第7話 引き寄せられる魂
真実を知ってから、私はしばらく何も考えられなかった。
お客さんが来ても、カップルが愛し合っていても、心ここにあらず。
『私、なんでまだここにいるんだろう』
成仏できない理由。それが分からなかった。
『何か、やり残したことがあるの?』
『誰かに伝えたいことがあるの?』
『それとも、ただ成仏の仕方が分からないだけ?』
答えは見つからなかった。
そんなある日の夜、もうすぐ午前0時になろうかという時。
一人の女性がフロントに来た。
二十代半ば。目の下には深いクマ。スーツはしわだらけ。
髪は乱れている。虚ろな目。
『あ……』
その姿は、あの日の私にそっくりだった。
いや、完全に同じ。まるで私を見ているようだった。
「一人なんですけど……」
女性の声は、力がなかった。抑揚がない。
「……はい、問題ありませんよ」
今日は既に満室。空いている部屋は203号室しかない。
当直の佐藤さんが、心配そうに女性を見ながら鍵を渡した。
「あの……大丈夫ですか?」
「……はい。ちょっと疲れてるだけです」
女性は、力なく笑った。
そして……
女性は、203号室へ向かった。
『まさか……!』
私は、強い予感がした。
嫌な予感。
女性が203号室のドアを開ける。
部屋に入る。
ドアが閉まる。
私は必死に、その女性の様子を感じ取ろうとした。
203号室は、今は鮮明に感じられる。
女性は、部屋に入るなり、ベッドに倒れ込んだ。
「もう……疲れた」
その声。
あの日の私と、全く同じ。
「何もかも、嫌だ」
女性は、しばらくぼーっとしていたが、突然バッグから何かを取り出した。
薬の束。
『ダメ!』
私は叫んだ。でも声は届かない。
『やめて!お願い!』
女性は、薬をじっと見つめている。
「睡眠薬……」
そして、シートから取り出された薬がバラバラと机の上にばらまかれる。
『死んじゃダメ!』
私は必死に、何かできることはないかと考えた。
照明を点滅させようとした。
『動いて!お願い!』
私は建物のすべてを感じられる。配線も、電気の流れも。
ならば、コントロールできるはず。
『頼む……動いて!』
でも、照明は変わらない。
エアコンの温度を変えようとした。
『寒くして!暑くして!何でもいいから気づいて!』
空調の音が少し大きくなった気がしたが、すぐに元に戻る。
『くっ……どうして……!』
女性は手のひらに、持てる限りの大量の薬を乗せた。
十錠。二十錠。
口に入れようとする。
『やめてええええ!』
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
必死の想いが、形になった。
部屋の照明が、チカチカと点滅し始めた。
「……え?」
女性が動きを止める。
照明が激しく点滅する。明るく。暗く。
まるで何かが訴えかけているように。
『そうだ!気づいて!』
私は必死に、ありったけの力を振り絞った。
照明を。エアコンを。
テレビが勝手についた。砂嵐の画面。音量が上下する。
「なに……これ?」
女性は怯えたように部屋を見回している。
『電話……!そうだ、誰かに電話を!』
私は机に置かれた彼女の携帯電話に意識を集中させた。
スリープ状態だった画面が明るくなる。
女性も意識が携帯に向く。
そこに表示されたのは、通知画面。
「お母さん (不在着信8件)」
『!』
女性は、その画面を見て、息を呑んだ。
「……八件?」
震える手で携帯電話を取る。
着信履歴を確認する。
23:47、23:52、23:58、0:03、0:09、0:15、0:22、0:28
ほぼ5分おきに、何度も何度も。
「こんな時間に……お母さんが?」
女性の手が震えた。
頭の中に、離れて暮らす母親の顔が浮かぶ。
母親は早寝早起き。夜9時には必ず寝る人だ。
こんな真夜中に起きているはずがない。
それなのに、8回も電話をかけてきている。
女性は、手のひらの薬を見た。
そして、携帯電話を見た。
その時、また電話が鳴った。
『お願い!電話に出て……!』
9度目の着信。
「お母さん」
女性の目から、涙が一筋流れた。
そして……震える手で、電話に出た。
