見てない。俺は何も見てない。同居人の鎖骨など、視界に入っていない。


 畑では女性の住民たちも次々と上着を脱ぎ始めていた。薄着で農作業する彼女たちの間を、どこを見ていいかわからない顔で通り過ぎる男たち。


 わかる。気持ちは痛いほどわかる。


 そんな中、俺の【効率化】が実に余計なことを始めた。


 ──視界に、淡い青の幾何学模様。


「分析不要。却下」


 声に出して拒否したが、スキルは止まらない。


 『現在の視線配分──前方六十三パーセント、左方向二十二パーセント、右方向十五パーセント。左方向の比率が高い。原因は不明だが、左方向にはマーレンが立っている』


 原因は不明じゃない。お前が一番わかってるだろ。


「ユウト、顔真っ赤よ? 暑さのせい?」


「暑さのせいだ。百パーセント、暑さのせいだ」


 マーレンがにやりと笑ったが、追及はしなかった。今回だけは助かった。


 逃げるように広場を離れ、集落の外れにある水浴び場に向かった。暑いなら水を浴びればいい。効率的な体温調節だ。


 草を踏む足元から、じっとりとした湿った熱気が立ち上る。額の汗が顎を伝って落ちた。こんな日に労働なんて人間のやることじゃない。水浴びして昼寝する。それが正しい生き方だ。


 だが──水浴び場の構造を見た瞬間、俺は立ち止まった。


 【効率化】が、今度は的確な仕事をした。


 水浴び場は川から引いた水路の分岐点に作られた簡素な囲い。腰の高さの板壁で三方を囲み、一方は入口として開放されている。


 問題は──角度だ。


 広場から水浴び場に向かう道のカーブ。見張り台の高さ。畑の南端からの視線。


 全部、見える。


 この水浴び場は、構造的に覗き放題だ。


「……前世なら即通報案件だぞ、これ」


 今まで問題にならなかったのは、住民の大半が男で、女性が使う時間が暗黙的にずれていたからだろう。だが暑くなれば昼間にも水を浴びたくなる。


 このまま放置するか?


 ──できない。俺だってこの構造じゃ落ち着いて使えない。丸見えは無理だ。前世の倫理観的にも。


 しゃーない。自分が快適に使うためにも、直すか。


 【効率化】で設計を引いた。現状の問題点が頭の中に一瞬で展開される。視線の侵入経路が七本。うち三本は日常的な動線と重なっている。普通に通りかかるだけで中が見える。


 よく今まで問題にならなかったな。


 板壁の高さを百八十センチに。入口に九十度のL字曲がりを設けて、外からの直線視線を完全に遮断。上部に傾斜つきの庇をつけて、見張り台の高さからも死角にする。


 完璧だ。


 と──【効率化】がまた余計なことを始めた。


 『視線遮断率──現状三十七パーセント。改修後九十九・八パーセント。残り〇・二パーセントは上空からの侵入経路で──』


「上空は考慮しなくていい。鳥でも来ない限り問題ない」


 『推奨追加設計──天蓋の設置。密着時の体温効率を考慮した換気口の配置──』


「密着がどうとか言うな。設計に関係ない情報を混ぜるな」


 スキルとの不毛な口論を切り上げ、ドスに板材の加工を頼んだ。


「よし、任せとけ。エルマ、板を切るぞ」


「はい!」


 ドスの横で、エルマが腕まくりをして木材を運び始める。昨日も一昨日も、この二人は土木班としてあちこちの補修作業に追われていた。今日の水浴び場改修も、ドスにとっては「いつもの仕事」らしい。


