第1話 遠ざかる煙、残るぬくもり
旅立ちは、いつも突然だった。
けれど今回は違う。
背中を押す声があり、手を振る人がいて、
「戻ってきてね」と言われる場所がある。
それだけで、旅は少しだけ優しくなる。
昼食のあとだった。
蒼月亭の前庭には、まだ陽の光がやわらかく落ちている。
「気を付けてね。」カイが言う。
「わかってるって」「すぐ戻るよ。」
レオンは肩をすくめた。
ミレーヌは笑いながら、四人にそれぞれ包みを手渡した。
「道中用。簡単なものだけどね」
布に包まれたそれは、焼きたてのパンに肉と野菜を挟み、特製の甘辛いソースをかけたものだった。
フィオが匂いをかいで目を細める。
「これ、絶対うまいやつ」
「夜まで取っときなさいよ」
リディアが真面目な顔で言う。
アリアは静かに微笑み、エルフの流儀で小さく頭を下げた。
「無事を祈っています」
セラがそっと杖を握りしめる。「アリア……」
「……すぐ戻ります」
「三日もかからないだろ」
レンが言い、背を向けた。
レオンは最後に一度、蒼月亭を見上げる。
屋根の上には、昼の薄い煙。
「行ってくる」
それだけ言って、四人は歩き出した。
背中に、手を振る気配を感じながら。
森へ続く道は静かだった。
昼の余韻がまだ身体に残っている。
「なんか、変な感じだな」
レオンは何度目かの振り返りをしてから、ようやく前を向いた。
「何が?」
フィオが聞く。
「送り出されるってさ。前は勝手に出ていって、勝手に戻ってた」
レンが淡々と答える。
「今は違う」
「うん」
セラが小さく頷く。
「三日もあれば往復できるでしょ。そんな顔するほどじゃないわよ」
「してねえよ」
「してる」
即答だった。
前を行くレンが振り向きもせずに言う。
「レオン、五回目」
「何がだよ」
「振り返った回数」
小柄な斥候は淡々としているが、声にはわずかな柔らかさがあった。
セラは杖を抱え直しながら、小さく微笑む。
「……私も、ちょっとだけ」
「お前もかよ」
「うん。あそこ、静かで好き」
「帰る場所、できた」
その言葉に、しばらく誰も続かなかった。
風が草を揺らす音だけがする。
以前なら、次の依頼の話をしていたはずだ。
報酬の額、危険度、装備の見直し。
だが今日は違う。
話題は自然と、戻った後のことになる。
「柵、完成させないとな」
レオンが言う。
「うん。あと畑の水路も」
セラが答える。
「フィオは?」
「洗濯担当はもう勘弁。弓の手入れ優先」
「お前、干すの下手だったもんな」
「うるさい」
また笑いが起きる。
日が傾き、空が赤く染まる頃、彼らは街道脇の開けた場所に野営を決めた。
焚き火がぱちぱちと音を立てる。
特別な魔物も出ない。
ただ、静かな夜が下りてくる。
「腹減った」
レオンが言い、布包みを取り出した。
ミレーヌの結び方は、妙に丁寧だ。
布をほどくと、香ばしい匂いが広がる。
「まだあったかい気がする」
フィオが笑う。
パンに挟まれた肉と野菜。
甘辛いソースが染み込み、指先に少し垂れる。
レオンは一口かじった。
「……うま」
レンも黙って頷く。
セラは小さく目を細めた。
「蒼月亭の味」
それだけで、胸の奥が温かくなる。
焚き火越しに、四人は顔を見合わせた。
「三日だよな」
フィオが言う。
「三日」
レンが確認する。
レオンはパンをもう一口かじる。
「戻ったら、またこれ食える」
セラが小さく笑った。
「帰ったら、って言った」
レオンは一瞬止まり、それから肩をすくめる。
「帰るんだよ。あそこに」
夜空には星が広がっている。
かつては、どの星の下でも同じだった。
野営はただの通過点。
だが今日は違う。
この夜も、旅の一部でありながら、
終わりには“帰る場所”が待っている。
焚き火が小さくはぜる。
レオンは空を見上げながら、静かに言った。
「早く戻ろうぜ」
誰も否定しなかった。
出発は同じでも、心の向きが違う。
ただの野営の夜。
ただの道中の食事。
それでも、蒼月亭の味は彼らに確かな輪郭を与えた。
冒険者であることは変わらない。
だが今は、その旅の終わりに「ただいま」と言える場所がある。
その違いは、静かに、しかし確実に、彼らを強くしていく。