「……もしもし」
電話の向こうから、ほっとしたような、それでいて切羽詰まった母親の声が聞こえる。
「やっと出た!何回もごめんね。大丈夫!?もしかして、もう寝てた?」
「え?なんで……こんな深夜に……」
女性が震えた声で答える。
「子供の頃のあんたが泣き止まない夢を見たのよ。あんまり泣くものだから、目が覚めちゃって。なんだか心配で。ずっと電話してたの」
女性の目から、涙が止まらなくなった。
「お母さん……」
堰を切ったように、女性は泣き始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「何があったの?ゆっくり話して」
母親の声が、優しく語りかける。
「もう……もう無理なの……仕事も、人間関係も、全部……」
「大丈夫。ゆっくり話して」
「会社で失敗して……みんなに迷惑かけて……もう居場所がないの」
「そんなこと……」
「死にたい……って思っちゃった」
「……」
しばらく沈黙があった。
そして、母親が言った。
「死んじゃダメ」「あなたがいなくなったら、お母さん、生きていけない」
「お父さんも、お兄ちゃんも、みんな悲しむ」「仕事なんて、辞めればいい」
「会社なんて、他にいくらでもある」
「でも、あなたは一人しかいないの」
女性は、声を上げて泣いた。
「でも……迷惑ばかりかけて……」
「迷惑なんかじゃない」
「家に帰っておいで」
「今すぐ帰っておいで」
女性は、手に持っていた薬を見た。
そして……ゴミ箱に投げ捨てた。
「……今から、帰る」
「今から、帰るから」
女性は立ち上がり、急いで荷物をまとめた。
そして、部屋を出て行った。
部屋の照明が、静かに元の明るさに戻る。
テレビの電源が切れる。
全てが、静寂に包まれた。
『良かった……』
私は、心から安堵した。
『できた……私、できたんだ』
照明を操れた。
テレビをつけられた。
母親からの電話は偶然だったけど、携帯電話の画面を光らせられた。
わずかな干渉だけど、確かに、私は何かができた。
でも同時に、激しい感情が湧き上がってきた。
羨望。
嫉妬。
そして……後悔。
『私には……いなかった』
両親は、私が高校一年生の時に二人とも交通事故で亡くなった。
それ以来、ずっと一人だった。
親戚の家に引き取られたけど、居心地が悪くて。
高校を卒業したら、すぐに一人暮らしを始めた。
大学も、奨学金とバイトで通った。
就職してからも、ずっと一人。
心を許せる友達は一人だけいた。
あやという、高校からの親友がいた。
でも……頼れなかった。
彼女にも彼女の人生がある。
私の問題で、迷惑をかけたくなかった。
だから、一人で抱え込んだ。
仕事で失敗した時も、誰にも助けを求められなかった。
上司に怒られても、同僚に無視されても、誰にも相談できなかった。
そして、一人でこのホテルに来て。
一人で死んだ。
『私……もっと誰かに頼れば良かったんだ』
『あやに、ちゃんと話せば良かった』
『会社だって、辞めれば良かった』
『命を捨てることなんて、なかったんだ』
でも、もう遅い。
私は、もういない。
『でも……』
一つだけ、救いがあった。
あの女性は、助かった。
お母さんが、助けてくれた。
そして、私も少しだけ、手助けできた。
私にはできなかったこと。
彼女には、できた。
『良かった……』
それから、数日間。
あの女性のことを考え続けた。
『私、ここにいる理由が分かった気がする』
私は、自分と同じような人を見守るために、ここにいるのかもしれない。
追い詰められた人。
孤独な人。
死にたいと思ってしまう人。
そういう人たちを、見守るために。
そして、止められるなら、止めるために。
『それが……私の役割なのかな』
声は届かない。
触れることもできない。
でも、わずかに干渉できることが分かった。
照明を。電子機器を。
必死になれば、何かができる。
『……それでいいのかもしれない』
少なくとも、あの女性は助かった。
それだけで、意味があったのかもしれない。
部屋に、温かい光が差し込んだ。
窓の外は、もう夜が明けていた。




