第32話「リーダーの孤独と、空回りする歯車」
おかしい。
いつもなら日が昇るかどうかという時刻にハンモックを揺さぶりに来る、あの煩い筋肉ダルマの姿が見えない。
「カイが来ないだけで、こんなに静かな朝になるんだな……悪くない」
木漏れ日が頬をくすぐる。鳥のさえずりが遠い。完璧な二度寝の条件だ。
──だが、あの男が遅刻するなんて、一度もなかった。
面倒くさい。嫌な予感は大抵当たる。
重い体を引きずってハンモックから降り、建設現場の方に足を向ける。
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カイは、現場にいた。
ただし、いつもの怪物じみた活力はどこにもなかった。
「おう、ユウト! 全部順調だ! 問題ない! 俺に任せとけ!」
顔だけが満面の笑みだ。だがその目の下に刻まれた深い隈と、微かに掠れた声が、言葉の嘘を如実に裏切っていた。
建設現場では朝一番の資材運びが始まっている。規格化された木材を定位置に並べる作業、水路の水量確認、食料の配分計算、住民からの相談対応──その全部を、カイが一人でこなそうとしていた。
「カイさん、この木材はどこに──」
「あっちだ! あとで俺が確認する!」
「カイさん、水路の堰が少し──」
「分かった! 後で見に行く!」
「カイさん、朝の食事の割り振りなんですが──」
「昨日と同じでいい! ……いや待て、畑の収穫分が変わったから……えーと……」
カイは丸太を三本まとめて肩に担ぎながら、立ち止まって頭を掻いた。額から汗が滴り落ちるのを拭いもしない。
その瞬間、地面の石に足を引っかけて大きくよろめいた。
「──っと! 大丈夫だ、なんでもない!」
すぐに体勢を立て直して、何事もなかったかのように笑う。だが膝が一瞬、明らかにガクンと折れかけたのを、俺は見逃さなかった。
あれは、限界が近い人間の足だ。
俺がこの仕組みをカイに任せた時、「お前が指示を出して、みんなに動かせろ」と言ったはずだ。なのにこの馬鹿は、指示を出しながら自分も最前線で丸太を担いでいる。しかも他の全員分の雑務まで抱え込んで。
笑えるほど必死だった。最初は笑えた。だが今は、もう笑えない。
「……やれやれ」
俺はそのままハンモックに戻って目を閉じた。あいつの問題だ。あいつが好きで全部抱え込んでいるんだから、俺が口を挟む筋合いはない。
そう自分に言い聞かせて、二度寝を試みた。
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昼過ぎ。ハンモックでうとうとしていると、小さな影が近寄ってきた。
「あの……ユウト様、少しよろしいですか」
テオだ。元は旧大陸で穀物商をやっていたという、ひょろりとした中年の男。辺りを見回しながら声を潜めている。
「……なんだ。俺は今から至福の午睡を──」
「カイさんのことなんです」
閉じかけた瞼が止まった。
「最近、カイさんに相談しても返事が上の空で。前は一人ひとり顔を見て聞いてくれたんですが、今は目が泳いでて」
「忙しいんだろ。あいつに直接言え」
「言ったんです。でも、『大丈夫だ、任せとけ』って。それで話が終わっちゃうんです」
テオの声がさらに小さくなった。
「あと、食事の割り振りが偏ってきてて。うちは一人分足りなかったのに、『文句を言うな』って怒鳴られて……正直、最近ちょっと怖いんです」
テオの指先が、無意識に自分の袖口をぎゅっと握り込んでいた。
聞きたくなかった。本当に聞きたくなかった。
「分かった。まあ、気にしすぎるな」
テオを適当にあしらって追い返す。俺はハンモックの上で天井代わりの木の枝を見上げた。
面倒くさい。心底面倒くさい。
だが、認めざるを得ない事実が一つある。俺がカイに「全部任せた」と言った結果、あの馬鹿正直な男は文字通り「全部」を自分一人で背負い込んでいる。
