第27話「泥のベッドはもう嫌だ」
「……べちゃっ」
裸足の足元から鳴った、ひんやりとした嫌な湿った音。
俺は目を閉じたまま、行き場のない怒りに任せて深く息を吐いた。
「……最悪だ」
俺の至高の居住空間であるテントの床が、見事な泥沼と化していた。
水路開通の代償がこれだ。
原因は明らかだった。
昨夜、水が無限に手に入ることでテンションのタガが外れた開拓民の男たちが、水路で体を洗ったそのままのずぶ濡れの足で集落中を練り歩き、あるいはバケツの水を無駄に撒き散らしたりしたせいだ。
結果として、集落の柔らかい赤土の地面は大量の水分と男たちの大根のような足で踏み荒らされ、前世の田植え前の田んぼのような状態に成り果てていた。足首まで沈む。
じめじめと湿った空気がテントの中に淀んでいる。
干し草を敷いたはずの寝床は冷たい泥水を吸い込んで、もはやただの湿った土の塊だ。ここに横になったら最後、背中から泥の冷たい感触がじわりと染みてくるのは確実だった。
これでは昼寝ができない。
俺の人生の至高の目的が、根本から崩壊している。
「おいユウト! すごいぞ、村中が潤って最高じゃないか!」
泥地獄の真ん中で頭を抱えていた俺の背中に、のんき全開の太い声が降ってきた。
振り返ると、動物の皮で縫った不格好な長靴を履いたカイが、満足げな顔をして突っ立っている。こいつの足元はもちろん泥まみれだ。
「どこの夢物語の話だ。この足が沈む泥沼のどこが最高なんだよ」
「いや、だからさ! これだけ土地が潤ってりゃ、次は絶対に『畑』だろ! 皆、朝から石を研いで鍬の代わりにしようとか、もう今か今かと待ちきれない顔してたぞ!」
またそれだ。
俺は胃の奥からせり上がってくるため息を吐いた。
なぜこいつらは、少しでも暇が生まれると『休む』のではなく『新しい重労働』を嬉々として始めようとするのか。前世で「残業代のために無駄な仕事を作り出すクソ上司」を散々見てきた身としては、この労働中毒の精神構造だけはどうにも理解が及ばない。
「いいかカイ。農業ってのはな、人間が発明した中でも最高に腰と膝を壊す重労働なんだ。毎朝日の出と共に起きて、泥に膝までつかりながら延々と鍬を振り下ろす? 狂気の沙汰だ」
「でもよ、いつまでも保存食と硬い木の実じゃ皆の体がもたねえ。ユウトだって、瑞々しい野菜とか食いたくないのか?」
「食いたい。めちゃくちゃ食いたい。だがな、今の俺にはもっと深刻で、俺個人の精神に直結する死活問題がある」
「死活問題? 西の森の小舟の件か? 魔物の防衛か?」
「これだ」
俺はべちゃべちゃの泥水を跳ね上げながら、最悪な状態のテントの床を足で踏みつけた。
「俺は、ふかふかで、乾いていて、得体の知れない虫が入ってこない、ちゃんとした『家』が欲しい。この泥のベッドから脱出できない限り、俺は一切の知恵を絞らないぞ」
俺の子供のような最後通告に、カイがぽかんと口を開けた。
その顔は明らかに「村全体の食い扶持より自分の寝床が大事なのか」と呆れ果てている。
「家って……木の家を建てる気か? 正気かお前。大工の経験もない素人が、まともな建物なんか組めるわけねえだろ。石斧で木を切り倒して壁を作るだけでも何ヶ月かかることか」
「それは、お前らが無計画にとりあえず木を切り倒して、現場で継ぎ接ぎしようとするから先の見えない重労働になるんだ」
俺は泥だらけのテントから這い出し、集落の外れに真っ直ぐそびえる一本の巨木を見上げた。
太く、真っ直ぐに伸びた幹。前世で言う杉に似た、建材向きの見事な木だ。
何の気なしに、幹に手のひらを押し当てた。
その瞬間、頭の中に声が響く。
『この木、芯までマナが循環している──通常の木材と比べて約三倍の強度。しなりに強く、割れにくい。半分の太さで同じ耐荷重が得られる。乾燥も早い──伐採後七日で建材として使用可能』
……なんだと。
俺は目を見開いた。
三倍の強度。半分の太さで同じ強さ。乾燥に七日。
前世なら柱にする木材を乾かすだけで何ヶ月もかかるのに、この森の木はマナのおかげで常識が通じない。
「どうした、ユウト。木に抱きついて何やってんだ」
「黙れ。今いいことを思いついた」
俺はカイの方へ振り返り、口元に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
「いいか、カイ。家を建てるのに、大工の腕なんかいらない」
「……は?」
「最初に、全く同じ長さ、全く同じ太さの木材を大量に用意する。柱用、壁板用、梁用。それぞれ寸法が決まった『部品』を山ほど作っておくんだ。あとは現場でそれを積み木みたいに組み合わせるだけ。誰がやっても同じ家が建つ」
カイの目が限界まで丸くなる。
この世界の建築は、腕のいい職人が一本一本の木を目で見て、勘と経験で削り合わせるのが常識らしい。部品を先に揃えて、あとは組み立てるだけにするという発想がそもそも存在しない。
「しかもこの森の木は、普通の木材の三倍は頑丈だ。細い柱でも十分に持つ。つまり、切り出す量も運ぶ量も少なくて済む」
「すげえ……お前、やっぱりどこかの天才か前世の魔法使いの生まれ変わりだろ。なんでそんな知恵がポンポン出てくるんだよ」
「違う。俺はただの筋金入りの怠け者だ。自分が楽するためなら、どんな面倒な段取りだろうが一瞬で済ませる。それだけだ」
俺は巨木の幹から手を離し、広場の方を顎でしゃくった。
向こうでは三十人の筋肉の塊たちが、相変わらず俺の「次の魔法みたいな指示」を今か今かと待ちわびている。あの底なしの体力を、正しい仕掛けに注ぎ込めばいい。
「お前らには、同じ太さ、同じ長さに木を切り揃えるだけの単純な作業を延々とやってもらう。頭は使わなくていい。俺の引いた線の通りに手を動かすだけだ」
「……お前、俺たちのことを完全に自分専用の歯車だと思ってるだろ。言い方が完全に悪代官だぞ」
「歯車に失礼だろ。歯車は文句を言わずに回る」
カイは深くため息をついて、それでもどこか楽しそうに笑った。
「わかったよ、悪代官様。お前のそのくだらねえ個人的な欲求のために、野郎どもを集めてやるぞ」
親指をグッと立てるカイの背中を見送りながら、俺は泥まみれのテントを振り返った。
ぐちゃぐちゃの寝床。じめじめの空気。虫の羽音。
もうすぐ、こんな惨めな泥のベッドともおさらばだ。
ふかふかの寝床で、虫のいない部屋で、好きなだけ昼寝をしてやる。
そのためなら——家の一棟や二棟、建ててやろうじゃないか。
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