第34話「風呂と、背中と、任せる勇気」
「……ここは?」
翌朝、カイの目がゆっくりと開いた。ぼんやりとした瞳が天井のテント布を映し、焦点が合うまでに長い間があった。
「目が覚めたか、この過労の権化。──まず水を飲め。話はそれからだ」
枕元に用意してあった白湯の椀をカイの口元に持っていく。蜂蜜をたっぷり溶かした、マーレンの差し入れだ。
カイがゆっくりと白湯を飲み下す。──よし、まだ生きてる。こいつが死んだら俺が全部やる羽目になるから確認しているだけだ。
「ユウト……俺は、どれくらい寝て……」
「丸一日だ、馬鹿が」
カイが目を見開いた。毛皮の布団から跳ね起きようとして、がくんと力が抜けて倒れ直す。
「丸一日!? 現場は、建設は──」
「寝てろ」
俺は片手でカイの肩を押さえつけた。こいつの肩幅は俺の一・五倍はあるが、今の弱り切った身体なら片手で十分だ。
「お前が寝ている間に現場が止まったか? 止まってないだろう。テオが作業班に声をかけて、俺の描いた図面通りに柱を立ててる。カルルが寸法を測って、ドスが丸太を運んでる。お前がいなくても回ってるんだよ、仕組みってのは」
「でも、俺が確認しないと──」
「確認なんかしなくていい」
俺は壁にもたれて、深くため息をついた。こんな説教は死んでもやりたくないが、言わないとこいつはまた同じことを繰り返す。
「いいか、カイ。お前は馬鹿だ」
「……いきなりひでえな」
「お前が全部一人でやるのは、一番まずい手順なんだよ。お前が建材を運び、お前が寸法を測り、お前が飯の配分を決め、お前が柵を直し、お前が見回りをする。一つの場所に全てを詰め込んだら、そこが潰れた瞬間に何もかもが止まる。──お前が昨日やったのは、まさにそれだ」
カイが唇を噛んだ。
「お前の仕事は、手を動かすことじゃない。割り振ることだ。テオに任せろ、カルルに任せろ。お前が信じて連れてきた連中だろうが」
「……でも、俺がやらなきゃ──」
「不安にさせとけ。不安なまま自分の頭で動く方が、お前一人に頼り切るよりマシだ」
カイの目が潤んだ。
「俺が楽をするには、お前が楽をしなきゃいけないんだ。お前が倒れたら全部俺に来る。それだけは死ぬほど嫌だ。──頼むから、楽をしてくれ」
「……お前、それは説教か? 励ましか?」
「どっちでもない。俺の昼寝を守るための自衛策だ」
カイが、くしゃりと顔を歪めて笑った。泣き笑いだった。
「……わかった。任せてみる」
「最初からそうしろ」
──さて。
「話は変わるが、俺は風呂に入りたい」
「……は?」
カイが素っ頓狂な声を上げた。さっきまでの空気が一瞬で霧散する。
「昨日の豪雨で泥まみれだ。お前も泥だらけだ。集落全体が泥臭い。こんな不衛生な状態で気持ちよくサボれるわけがないだろう」
「いや、風呂って……旧大陸でも浴場なんて貴族の──」
「知るか。俺は湯に浸かりたいんだ」
頭の中で、あの声が起動する。
『太さ三尺以上の丸太をくり抜き、壁は拳ひとつ分を残す──底部に竈を組み、水路から竹管で直接給水すれば手間が省ける──この土地の水はマナを多く含み、一度沸かせば冷めるまでの時間がおよそ倍になる』
丸太くり抜きの桶に、下から火を焚いて湯を沸かす。前世の記憶にある入浴の仕掛けだ。追い炊きの手間も省ける。最高だ。
テオとカルルを呼びつけ、木の板に炭で図を描いて渡す。
「これの通りに作れ。半日で足りる」
「こ、これは何ですか、大賢者様?」
「湯を沸かして体を沈める桶だ。いいから急げ」
大賢者様の御指示とあらば、二人は意味がわからなくても全力で走る。崇拝も使いようだ。
昼過ぎ。水路のそばに丸太くり抜きの大桶が完成していた。火を入れると、白い湯気がもうもうと立ち上る。手を入れてみる。
