第33話「壊れた歯車と、最悪の雨」
空が割れたかと思った。
一瞬で視界が白く塗り潰され、叩きつける雨粒が肌を打つ。森の木々が風に煽られて悲鳴のような軋み声を上げる。
こんな日は絶対に外に出たくなかった。
「足元が滑って危ない。今日は全員テントで休め」
そう号令を出した直後のことだった。
「カイさんが──カイさんが倒れたっ!!」
テオの悲鳴が、轟く雨音を突き破って俺の耳を叩いた。
……嘘だろ。
泥を蹴散らしながら建設現場に駆けつける。腐った落ち葉と湿った土が混じった生臭い匂いが鼻を突いた。そして、最悪の光景が目に飛び込んできた。カイが泥の中にうつ伏せで倒れている。顔面の半分が黒い泥水に沈み、担いでいたらしい丸太が足元に転がっていた。
俺の休工命令を無視して、一人で現場に出たのだ。この、大馬鹿が。
周囲に五、六人の開拓民が集まり、ただ狼狽えて突っ立っている。
「大賢者様! どうかカイさんをお救いください!」
「だ、どうすれば……」
全員、雨に打たれて青ざめた顔をしていた。俺に縋るような目を向けてくる。
……やめろ。俺は医者じゃない。
だが、泥水の中から引きずり上げられたカイの顔を見た瞬間、苛立ちが一気に沸騰した。焼けた鉄のように赤黒く、異常な熱を帯びている。呼吸は浅く速い。唇の色が紫がかっている。
高熱。脱水。栄養失調。筋肉の極度の疲労。全部が一気に来ている。
一瞬だけ、息が詰まった。胸の奥を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。
──が、すぐに舌打ちが口をついた。
「チッ……おい、突っ立ってんじゃねえ! まず屋根の下に運べ! ぼさっとするな!」
怒声に弾かれたように男たちがカイの巨体を担ぎ上げる。冷たい雨が容赦なく全員の体を叩き続ける中、俺たちはカイのテントまで運び込んだ。
テントの天幕に当たる雨音が、太鼓を百個並べたような轟音を響かせている。泥だらけのカイを寝台に横たえ、泥水を吸った上着を引き剥がす。
こいつの体が、こんなに痩せていたとは知らなかった。
俺は目を閉じ、頭の中で【効率化】に問いかけた。こいつを死なせない手順を出せ。
脳裏に、静かな声が響く。
『まず体温の安定を優先すること──濡れた衣服を除去し、乾いた毛皮で腹部から温める。手足の末端は後回しでよい。次に水分──煮こぼした白湯を少量ずつ与え、一度に大量に飲ませないこと。最後に栄養──蜂蜜があるなら、白湯に溶かして与えるのが最も吸収が早い』
体温。水分。栄養。この順番か。人の体の回復にも最適な順序がある。──使えるな、この能力は。
「マーレン!」
テントの入口で雨に濡れたまま立っていたマーレンに、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「煮こぼした白湯を作れ。川の水をそのまま使うな、必ず一度沸かせ。それから食料庫の蜂蜜だ。白湯に溶かして持ってこい」
「わかった!」
「テオ、乾いた毛皮を三枚。一番厚い奴を急いで持ってこい」
テオが飛び出していく。俺はカイの冷え切った肌を乾いた布で拭き、運ばれてきた毛皮を腹部から順に三枚重ねて被せた。末端よりもまず体の芯を温める。
しばらくして、マーレンが湯気の立つ木椀を抱えて戻ってきた。琥珀色の液体から甘い香りが立ち上る。
この島の蜂蜜は、マナを含んだ花から集められた濃厚な代物だ。少量でも体の芯に熱が灯る。普段は贅沢品として温存してあるが、今はそんなことを言っている場合じゃない。
「口を開けさせろ。少しずつだ。一気に流し込むな」
マーレンがカイの頭を支え、俺が木匙で蜂蜜入りの白湯を唇に運ぶ。カイの喉が微かに動いた。飲めるなら、まだ大丈夫だ。
「……あんた」
マーレンが、俺の手元を見つめながら静かに言った。
「あんた、優し──」
「うるさい。黙って手を動かせ」
遮った。即座に、全力で。
その言葉だけは聞きたくない。俺は優しいんじゃない。こいつが使い物にならなくなったら次に現場で走り回るのが俺だからだ。それ以外の理由は、ない。断じて、ない。
マーレンは一瞬だけ目を見開いてから、小さく口元を緩めた。何か言いたそうにしていたが、俺が睨みつけると黙って手を動かし始めた。
……見透かされている気がして、たまらなく面倒くさい。
外の雨は一向に弱まらない。森の木々がマナを含んだ雨水を吸い、幹が微かに蒼白く発光していた。幻想的で、不気味な夜だ。
住民たちには「全員テントで休め、外に出るな」と命じてある。カイが倒れた動揺は明日の問題だ。今は目の前のこの馬鹿だけに集中する。
……ああ、本当にめんどくさい。俺は今頃ハンモックで寝ているはずだったのに。
深夜。
雨音は相変わらず激しい。テントの中は蜂蜜と湿った毛皮の匂いが混じり合って、妙に甘ったるい空気が淀んでいた。
マーレンとテオは交代で休ませた。今はテントの中に俺とカイだけだ。
カイの呼吸は、少しずつ落ち着いてきている。断続的に蜂蜜の白湯を飲ませた効果だろう。だが、まだ意識は戻らない。
「俺が……やらなきゃ……」
不意に、カイの唇が動いた。
「みんなが……俺が……守らないと……」
うわ言だ。熱にうなされて、眠りの底からこぼれ出る言葉。
昼間の血走った怒声とは似ても似つかない、ひどく弱々しい声だった。強がりの鎧が全部剥がれた、子供みたいな声。
「……うるせえよ」
壁にもたれたまま、低く毒づいた。
「お前が倒れたら誰がやるんだよ、馬鹿が。お前が死んだら全部俺に回ってくるだろうが。俺を過労死させる気か」
返事はない。聞こえていないだろう。聞こえていない方がいい。
テントの外で、微かに足音がした。マーレンだろうか。
……別にいい。聞かれようが関係ない。俺は打算で動いている。それだけだ。
それ以上のことは、考えないようにしている。考えたら負けだ。何に負けるのかは知らないが、とにかく負けだ。
雨足がようやく弱まり始めた頃、カイの荒い呼吸が穏やかになった。眉間の皺がほどけて、苦しげだった顔に少しだけ安らぎが戻っている。
「……明日、こいつが目を覚ましたら、一つ言ってやらなきゃいけないことがある」
面倒で、本当に面倒で仕方ないが──俺の安眠のために、この馬鹿にある重要な助言をしてやる必要がある。
壁にもたれたまま目を閉じた。テントの外で、マーレンが口元だけで微かに笑ったことには、気づかないふりをした。
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