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第30話「最初の収穫、そして飯テロ」

 くそっ、なんだこの反則的な匂いは。


 木材の規格化作業場で、見物と称した監視をしていた俺の鼻腔を、飢えた胃袋ごと容赦なく蹂躙する暴力的な匂い。


 香ばしくパチパチとはぜる獣肉の脂。青菜の焦げた甘い香り。嗅いだことのないスパイシーな刺激臭。それらが混ざり合った白煙が、中央広場からもうもうと立ち上っている。


「おい、お前ら! ノコギリを置け! 作業は全面中止だ!」


 俺が叫ぶより早く、三十人の男たちはすでに手元の木材を放り出していた。我先にと匂いの発生源へ駆けていく。


 その後を俺も小走りで追いかける。昼寝以外でこんなに急いだのは、この世界に来て初めてかもしれない。


 広場の中央に、巨大な竈が土で組み上げられていた。その上に据えられた、川から拾ってきたらしい分厚く平らな黒い石板。ガンガンに燃える薪の炎で真っ赤に熱されている。


「遅いよ、あんたたち! 一番美味いところが焦げちゃうじゃないさ!」


 熱せられた石板の前で、腰に魔物の皮の前掛けを巻いたマーレンが、太い木べらを両手に振り回して吼えていた。


 流れる汗を拭いもしない。灼熱の石板に向き合うその姿は、普段の世話焼きお姉さんからは想像もつかない気迫だ。料理をする女将というより、戦場に立つ狂戦士の顔つきだった。


「マ、マーレン……それは……」


 先頭を走ってきたカイが、よだれを飲み込みながら震える声で尋ねる。


 俺の目は、石板の上に山盛りになった『それ』に釘付けだった。


「あんたが作れって言ったあの変な畑からね、山ほど採れたのよ! しかもどれも旧大陸の貴族の畑より瑞々しいんだから! ほら、出来たてよ。食いなさい!」


 マーレンが木べらで豪快に掬い上げ、木皿に次々と叩きつけるように盛っていく。


 カイたちが西の森で狩ってきた魔物獣の分厚い赤身肉。今朝この畑で初めて収穫された、キャベツに似た甘みの強そうな葉野菜。玉ねぎのような辛味のある根菜。


 それらを野生のハーブと獣から搾った白いラードで、一気に高熱の石板で炒め上げた豪快な一皿。


 ただの野菜肉炒めだ。前世の居酒屋なら「とりあえずビールと肉野菜炒め」で出てくる、ごくありふれた大衆料理。


 だが。


 この世界に来てからずっと、カチカチの塩漬け干し肉と、石のように硬い乾パンしか口にしてこなかった俺たちにとって、それは。


「う、美味ええええええええっ!!!?」


 絶叫。いや、魂の底から絞り出した叫びか。


 熱々の炒め物を大口に放り込んだカイが、天を仰いで叫んだ。


 隣では、強面の大男が「母ちゃん……」とボロボロ泣きながら、落ちたキャベツの欠片まで拾っている。


 俺も木のフォークで分厚い肉と葉野菜を突き刺し、無言で口に運んだ。


 ──やばい。なんだこれ。尋常じゃなく美味すぎる。


 シャキシャキと弾ける葉野菜の歯ごたえに、暴力的に絡みつくアツアツの肉汁。頭の奥で【効率化】が囁いた。


『マナに満ちた土壌と最適な種の配置が相乗している──成長速度は想定の三倍。養分の蓄積も通常の倍を超えている』


 道理で甘いわけだ。野生のハーブが獣の臭みを消し去り、食欲を底なしに増幅させている。


「どう? ユウト。あんたが指示した変な種まきのおかげで、考えられないくらい最高の野菜ができたわよ」


 額の汗を手の甲で拭いながら、少し誇らしげに腰に手を当てるマーレン。


 その表情には、ただ生き延びるためだけに無味乾燥な保存食を胃に詰め込んでいた日々が終わった喜びと、大きな誇りが溢れていた。


「……ああ。百点満点中、五千点だ。俺の至高の昼寝の時間をほんの少し削ってでも、毎日起きて食いたくなる味だ」


「ふふ、そうでしょう? まだまだ作物は山ほどあるわよ! 今日はあたしたちが自力で土から本物の飯を食い上げた『第一回収穫祭』よ! 全員、腹がはち切れるまで食い尽くしなさい!」