『入浴に適した湯温──心地よいが長く浸けると肌が赤くなる程度』
よし。
「カイ、来い」
「えっ、俺?」
「お前が第一号だ。泥まみれの身体で毛布に包まってるのは不衛生極まりない。さっさと入れ」
半ば引きずるようにして桶の前まで連れてきた。カイがおっかなびっくり巨体を湯に沈めていく。
肩まで浸かった瞬間、カイの目が大きく見開かれた。
「……あったかい」
声が震えていた。ぎゅっと目を閉じて、カイがゆっくりと桶の壁にもたれかかる。強張っていた顔が、湯の熱に負けるように解けていく。
「こんなの、生まれて初めてだ……」
「……大げさなんだよ」
俺は目を逸らした。目の端が少し熱かったが、湯気のせいだ。
*
夜。
住民たちが順番に湯浴みを終えた頃、俺はようやく自分の番を確保した。ゆっくりと桶に身を沈める。
ああ──極楽だ。前世でも、湯に浸かるあの時間だけは唯一の救いだった。全身の力が抜けていく。このまま三時間くらいサボっていたい。
「あら、まだ入ってたの」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返る前に、ばしゃりと水音がして、湯が大きく揺れた。
「ちょっ──マーレン!? 何してる!?」
「何って、あたしも入るのよ。最後の湯が残ってるって聞いたから」
「待て! 男と女で分けるって概念がないのか! 出ろ!」
「あらあら、この湯気でなーんにも見えないでしょ?」
確かに見えない。だが見えないからといって問題がないわけでは断じてない。
背中に、柔らかいものが触れた。
「ほら、背中くらい流してあげるわよ。泥がまだちょっと残ってるじゃない」
「い、いい! 自分でやる!」
「いいからいいから」
マーレンの手が、俺の背中に直接触れた。
湯で温まった掌が肩甲骨の間を滑っていく。素手の、生身の感触。指先が背骨をなぞるたびに、湯の熱さとは違う温度が背中から腹の底へ落ちていく。
「力、抜きなさいよ。ガチガチじゃない」
「誰のせいだと思ってる……」
「さあ、誰のせいかしらね」
くすくすと笑う声が、耳のすぐ後ろで。近い。湯気の向こうに、マーレンの濡れた赤い髪が白い首筋に張り付いているのがぼんやりと見えた。それ以上は見ないようにした。見たら負けだ。
「──ユウト」
「なんだ」
「あんた、今日はよくやったね」
その声に、からかいの色はなかった。
柔らかい掌が背中の真ん中で止まって、ぽん、と軽く叩いた。まるで労いの合図のように。
「カイにあんなこと言えるの、あんただけよ」
「……俺が楽したかっただけだ」
「ええ、知ってるわ」
マーレンの声が、やけに優しかった。俺の顔が熱い。湯のせいだ。断じて湯のせいだ。
「……次は必ず仕切りを作る」
「あら、次もあるの? 嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「そういう意味じゃない。出ろ。今すぐ出ろ」
マーレンが笑いながら湯から上がっていく気配がして、ようやく心臓がまともな速さに戻った。あの女は距離の取り方がおかしい。
桶から這い出すと、建設中の家屋の骨組みが月明かりの下で銀色に光っていた。あと数日で、最初の一棟が完成する。
「風呂もできた。家もできる。……そろそろ本格的に、何もしない日々が来るはずなんだが」
ふと、背後の森から湿った風が吹いた。木々の奥で何かが軋むような、低い音が一瞬だけ聞こえた気がした。
振り返っても、月明かりに照らされた木々が揺れているだけだ。
——気のせいだろう。そう思い込むことにして、俺は濡れた髪を拭いた。
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