第22話「リーダーの条件と、重すぎる水桶」
「ほら、もっと急げ! 皆が壁の中で水を待ってるんだぞ!」
カイの怒号が、朝靄の残る森にこだまする。
木漏れ日が差す美しい斜面を、両手に重い水桶を下げた男たちが泥まみれでよろめいていた。前世の修羅場の再現だった。
いや、あの頃はまだ椅子に座れたぶんマシだ。
俺は集落の外れの高台——ちょうど川への道が一望できる見張り場所に腰を据えて、その地獄絵図をぼんやり眺めていた。
昨晩の水不足を受けて、今朝一番で始まった人海戦術の水汲み作戦。その指揮を、案の定カイが買って出たのだ。
片道一時間。険しい森の斜面を降りて川に辿り着き、木の桶に水を満たし、二十キロ近い重さを両手にぶら下げて、また一時間かけて登ってくる。
それを一日に何往復もだ。
「足を止めるな! 止まったらそこで終わりだ! 俺が先頭を歩くから、付いてこい!」
カイの野太い声が森に轟く。
見れば、あの馬鹿は他の男たちが一つずつ持っている水桶を、一人で二つ——しかも明らかに他の奴らの倍は水が入っている特大の桶を両肩に担いで、倍の速さで斜面を駆け上がっている。
(見てるだけでこっちまで疲れる……)
既に三往復目。開拓民たちの顔は死人同然だった。
腫れ上がった手のひらで桶の縁をかろうじて握り、膝は笑い、肺が焼けるような荒い息が白く森の冷気に溶けていく。足元の泥濘には何人もの足跡が重なり、獣道のように踏み固められていた。
それでもカイだけは止まらない。
汗が顎から滴り落ち、首筋の血管が浮き出るほど力を込めて、歯を食いしばりながら斜面を登る。
「カイの旦那、少し……少し休みませんか……」
後ろからついてきた開拓民の一人が、膝に手をついて懇願した。
「休んでどうする! 壁の中じゃ子供が喉を乾かしてるんだぞ! 立て! まだ動ける!」
……ああ、これは駄目だ。
精神論で物理的な限界は超えられない。気合いで水は増えないし、根性で足腰の疲労は消えない。
前世のクソ上司もこうだった。「気合いが足りない」「もっと頑張れ」そうやって部下の体と心を削り、自分だけは「俺だって頑張ってる」と思い込んで、全員を共倒れに追い込む。
カイと前世のクソ上司は、根本的に違う人間だ。あいつは本気で仲間を守ろうとしているし、誰よりも自分が苦しむことで責任を果たそうとしている。
だが、やっていることの結末は同じだ。
このペースなら、明日には半数が動けなくなる。
そして動ける人間が減れば一人あたりの負担が増え、さらに倒れる者が出る。負の連鎖だ。
(最悪なのは、最終的に「健康で暇そうな俺」に水汲みの当番が回ってくるところなんだよな……)
想像しただけで全身が総毛立った。
あの重たい桶を担いで往復二時間の山道を歩く。この世で一番やりたくないことの筆頭候補だ。
「ユウト、ここにいたの」
不意に背後から声がかかった。
振り返ると、木の皿に焼いた干し肉と木の実を載せたマーレンが、高台の草を踏みしめてやってくる。
「はい、朝ごはん。あんたは何もしないで座ってるだけなんだから、せめて食べて体力だけは維持しなさいよ」
「……俺が何もしてないみたいな言い方やめてくれ。頭は使ってる」
「ふふ、はいはい」
マーレンは俺の隣にどっかりと腰を下ろし、斜面を行き来する男たちの姿を眺めた。
その視線が、先頭を走るカイの背中に止まる。
「……あの子、また一人で全部背負い込んでるわね」
マーレンの声から、いつもの豪快な姉御の調子が消えていた。
代わりに滲んでいたのは、どこか痛みを堪えるような静かな色だった。
「カイのこと、あんたは前世の嫌な上司と重ねてるんでしょ。でもね、あの子がああなったのには理由があるの」
「……理由?」
「旧大陸にいた頃の話よ」
マーレンは膝の上で手を組み、少しだけ目を伏せた。
「カイの開拓団にね、年下の子が一人いたの。カイがずっと気にかけていた、弟みたいな存在だったらしくて」
風が森の枝を揺らし、木漏れ日がちらちらとマーレンの横顔に落ちる。
「旧大陸の暮らしは酷かったわ。重税に飢饉、おまけに魔物の被害。開拓民は一番下の身分だったから、まともに食料も回ってこない。カイは自分の分を削ってその子に食わせてたらしいけど——」
マーレンはそこで言葉を切り、小さく息を吐いた。
「足りなかった。全然、足りなかったのよ。その子は過労と飢えで——カイの腕の中で、眠るように死んだって」
森の静寂が、その言葉を呑み込んだ。
斜面の下から、カイの「止まるな!」という怒号がかすかに響いてくる。
「だからあの子は、自分が誰より苦しむことでしか、仲間を守る方法を知らないの。『俺がもっと頑張れば』って。あの日からずっと、自分を責め続けてる」
マーレンはそこまで言って、ふっと口調を戻した。
「まあ、あたしが知ってるのはそれだけ。細かいこと気にしなさんな、あんたには関係ないかもしれないけどさ」
関係ない、か。
確かにそうだ。カイの過去がどうだろうと、俺の目的は変わらない。
いかに楽をするか。それだけだ。
だが——
斜面の先で、四往復目に突入したカイの足がわずかによろめくのが見えた。
膝が震え、額から滴る汗が土に落ちる。それでもあいつは歯を食いしばって、重い桶を担ぎ直して歩き出す。
後ろに続く男たちの目は、もう限界を超えた暗い色をしていた。
(……あいつらが全員倒れたら、最終的に水汲みは俺の仕事になるんだよな)
その最悪の未来図だけは、絶対に阻止しなければならない。
俺は干し肉の最後の一切れを口に放り込み、のろのろと立ち上がった。
「マーレン。あのままじゃ明日には全員ぶっ倒れる。カイも含めてな」
「分かってるわよ。で、あんたはどうするの?」
俺は高台から斜面の全景を見渡した。
川から集落までの道のり。うねる地形。土の硬さ。高低差。
前世の知識と、この世界で手に入れた【効率化】の考え方が、頭の中で一つの答えを弾き出していた。
桶で水を運ぶ? 馬鹿馬鹿しい。
人間が水のところへ行くんじゃない。水のほうを人間のところへ持ってくればいい。
俺は高台を降り、斜面の途中でへたり込んでいるカイの前に立ちはだかった。
「おい、カイ。桶を降ろせ」
「……ユウト? 何だ、邪魔するな。まだ……まだ動ける」
「動けるかどうかの話をしてるんじゃない。お前のやり方が根本的に間違ってるって言ってるんだ」
カイが目を見開く。
後ろの男たちも、呆然と俺を見つめていた。
「水汲みなんて非効率な労働は、今日限りでやめだ」
「は? やめるって……水がなきゃ死ぬんだぞ!」
「だから水汲みをやめるんだよ。水汲みじゃなく——川を引く」
カイの口が半開きのまま固まった。
後ろの男たちも、疲労困憊の顔のまま、意味が分からないという表情で俺を凝視している。
「重機も何もない原っぱで……川を引くだと? 正気か、ユウト」
「正気だ。むしろこんな重労働を五十年続ける方がどうかしてる」
俺は斜面の先に広がる森と、遠くに光る川面を指差した。
「さあ、労働の始まりだ。俺の明日からの昼寝のために——今日だけは死ぬ気で気合い入れろ」
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