委任というのは、「お前が全部やれ」じゃない。「お前が適切に割り振れ」だ。だがカイは、旧大陸の開拓隊で叩き込まれた『隊長は一番先頭で、一番多く汗をかくべし』という古くさい規範を骨の髄まで信じ込んでいる。
結果、俺の作った仕組みは、カイという一個の人間の体力だけで回っている歪な状態になっていた。
あいつが壊れたら、この仕組みごと全部止まる。止まったら──。
「……まあ、あいつが倒れたら次に働かされるの俺だしな」
それだけは絶対に嫌だ。
だが今すぐ何かしたいかと言えば、何もしたくない。このまま昼寝していたい。
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日が傾き始めた頃、焚き火の近くで干し肉を齧っていると、背後からずかずかと大股で近づいてくる足音がした。
「ユウト」
マーレンだ。いつもの笑顔はなく、腕を組んで俺を見下ろす目にはっきりとした苛立ちが浮かんでいた。
「あんた、気づいてないの?」
「何がだ」
「カイ。もう三日、ろくに寝てないよ」
三日。道理で、あの異常な隈と足の震えに説明がつく。
「深夜に水路の見回りをして、明け方に食料の帳面をつけて、日が昇ったら現場に出て。昼飯もまともに食べてない。あたしが何度差し入れしても、『後で食う』って言って、結局冷めた芋を一口齧って終わり」
マーレンの声には、普段のおおらかさの欠片もなかった。心配が怒りに変わりかけている、あの危うい温度だ。
「あたし、別にあんたを責めてるわけじゃないよ。でもさ──あんたがカイに全部押し付けたんじゃないの」
干し肉が喉に引っかかった。
「……押し付けたんじゃない。任せたんだ」
「任せた結果がアレなら、同じことでしょ」
返す言葉が出てこなかった。
マーレンは腕を組んだまま、建設現場の方をじっと見つめた。日が沈みかけた薄暗い光の中で、まだカイの影が動いている。誰よりも大きな影が、誰よりも遅くまで動き続けている。
「あたしに何をしろって言うんだ」
「さあね。あんたの頭で考えなさいよ。あたしよりずっといい知恵が出るでしょ」
マーレンはそれだけ言い残して、夕飯の支度に戻っていった。
面倒くさい。本当に、人の心ってやつは、どんな仕組みを作っても効率化できない。
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夜。
焚き火も消え、集落が寝静まった頃。俺は寝台から起き上がって、テントの隙間から外を覗いた。
見なければいいのに。見たら最後、面倒なことになると分かっているのに。
月明かりの下で、カイが一人で柵を直していた。
昼間、獣避けの柵の一部が傾いているのを俺もちらりと見ていた。明日でいい仕事だ。わざわざ真夜中にやるようなことじゃない。
だがカイは、黙々と杭を打ち込んでいる。槌を振り上げる腕の動きが、明らかに鈍い。振り上げるたびに一瞬止まって、力を入れ直してから振り下ろす。時折、膝がカクンと折れそうになるのを歯を食いしばって堪えている。
マナに満ちた森の夜気が、木々の葉に宿った露を蒼白く光らせていた。その冷たい光に照らされた、汗と泥にまみれたカイの広い背中。
誰にも頼らず、誰にも弱さを見せず、自分だけで全てを支えようとしている馬鹿みたいに不器用な男の後ろ姿。
「……やめろよ。そういうの見せられると、俺まで罪悪感みたいなクソめんどくさいものを感じちまうだろうが」
誰にも聞こえない声で呟いて、テントの入り口から手を離した。
寝台に戻る。目を閉じる。だが瞼の裏に、あの鈍い槌の動きがこびりついて離れない。
明日。明日、何かを──いや、何もしなくていい。あいつの問題だ。
……嘘だ。分かっている。あれを放っておいたら、近いうちにあいつは確実に壊れる。壊れたら、俺が働く。それだけは何としても阻止しなければならない。
「……ああ、クソ。面倒くさい」
天井を睨みつけながら、俺は最悪の寝つきで夜を過ごした。
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