第16話「増えすぎた隣人たちと、管理の限界」
朝、目を覚ますと──枕元に花が供えられていた。
しかも三束。丁寧に編まれた花冠つきだ。
……俺はいつ死んだ?
寝ぼけた頭のまま上体を起こす。番屋の入口から朝日が差し込んでいて、毛布を剥いで外に出た途端、二十人以上の人影が一斉にこちらを向いた。
「おはようございます、大賢者様!」
揃いすぎている。絶対に練習した。
昨日までこんなことはなかった。カイの開拓団が合流する前は、朝なんてせいぜいマーレンの「いつまで寝てんのよ」で始まっていたのに。
「……おはよう。それと、大賢者って呼ぶのやめてくれ」
「大賢者様がご謙遜を! さあ、朝のお食事の準備ができております!」
かまどの前には、すでに木の器が並んでいた。根菜の煮物と薄く切った燻製肉。湯気が鼻先をくすぐる。悪くない匂いだ。
だが問題はそこじゃない。
器を手に取ろうとした瞬間、横から別の手が伸びてきた。
「お待ちください! 毒見がまだでございます!」
若い男が真剣な顔で器を受け取り、ひと口すすった。
十秒ほど無言で立ち尽くす。
深々と頭を下げる。
「安全でございます。どうぞお召し上がりを」
この食材を見つけたのは俺だ。調理法を考えたのも俺だ。
毒があるなら俺が一番よく知っている。
だが男の目は真摯そのものだった。混じりけのない、純粋な善意。
断る言葉が喉の奥で詰まる。
「……どうも」
***
仕方なく受け取って食べ始めると、今度は背後に気配がした。
振り返る。木の棒を握った男が三人、俺を囲むように立っている。
「護衛班、第一組、配置につきました!」
「いらん」
「大賢者様のお命は集落の宝です! お食事中もお守りいたします!」
飯を食う手が止まった。
煮物の味が、わからなくなった。
誰かに見られながら飯を食う。ただそれだけのことが、こんなに胃に来るとは思わなかった。前世の会社の忘年会を思い出す。上座に座らされて、箸をつけるまで誰も食べ始めない──あの空気。
残り半分を無理やり流し込んで、俺は立ち上がった。
昼前、水路まで水を汲みに行こうとしたら五人がかりで止められた。
「大賢者様にそのようなことはさせられません!」
「水汲みくらい自分でやらせてくれ」
「いけません! 大賢者様のお手を煩わせるなど!」
桶を取り上げられた。
俺の桶だぞ。俺が作ったやつだぞ。
仕方なく番屋に戻ろうとすると、入口の花冠がさらに増えていた。朝の三束に加えて、五つ。
番屋が祭壇になりつつある。このままだと明日には参道ができそうだ。
午後。広場の隅で空を見上げていると、住民たちが集まってきた。
何ごとかと思えば、両手を組んで目を閉じている。
「……何やってんだ」
「お祈りの時間です。大賢者様に今日の感謝を捧げております」
「感謝はいいから、俺のことは放っておいてくれ」
「大賢者様のご謙遜は、もはや聖者の域──」
「違う」
違う。俺はただ、楽がしたいだけだ。
崇拝されるより放っておいてくれた方が、百倍ありがたい。放っておいてくれるだけで、もう拝みたいくらいだ。
「あら、人気者じゃない」
横からマーレンの声。腕を組んで、にやにや笑っている。
「笑ってる場合じゃないんだが」
「旧大陸じゃ、優れた者は神の代理人として崇められたからねえ。あの子たちにとっちゃ、あんたがこの土地に水路を引いて、堀を掘って、魔物を追い払ったんだから──立派な神の代理人よ」
「やめろ。鳥肌が立つ」
花冠の文化も旧大陸のものだとマーレンは言った。恩人の枕元に花を供えるのは、向こうじゃ当たり前の礼儀なのだと。
つまり、悪気は欠片もない。むしろ最大限の敬意を込めてやっている。
だからこそ断れない。
善意って、悪意より厄介だ。
悪意なら無視すればいい。嫌がらせなら怒ればいい。でも善意には善意で返さなきゃいけない空気がある。返しても返しても、次が来る。
「あんた、こっち見なさい」
マーレンが急に声の色を変えた。指先で俺の顎をぐいっと持ち上げる。
「……何だよ」
「目の下、真っ黒じゃない。昨日も寝てないでしょ」
「寝た。花冠の圧で二回起きたけど」
マーレンの手が離れる。指先についた煮物の汁を、エプロンで拭っている。
「あんた、真面目すぎるんだよ。嫌なら嫌って言えばいいのに」
「言ってるだろ。聞いてもらえないんだよ」
マーレンは一拍だけ黙って、それから肩をすくめた。
「まあねえ。あの子たちは本気だから、余計にたちが悪いのよ」
それだけ言って、マーレンは踵を返した。慰めの言葉は一つもなかった。
ただ、歩きながらぽつりと落とした。
「──飯は抜くんじゃないよ」
***
夜になった。
一人になりたかった。ただそれだけの望みを叶えるために、集落の外れの丘まで歩いた。
草を踏みしめるたびに、足裏から冷たさが伝わってくる。頭上には見たこともないほどの星が広がっていた。前世で見た星空とは比べものにならない。ようやく、肺の奥まで息が入る。
背後で、枯れ枝を踏む音がした。
「お一人は危険です、大賢者様」
振り返ると、申し訳なさそうな顔をした護衛が二人、松明を持って立っていた。心配そうな目。本気で俺の身を案じている目。
「……帰れ。俺は一人で大丈夫だから」
「しかし──」
「帰れって」
「はい……ですが、万が一のことがあれば──」
堂々巡りだ。この護衛も善意で動いている。命じられたからじゃない。本気で心配しているから、離れられない。
怒鳴れない。怒れない。悪いのは俺じゃないし、こいつらでもない。
善意の檻には鍵がかかっていない。だから余計に、出口が見つからない。
「あんたら、今日はもう休みな。あたしが見とくから」
丘の下から、マーレンの声が上がった。
護衛たちが顔を見合わせ、渋々と去っていく。マーレンはよっこらしょと声を出しながら丘を登ってきて、草の上にどかっと腰を下ろした。
「……来んなよ」
「あたしまで追い返す気? 随分偉くなったもんだねえ」
返す言葉がなくて、俺は黙った。
夜空が広い。風が草を撫でて、さざ波みたいな音を立てている。
「なあ、マーレン」
「なに」
「一人のときの方が、楽だったな」
マーレンはしばらく何も言わなかった。草をむしって、指の間から落としている。
「そうかもね」
短い返事だった。
「でも一人じゃ、あの魔物の群れは乗り越えられなかったでしょ」
「……それは、まあ」
「面倒なのよ、人ってのは。あたしも旧大陸で嫌ってほど思い知った」
マーレンの声が、夜風に混ざって遠くなる。
「まあ──慣れなさいよ」
そう言って、マーレンは立ち上がった。草を払って、こちらを見もせずに丘を下り始める。
慰めでも助言でもない。ただの事実として放り投げられた言葉だった。
……慣れろ、か。
面倒だ。本当に面倒だ。一人で始めた拠点が、いつの間にかこんなことになった。
しばらく星を見上げていると、丘の下からまたマーレンの声が聞こえた。今度は、さっきより低い。
「それと、もうひとつ。食料の配分、もう揉め始めてるわよ。『俺たちの方が働いてるのに取り分が同じなのはおかしい』って」
風が止んだ。星の光だけが、やけに冷たく降ってくる。
……人の善意だけじゃない。人の不満まで、俺に向かって流れてくるのか。
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