 地鳴りのような歓声が、夜の森に響き渡った。


 同じ竈の火を囲み、自分で育てた飯を分かち合い、笑い合う。それは間違いなく、この場所が『村』になった瞬間だった。


---


 遠くでまだ誰かが歌っている。崩れかけた焚き火の薪が、ぱきり、と小さく爆ぜた。


 収穫祭の宴が終わり、満腹で幸せに眠りこけた者たちがテントで寝息を立てる深夜。


 俺は広場の焚き火のそばに一人座り、マーレンが作った野イチゴの果実酒を静かに傾けていた。甘くて弱いが、悪くない。


 泥のベッドの不快さなんて今はどうでもいい。汗を流す労働は絶対にしたくないが、俺のちょっとした口出しでこういう報酬が転がり込んでくるなら、少しの指示出しくらいは我慢してやってもいい。


「美味い……本当に美味いな、ここの飯は」


 いつの間にか隣に座っていたカイが、残りのスープをすすりながら赤い顔で笑っていた。


 だが、焚き火に照らされたその瞳の奥に、昼間の底抜けの明るさはない。どこか冷めた、沈んだ影が落ちている。


「ああ、美味い。飯の心配もなくなったし、俺の安眠生活の基盤がようやく完成だな」


 俺はカイが抱える空気に気づかないふりをして、ジョッキを空にした。


「なあ、ユウト。……俺たち、もう二度とあの海峡を越えて旧大陸に帰る気はないんだ」


 ぽつり、と。


 カイの口から零れた言葉は、ひどく重かった。俺はジョッキを口に運ぶ手を止めた。


「帰れないんじゃない。帰る意味がないんだよ、もうあっちには」


 パチパチとはぜる火の粉を見つめながら、カイは地面に吐き捨てるように言った。強い怒りと、それ以上の諦めが入り混じっている。


「どういう意味だ。悪徳領主の圧政から逃げてきただけじゃないのか」


「あっちの大地はもう、死にかけてるんだ」


「……死にかけてる? 大地が?」


「魔法を支える力──マナが枯れて、作物が育たない。最初は辺境の村から始まった。一年ごとに豊かだった土が白っぽく変色して、砂みたいにパサパサになる。何を蒔いても芽が出ない。麦も、豆も、最後には雑草すら生えなくなった」


 カイの声が低くなる。


「厄介なのはな、その『死の侵食』が少しずつ、だが確実に、王都に向かって広がってることだ」


 ……なるほど。


 俺の頭の中で、散らばっていた情報が一つに繋がった。


 こいつらがなぜ、命を賭けてこの未開の大陸まで逃げてきたのか。ただの領主の圧政ではなかった。大地そのものが死んでいく旧世界から、新しい命を繋ぐためにここへ来た難民だったのだ。


「俺たちがいた領地で、まともに作物が採れる土地はもう半分もない。領主どもは残った土地を奪い合って、あちこちで内乱状態だ。だから奴らはいずれ……」


 カイの声は、そこで途切れた。だが言わんとしていることは手に取るようにわかった。


 マナに満ち、一晩で種が芽吹くこの大陸の土壌。その噂が飢えに狂った旧大陸の王侯貴族の耳に届いたら?


 軍を組んで乗り込んでこない保証など、どこにもない。


「……めんどくさいことになりそうだな。なんで俺の昼寝が脅かされるような話がついてくるんだよ」


 俺の完全なる平穏には、まだいくつもの厄介な壁があるらしい。


 手の中の甘い果実酒を、深いため息と一緒に一気に飲み干した。


 星一つない真っ暗な空を、忌々しげに見上げる。


 ──頼むから、俺の昼寝だけは邪魔しないでくれ。

お読みいただきありがとうございました!


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