1話 期待という言葉が、最初の呪いだった
仕事から帰り、
上着を脱ぐこともなくベッドに倒れ込んだ。
体が重い。
頭の奥が、ずっと低く唸っている。
今日も、何もなかった。
朝起きて、会社に行って、
必要最低限の会話をして、
必要な仕事だけを終えて帰ってきた。
23歳。
会社員。
人と話すのが苦手だ。
話したくないわけじゃない。
むしろ、話したい。
けれど、どう切り出せばいいのか分からない。
言葉を選んでいるうちに、
会話は次の話題へ移ってしまう。
そのスピードについていけず、
気づけば自分だけが外側にいる。
中学生の頃までは、友達がいた。
放課後に寄り道をして、
意味のない話で笑っていた。
高校に入ってから、
自然と連絡を取らなくなった。
理由はない。
喧嘩もしていない。
ただ、「今さらいいか」と思っただけだ。
恋人は、いたことがない。
誰かと距離を縮めようとすると、
頭のどこかで別の自分が囁く。
――踏み込むな。
――そのままでいい。
そうやって、
何も選ばないまま生きてきた。
明日も仕事だ。
そう思ったところで、意識が沈んだ。
◇
目を覚ました瞬間、
違和感が全身を包んだ。
天井が、高すぎる。
黒い石でできた、
見知らぬ天井。
「……?」
体を起こす。
床は冷たく、
空間はやけに広い。
城――
その言葉が、自然と浮かんだ。
混乱はなかった。
恐怖も、ほとんどない。
ただ、
状況を理解しようとする自分が、
どこか他人事のように冷静だった。
足音が聞こえる。
振り向くと、
一人の女性が立っていた。
綺麗な女性だった。
整った顔立ち。
落ち着いた雰囲気。
ただ一つだけ、
額に小さなツノがある。
「……お目覚めですね」
「主がお待ちです。こちらへ」
僕は黙って頷き、
彼女の後について歩いた。
回廊は長く、
柱は高い。
すれ違う者たちが、
一斉に頭を下げる。
彼女に、ではない。
もっと奥にいる存在へ。
――この城には、
絶対的な中心がある。
大広間に出た瞬間、
それが誰なのか分かった。
玉座の前に立つ、一人の女性。
金髪のショートヘア。
整いすぎた顔立ち。
張りつめた空気。
年齢は、僕と同じくらいに見える。
……綺麗だ。
それが、
思考を止めた理由だった。
「……妙に落ち着いているな」
彼女が言った。
「ここがどこかも分からぬはずだ。
普通の人間なら、叫ぶか、泣くか、腰を抜かす」
「それがない。なぜだ」
話すのが苦手だ。
だから、正直な言葉がそのまま出た。
「……あなたに」
一拍置く。
「あなたに、見惚れてしまって」
沈黙。
「…………は?」
次の瞬間、
彼女の耳まで赤く染まった。
「な、なにを言っている!」
「我は魔王だぞ!
そのような理由で落ち着いていられては困る!」
配下たちが、
一瞬だけ顔を見合わせ――
堪えきれず、笑った。
「……笑うなっ!」
怒鳴るが、
声が少し裏返っている。
案内役の女性も、
口元を押さえて肩を震わせていた。
「……我が名はヘラ」
魔王は咳払いをし、
無理やり威厳を取り戻そうとする。
「本題に入る」
空気が、引き締まった。
「現在、この世界は戦争状態にある」
「人類と、魔族のな」
僕は黙って聞いていた。
「元々、両者は共存していた」
魔王は言う。
「魔族は地の奥に住み、
人類は地の上に住んでいた」
「互いの領域を侵さぬ限り、
争いはなかった」
彼女は少しだけ視線を逸らした。
「だが、人類は“魔力”を恐れた」
「魔族が持つ力をな」
人類は魔族を研究し始めた。
魔力を兵器に転用するために。
最初は、密かに。
次に、正当化して。
「魔族を捕らえ、
実験し、
解剖し、
力だけを奪った」
淡々と語るが、
指先が僅かに震えている。
「魔族は、話し合いを求めた」
「何度も、使者を送った」
「だが、人類はこう言った」
魔王は、声色を変えた。
『魔族は危険だ』
『先に滅ぼすべきだ』
『これは人類の生存戦争だ』
「……結果が、これだ」
戦争。
先に剣を抜いたのは人類だった。
「我々は、
生き残るために戦っている」
「復讐ではない。
征服でもない」
「――生存だ」
一拍、間が空いた。
「……分かったか」
僕は、少し考えてから頷いた。
理解はできた。
納得は、まだだった。
「そこで、お前だ」
唐突に話題が変わる。
「……僕、ですか」
「そうだ」
「理由は?」
少し沈黙してから、
魔王は肩をすくめた。
「たまたまだ」
「条件を満たしていた」
「それだけだ」
その言い方は、
どこか投げやりだった。
「……怖くないのか」
突然、聞かれた。
「人類と戦うことが」
言葉に詰まる。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、怖いとも言い切れない。
「……正直、実感がなくて」
そう答えると、
魔王は鼻で笑った。
「それでいい」
「実感など、
戦場に出れば嫌でも湧く」
「近くに来い」
言われるまま、
距離を詰める。
近くで見る魔王ヘラは、
やはり反則的に整っていた。
冷たい瞳。
完璧な輪郭。
……近くで見ると、
本当に綺麗だ。
そんなことを考えた瞬間。
体が、光った。
内側から、
淡い光が溢れ出す。
痛みはない。
ただ、
何かを埋め込まれている感覚。
「……ふむ」
魔王が一歩近づく。
次の瞬間。
胸に、
鋭い衝撃。
息が止まる。
だが、すぐに
傷が塞がっていくのが分かった。
「……ふむ、問題なさそうだな」
魔王は満足そうに頷いた。
「……い、いきなり刺すのは」
言い返そうとした、その瞬間。
遅れて、
地獄が来た。
全身を殴り潰すような激痛。
視界が白く弾け、
思考が砕け散る。
崩れ落ちる僕の耳に、
最後に届いた声。
「期待してるぞ」
◇
そこで、意識は途切れた。
――後になって思えば。
魔王が語った戦争の理由は、
どれも正しかった。
だが同時に、
どれも救いにならなかった。
この後に起きる悲劇を、
僕はまだ知らなかった。




