第38話「完璧な昼寝と、二つの異変」
目が覚めた。
木漏れ日がハンモックの上にまだらな影を落としている。風が頬を撫でる。鳥の声。遠くで水路を流れる水音。腹は減っていない。誰にも呼ばれていない。
──完璧だ。
これぞ俺が夢に見た、何もしなくていい朝。いや、もう昼か。太陽の位置からして、とっくに午前の作業時間は過ぎている。
だが俺には関係ない。引退したのだ。昨日あの手順書を叩きつけた瞬間から、この集落における俺の仕事は消滅した。
ハンモックの網目から薄目を開けて集落を眺める。
カイが手順書を片手に声を張り上げ、建築班が二棟目の家屋の柱を立てている。農業班のドスが水路の分岐点で流量を調整し、カルルが木材の寸法を測って鉈を振るう。
全員が手順書通りに動いている。
誰一人として、俺の方を見ない。
「…………」
いいことだ。最高だ。俺が作った仕組みが完璧に機能している証拠じゃないか。
俺はハンモックの中で寝返りを打ち、反対側を向いた。目を閉じる。
……。
…………。
………………暇だ。
いや、待て。暇なのは良いことだ。暇こそが俺の求めていたものだ。暇を手に入れるために前世の記憶を絞り出し、チートの【効率化】を酷使し、夜な夜な木簡に文字を彫り続けたのだ。
暇、最高。暇、万歳。
「……暇すぎて死にそうだ」
駄目だった。一時間で限界が来た。
ハンモックから降りて伸びをする。肩が鳴った。空が青い。雲が白い。風が気持ちいい。だから何だ。
集落の中央広場では、マーレンが大鍋をかき回しながら昼飯の仕込みをしている。その横を住民たちが忙しそうに行き交い、誰もが自分の持ち場で汗を流している。
俺だけが、何もしていない。
……いや、これでいい。これが理想だ。俺は仕組みを作る人間であって、仕組みを回す歯車じゃない。完成した以上、設計者の出番は終わりだ。
ただ、その、なんというか。少しだけ手持ち無沙汰というか。
「散歩だ」
俺は誰に言うでもなく呟いた。
「暇だから散歩をする。別に、集落の連中が俺を必要としていないのが寂しいとか、そういうことでは一切ない。断じてない。ただの散歩だ。前世で過労死した反省を活かした、極めて合理的な運動だ」
早口で言い訳を並べながら、南門を抜けた。
柵の外に出ると、空気が変わった。
集落の中は木の匂いと煙の匂いが混じった、人の暮らしの気配がする。だが柵の外は違う。湿った草の青臭さ。土の重たい匂い。遠くの花が混じった甘い風。マナに満ちたこの大陸の、濃密な自然の息吹が肺を満たした。
南に広がる草原は、腰の高さまで伸びた緑の草が風に揺れて波のようにうねっている。空が広い。どこまでも続く緑と、その向こうに霞む地平線。
前世では見たこともない景色だ。あの狭い事務所の蛍光灯の下で死んだ俺が、今こうして風に吹かれている。それだけで、まあ、悪くはない。
のんびりと草原の縁を歩く。穂先が膝を撫でるくすぐったさを感じながら、何も考えずにぼんやりと──
足が止まった。
「……なんだ、これ」
草が、不自然に倒れている。
幅は三歩分。草が根元から踏み潰され、地面がむき出しになった筋が、南の方角へ真っ直ぐに伸びていた。獣道だ。だが俺がこれまで見てきたどの獣道とも規模が違う。
踏み倒された草の断面はまだ青みが残っている。ここ数日のうちに何かが通った痕だ。
足跡を見つけた。
──でかい。
俺の足の三倍はある。爪の跡が深く地面にめり込み、湿った土がえぐれて窪みに水が溜まっていた。この森の周辺にいる狼型や猪型の魔物と比べても、倍以上の大きさだ。
しかもこの足跡、一つじゃない。重なり合うように何頭分もの巨大な足跡が獣道に刻まれている。
群れだ。
こんな巨大な何かの群れが、集落からそう遠くない草原を通っている。
腹の底が、すっと冷えた。
「……柵を確認しておくか」
散歩の目的が変わった。いや、最初から目的なんてなかったが。
俺は獣道に背を向け、集落の方へ足を向けた。帰り道、西の端を回り込むように歩く。柵の状態を外側から見ておこうと思ったのだ。
引退した人間のすることではない気がするが、まあ、自分が寝る家の安全確認くらいは怠惰の範囲内だろう。
西側の柵に沿って歩いていると、ふと視界の端で何かが光った。
足を止めて、西の森の方角を見る。
──また、あの光だ。
原生林の奥、木々の隙間から何かが明滅している。蛍の光とは色が違う。もっと冷たい、蒼白い輝きだ。
前にも見た。最初の家が完成した夜、窓から西の森を眺めた時に同じ光が瞬いていた。
あの時は気のせいだと思った。だが二度目となると、話が変わる。
光は一定の間隔で明滅を繰り返している。自然の現象にしては規則的すぎた。まるで何かの合図のような、意図的なリズム。
目を凝らす。だが森の奥は暗く、光の正体までは見えない。木々の葉擦れの音に混じって、何か別の気配がある気がした。
風が変わった。森の方から吹いてくる風に、花でも草でもない不思議な甘い匂いが混じっている。嗅いだことのない香りだ。
「…………」
好奇心がないと言えば嘘になる。
だが、あの森に踏み込むのは面倒だ。道もないし、藪を漕いで進むなんて想像するだけで疲れる。第一、俺は引退したのだ。未知の光を調べに行くのは引退した人間の仕事ではない。
光がもう一度、ゆっくりと瞬いた。
その瞬間──視線を感じた。
森の奥から、誰かがこちらを見ている。そんな感覚が背筋を走り抜け、俺は思わず一歩後ずさった。
だが、次の瞬間にはもう何もない。光は消え、風は普通の森の匂いに戻り、視線の気配も霧のように薄れていた。
「……気のせいだな」
自分に言い聞かせて背を向ける。
集落に戻ると、何事もなかったかのように仕組みが回っていた。カイの号令、鉈の音、水の流れ、飯の匂い。俺がいなくても完璧に動く、俺の作った世界。
ハンモックに倒れ込む。
目を閉じても、頭の中に二つの像がちらつく。
南の草原に刻まれた、巨大な足跡の群れ。西の森の奥で瞬く、冷たい蒼白の光。
南と西。二つの方角から、何かがこの集落ににじり寄っている。
「……せっかくの完璧な引退初日が、もう台無しだ」
ハンモックが風に揺れる。空はまだ青く、雲はまだ白い。
だが、さっきまでと同じ空には、もう見えなかった。
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