第6話 真実の欠片
ある日、清掃スタッフの二人が、廊下で話しているのが聞こえた。
一人は五十代の女性、もう一人は二十代の若い女性。
「203号室、また『変な感じがする』ってクレーム来たって」
若い女性が、ため息をついた。
「あの部屋、やっぱり……ね」
年配の女性が、声を潜めた。
『え……?』
私は、二人の会話に意識を集中させた。
「数年前の事件から、ずっとおかしいのよ」
『事件……?』
「ねえ、私、その時まだここで働いてなかったから知らないんだけど……何があったの?」
若い女性が尋ねた。
年配の女性は、周りを確認してから、小さな声で話し始めた。
「若い女性が、一人で泊まったのよ」
『……』
「それで?」
「朝、清掃に入ったら……ベッドで冷たくなってて」
私の意識が、激しく揺らいだ。
「え……死んでたってこと?」
「そう。睡眠薬を大量に飲んで……」
『睡眠薬……』
「自殺……?」
「警察は、過労による自殺って判断したわ。遺書はなかったけど、状況から」
若い女性が、怖そうに203号室を見た。
「それで、幽霊が出るようになったの?」
「さあ……でも、あの事件以来、あの部屋だけおかしいのよ」
「その人、いくつだったの?」
「まだ二十代だったって聞いたわ。確か二十六歳だったかしら」
『……二十六歳』
その数字が、心に鋭く刺さった。
なぜか、とても重要な数字に思えた。
「可哀想に……まだ若いのに」
「ええ。仕事で精神的に参ってたみたい。過労?パワハラ?なんか追い詰められてたみたいで」
『会社……パワハラ……』
「受付の佐藤さんも、すごく辛そうだったわよね。最後に会ったのが佐藤さんってことになるから警察に状況を聞かれたみたいだし」
「でも、誰も悪くないですよね。その子も、苦しんでたんでしょうし」
「そうね……今頃、天国で安らかに眠っていればいいけど」
二人は、ため息をついて、別の話題に移った。
でも、私はその会話が頭から離れなかった。
『二十六歳の女性』
『203号室』
『一人で泊まった』
『睡眠薬』『仕事』『パワハラ』
『それって……』
突然、頭の中に映像が流れ込んできた。
深夜の駅。終電を逃した人々。
疲れ果てた自分の姿。
スーツはしわだらけ。化粧は崩れている。目の下には深いクマ。
混乱する意識の中で、記憶が少しずつ戻ってくる。
大学を卒業して入社したのは、憧れの出版社。本が好きだった私にとって、夢の職場だった。最初の三年間は、女性の多い企画部で楽しく働いていた。
そして次の年。人事異動で、男性向けギャンブル専門誌の編集部に配属された。
「女性の活躍推進」
人事部長はそう言った。
「一森まどかさん。君には新しい風を吹き込んでほしい。女性の感性でどんどん活性化させてほしいんだ」
期待の言葉。私は嬉しかった。
でも、配属初日に気が付いた。
部署には、私以外に女性が一人もいなかった。
平均年齢は四十代後半。全員が、二十年以上この部署で働いているベテラン男性社員。
「よろしくお願いします」
私が挨拶すると、返ってきたのは冷たい視線だった。
「やっと補充が来たと思ったら、人事は何考えてんだ」
「お嬢ちゃんギャンブルやったことあるの?」
編集部の仕事は、想像以上に過酷だった。
早朝から丸一日の取材、夜会社に戻ってきては原稿。締め切りに追われる日々。
そして何より、私には理解しづらい「男性読者の感覚」を求められた。
「まどか、この企画、女目線すぎるんだよ」
デスクに投げ返された企画書。
「もっと男が読みたいものを考えろ」
「はい……すみません」
でも、何が「男が読みたいもの」なのか、誰も教えてくれない。
企画会議では、私の提案はことごとく却下された。
「年々雑誌の部数も減ってることですし、これからは女性にも間口を広げるべきです。新規に女性読者を増やすために、ビギナー向けの特集を……」
