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第4話 三十年前の約束

ある秋の日。紅葉が美しい季節。


その日の夕方、若いカップルが訪れた。

二十代前半。大学生くらいだろうか。男性はリラックスした面持ちで、女性は少し緊張しているように見える。


男性が304号室の鍵を受け取り、二人は部屋に入った。


『さて、今日も始まるかー』


私は、すっかり慣れた様子で304号室に意識を向けた。

部屋に入ると、女性がベッドに腰掛けた。


少し沈んだ様子。


「ごめんね……昨日アレきちゃったから今日はできなくて…….」


女性の、申し訳なさそうな声。


私は瞬時に理解する。

『アレって……あー、生理のことか』


男性が慌てて答えた。


「え、大丈夫大丈夫!全然気にしないで」

「でも、せっかく予約してくれたけど……キャンセルしても良かったんだよ?」

「いいって。話したかっただけだし」


『え……?』


私は思わず304号室に意識を集中させた。


『話すだけ?それだけのために、ラブホテルに?』


二人は、ベッドに並んで腰掛けた。


「最近忙しくて、ゆっくり話せなかったもんね」

「うん。バイトと課題で全然時間なくて」


『本当に話してるだけだ……』


「来月の旅行の話、そろそろ場所とか決めたいし」

男性が女性の肩を抱く。

窓の外の夕焼けを見ながら、二人は話し始めた。

旅行の計画。お互いの近況。将来のこと。


時々笑い声が聞こえる。

手を繋いでいる。


でも、それ以上は何もない。


『何しに来たの……?』


私は戸惑った。

ここまで来て、ただ話すだけ?

この場所で新たに身に付いた常識 (?)がガラガラと崩れ落ちる。


「ね、お腹空いたんじゃない?ルームサービス頼もうか」

「いいね!ピザとか食べたい」


二人は、メニューを見ながら楽しそうに選んでいる。

やがて部屋にピザが届き、二人は仲良く食べ始めた。


「ねえ、来月の旅行、どこ行きたい?」

「ちょっと寒いかもしれないけど海が見れるところがいいな。久しぶりに」

「じゃあ江ノ島とか?」

「いいね!」


誰にも邪魔されない空間。

二人だけの、穏やかな時間。


私は、その光景を静かに見守っていた。


『……あ』


ラブホテルは、「性行為の場所」だけじゃない。

プライバシーが守られる、特別な空間。

二人だけの時間を過ごす場所。


『そういう使い方もあるんだ……』


私は、何だか心が温かくなった。


その数時間後。

一組の初老の夫婦が訪れた。


六十代後半くらいだろうか。男性は少し猫背で、杖をついている。

女性も同じぐらいの歳に見える。


二人とも、お互いを支え合いながら、ゆっくりとフロントに向かった。


「あの……三十年ぶりぐらいなんですけど」

初老の男性が少し照れくさそうに言った。

「301号室、まだありますか?」


フロントの佐藤さんが驚いた顔をした。

「三十年……ですか?」


「ええ。結婚前に、一度だけ。あの頃はまだ、このホテルもできたばかりで新しくて」


佐藤さんは、優しく微笑んだ。

「まあ……それは素敵ですね。はい、301号室、ございます。どうぞ」


鍵を渡しながら、佐藤さんが付け加えた。


「あの……差し支えなければ、何か特別な日なのですか?」


女性が嬉しそうに答えた。

「記念日なんです。結婚三十周年」

「まあ!おめでとうございます」

「ありがとうございます。それで、二人で話し合って……二人の最初の場所に行ってみようって」


男性が照れ笑いした。

「バカみたいだけどね。こんな年になって、ラブホテルなんて」

「バカなんかじゃありません」女性がすかさず付け加えた。


佐藤さんは、目を潤ませながら言った。

「素敵です。お二人とも、ごゆっくりどうぞ」


『三十年前……』


私は興味を惹かれて、二人の後を追うように意識を301号室に向けた。


二人は、ゆっくりと部屋に入った。

ドアが開いた瞬間、女性が小さく声を上げた。


「あら……ずいぶん変わっちゃってるわね……」


「ああ、壁紙の色とか内装とか見た目は変わったけど……間取りは同じだ」


男性がカーテンを開けると、窓の外に街の景色が広がっていた。


「この景色……覚えてる」

「うん。あの時も、ここから夜景を見たわね」


二人は窓際に立って、しばらく景色を眺めていた。

女性の目に、涙が浮かんだ。


「なんだか……色々あったわね」


「ああ。子供が生まれて」


「三人も育てて」


「就職、結婚、この間は孫も生まれて」


「あなたが倒れた時は、本当に心配したわ」


「俺が?お前が癌になった時の方が、よっぽど……」


男性の声が詰まった。


「でも、今、こうして二人でいられる」


「奇跡みたいね」


二人は休憩時間いっぱいまで話をすると、笑いながら、手を繋いで帰っていった。

その後ろ姿を見送りながら、私は思った。


『面白いな……ここ』


若いカップルは、生理でセックスできなくても、ここに来た。

二人だけの時間が欲しかったから。


老夫婦は、三十年ぶりに、ここに来た。

二人の始まりの場所を、もう一度訪れたかったから。


ラブホテルというのは、単に恋人たちが愛し合う場所だけじゃない。

誰にも邪魔されない空間。プライバシーが完全に守られる場所。

色々な人が、色々な目的で訪れる、不思議な空間なんだと分かった。


色欲の象徴だと思ってたことを少しだけ反省したよ。ほんの少しだけね。


いつの間にか私はこのホテルのことが少しずつ好きになっていた。

色んな人の、色んな人生が交差する場所。

それを見守ることが、なんだか楽しく感じられてきた。


でも、一つだけ、どうしても気になる部屋があった――。

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