 改修が始まると、騒ぎを聞きつけたのか、リタとノルが駆けてきた。


「ししょー! なにしてるの!?」


 リタが目を輝かせて現場に突っ込んでくる。昨日の食材探索に引き続き、この子の好奇心には上限がないらしい。


 その後ろから、ノルが小走りでついてくる。六歳の短い足では、八歳のリタに追いつくだけでも大変そうだ。


「水浴び場の改修だ。危ないからあんまり近づくな」


「かいしゅう? かっこいい!」


 かっこよくはない。覗き防止だ。


 リタはまったく聞いていなかった。積まれた板材の山に駆け寄り、ドスが使っている大きな鉋に手を伸ばす。


「やめ──」


 俺が声を上げるより先に、ドスの太い腕がリタの前に伸びた。


「おいガキ、刃物に触るんじゃねぇ」


 ドスの声は荒いが、リタの体には触れていない。大きな手のひらで、鉋との間に壁を作っただけだ。がさつに見えて、この男は子供の扱いがうまい。


「えー、ちょっとだけ!」


「ちょっとでもダメだ。エルマ」


「はい! リタ、ノル、危ないから向こう行って!」


 エルマが板材を下ろして、二人の前にしゃがみ込んだ。声は強いが、顔は心配そうだ。土木班の見習いとはいえ、現場の安全を守る責任感はしっかり育っている。ドスの教育の成果だろう。


「エルマねえちゃん、あたしもお手伝いしたい!」


「子供の仕事じゃないの。ほら、あっちで遊んでて」


 エルマがリタの背中をそっと押す。リタは不満そうに頬を膨らませたが、渋々と離れていった。


 その間──ノルは、リタの服の裾をぎゅっと握ったまま一歩も動かなかった。


 鉋の刃が怖かったのだろう。ドスの大声にも身を縮めていた。だがリタから離れようとはしない。小さな指が、リタの粗い麻の服を白くなるほど握り締めている。


「ノル、だいじょーぶだって! 怖くないよ!」


 リタがノルの手をぽんぽんと叩く。ノルは何も言わず、ただリタの服を握る力を少しだけ緩めた。


 ……あの子なりの信頼の表し方なんだろう。泣きそうな顔をしているくせに、リタの傍を離れない。


 二人が少し離れた木陰で遊び始めたのを確認して、作業を再開する。


 ドスが加工した板をエルマが運び、俺が指示した位置に住民が組み上げていく。【効率化】のおかげで手順は明確だ。釘の位置、板の角度、補強の入れ方──全て最適解が見えている。


 本来なら設計だけ出して昼寝するつもりだった。だが暑さで誰の効率も上がらず、結局俺も板を運ぶ羽目になった。楽をするために働く。毎度おなじみの矛盾だ。


 二時間ほどで完成した。


 汗だくだ。シャツが肌に張りついて気持ち悪い。だが出来栄えは悪くない。簡素な囲いだった水浴び場が、しっかりとした目隠し構造に生まれ変わった。切り出したばかりの板から新鮮な木の匂いがする。内側は板の隙間から風が通り抜ける構造で、蒸し暑くもならない。


 俺が最初に水を浴びたい。


「へえ……やるじゃない」


 マーレンが完成した水浴び場を見回し、腕を組んで頷いた。


「入口がL字になってるから、外から絶対に見えないのね」


「構造を見たら問題点が明らかだっただけだ」


「ふうん。覗き防止なんて作っちゃって。やましい心の証拠ね」


「違ぇよ! 構造の問題を指摘しただけだ!」


「じゃあなんで顔赤いの?」


「暑いからだ!」


 マーレンが悪戯っぽく笑う。この人は何でもからかいの材料にする。姉御というより、もはや天災だ。


 そこへ、改修の噂を聞きつけた女性住民たちがぞろぞろとやってきた。


「わあ、すごい! これなら安心して入れます!」


「賢者さま、ありがとうございます!」


「賢者さまが女性のために覗き防止を! なんてお優しい……」


「そういう話じゃ──」


「さすが賢者さま!」「ありがたや!」


 拝むな。覗き防止で拝むな。


 抗議は感涙に掻き消された。覗き防止を作っただけで英雄扱い。この集落の崇拝基準がどんどんおかしくなっている。


 ……もう何を作っても崇拝されるのだろう。諦めよう。いや、諦めたくはないが。


 夕暮れ。ようやく涼しくなった風を浴びながら、ベンチに座る。


 今日も昼寝はできなかった。暑さと覗き防止のせいだ。誰のせいでもない。絶対にマーレンの鎖骨のせいではない。


 ふと、キッチンの方向から、今まで嗅いだことのない匂いが漂ってきた。


 マーレンが、昨日俺が見つけたマナ香草を使って何か作っているらしい。花のような芳香と、肉の焼ける脂の匂いが混ざって、なんとも言えない食欲を刺激する香りになっている。


 ……悪くない匂いだ。明日が少し楽しみかもしれない。


 いや、楽しみではない。効率的な食事に期待しているだけだ。

お読みいただきありがとうございました!


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