「うちは男性誌だから。余計なこと考えなくていい」
上司の冷たい声。周りの男性社員たちは、黙って下を向いている。
残業も、男性社員と同じだけ求められた。
午後十時。十一時。日付が変わることもザラだった。
「まどか、この原稿、明日の朝までに校正して」
「え、でも今日はもう……」
「全員毎日これくらいやってる。平等だろ?女性の活躍推進なんだから」
終電を逃す。
体がどんどん削られていく。男性との体力差が恨めしい。
生理痛で辛い日も、休めなかった。
「体調良くない時なんて、みんなあるだろ。甘えるな」
女性上司がいれば、理解してもらえたかもしれない。
でも、この部署には誰もいない。相談できる人が、誰もいない。
私は毎日終電まで働いた。
新しい部署。経験の浅さ、それによる遅れ。
自宅にも仕事を持ち帰る。全て取り返さなければ。認めてもらうため。
でも、体は限界だった。
睡眠は一日三時間。食事はコンビニのおにぎりだけ。体重は5キロ減った。
ある日、企画部の元同僚に、久しぶりに会った。
「まどか!元気?」
「うん、元気だよ」
嘘をついた。
「新しい編集部、どう?」
「……ちょっとキツいかな」
「そっかあ。でも、まどかは結果出すタイプだし、きっと大丈夫!頑張って!」
明るい笑顔で励まされた。
でも、私が求めていたのは、励ましじゃなかった。
「辛い」と言いたかった。「助けて」と言いたかった。
でも、言えなかった。
男ばかりの中で奮闘する「女性の代表」として期待されていた。失敗は許されない。
だから、笑顔で「頑張る」と答えた。
そこから先の記憶が、霞んでいる。
誰も助けてくれない。
親友のあやに相談しようと思ったけど、彼女も忙しそうで躊躇した。
結局、一人で抱え込んだ。
そして、ある日。
もう無理だと思った。
『……そっか』
ネオンサインが見えた。
「ホテル・マドロス」
女性一人でも泊まれるって、ネットで見た。
フロントで、203号室の鍵をもらった。
部屋に入った。
鏡に映る、疲れ果てた自分の顔。
誰だ、これ。
私じゃない。
でも、私だ。
バッグから、薬のシートの束を取り出した。
メンタルクリニックで処方されて、飲まずにため込んだ睡眠薬。
あやしいサイトで買った真っ赤で毒々しい色をした睡眠薬。
いくつもの種類の睡眠薬が並べられる。
「もう、いいや」
一錠。
二錠。
三錠。
ゆっくり一錠ずつ飲んでいく。
そして、目の前の薬を全て飲み切った。
ベッドに横たわった。
「楽になりたい」
でも、楽じゃなかった。
胃が重い。気持ち悪い。
天井がぐるぐる回る。
「……苦しい」
こんなはずじゃなかった。
意識が遠のく。
「ごめん……」
誰に謝っているのか、分からなかった。
そして……
『私……』
真実が、雪崩のように心に流れ込んできた。
『私、死んだんだ』
だから、誰も私が見えない。
だから、誰にも声が届かない。
だから、203号室がおぼろげにしか感じられない。
あそこは、私が死んだ部屋だから。
私が最期を迎えた場所だから。
私はホテルに転生したわけじゃなかった。
成仏できずに、この場所に縛られている。
『これじゃ……地縛霊じゃん……』
その瞬間、203号室が鮮明に感じられるようになった。
霧が晴れたように、全てが見えた。
部屋の隅に、まだ私の痕跡が残っている気がした。
絶望の気配。
孤独の残滓。
諦めの波動。
それが、部屋全体を覆っている。
だから、お客さんは嫌な感じがするんだ。
私の負の感情が、まだそこに残っているから。
『ああ……』
私は、泣いた。
涙は出ない。声も出ない。
でも、心が激しく泣いていた。
『私……死んじゃったんだ』
『もう、戻れないんだ』
『やり直せないんだ』
絶望が、再び押し寄せてきた。




