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第10話 命の循環

「ホテル・マドロス」は、今日も営業している。


不思議なことに、あの日から203号室は完全に変わった。


「なんか……温かい部屋ですね」


お客さんが言う。


「誰かに見守られてるような、優しい感じがしました」


フロントで佐藤さんは、静かに微笑む。


「そうですね。良い部屋なんですよ」


まどかの存在は、もうこのホテルには感じられなかった。


代わりに、とても優しい温もりが残っている。

孤独の残滓も、絶望の気配もなくなり、希望の空気が満ちている。



あの日、あやと拓真が帰った後。

私は一人、203号室に残っていた。

いや、「一人」というのも変だ。もう私には身体がないのだから。

でも、確かに私の意識は、まだそこにあった。


『……そろそろ、なのかな』


部屋の空気が変わったのを感じた。

重く冷たかった空間が、あやと拓真の温もりで満たされて。


私を縛り付けていた絶望が、少しずつ溶けていく。


『成仏……できるのかな』


遠くから、光が差し込んできた。

温かい、優しい光。


『ああ……これが、お迎えってやつ?』


光は、私を包み込もうとする。

引っ張られるような感覚。


『そっか……やっと、終わるんだ』


でも、その時。


私の中に、強烈な感情が湧き上がった。


『……待って』


光が、少し遠のく。


『待ってよ!』


私は、必死に抵抗した。


『まだ!まだ終わらせない!』


何に対して抵抗しているのか、自分でもよく分からなかった。

でも、確かに私の中には、やり残したことがある。


『あや……!』


親友の顔が浮かぶ。


泣きながら謝っていた顔。

幸せそうに笑っていた顔。

そして……悪戯っぽく笑いながら、私の写真の前でイチャイチャしていた顔。


『絶対……絶対にあれについては何か言ってやらないと!』


あの不謹慎極まりない行為。

親友の三回忌に、その部屋でセックスするなんて。


『こればかりは許さないから!』


でも……


『それに……』


私の心の奥底に、別の感情もあった。


あやの幸せを、心から願っている自分。

拓真さんという優しいパートナーを見つけたあやを、祝福したい自分。

「まどかの分まで幸せになる」と言ってくれたあやに、感謝している自分。


『だから……もう一度会いたい』


文句を言いたい。


でも、それ以上に。

もう一度、あやと話したい。

辛い時は「辛い」って言いたい。

助けてほしい時は「助けて」って言いたい。

あやが辛い時、今度は私があやを助けたい。


『もう一度……生きたい』


その瞬間、光が強くなった。

まるで、私の願いを受け入れたかのように。


光に包まれながら、私は感じた。


『……行ける?』


どこへ?

分からない。


でも、確信があった。


『きっと、どこかで、もう一度……会えるよね?』


光の中に、小さな温もりが見えた。

まだ形もない、小さな小さな命。


『あー、そこね……』


私は、笑った。

涙も出ない。声も出ない。

でも、心が笑っていた。


『待ってろよ、あや』


『今度は、ちゃんと文句言ってやるからな』


『……ありがとう』


光が、私を完全に包み込んだ。

そして、意識が遠のいていく。


でも、怖くなかった。

今度は、終わりじゃない。

始まりだから。


『じゃあね、ホテル・マドロス』


『色んな人の愛を見守らせてくれて、ありがとう』


『おかげで、愛っていうものが少し理解できた気がする』


203号室から、まどかの気配が完全に消えた。

代わりに、温かい祝福だけが残った。



――それから、約二ヶ月が経った。


ある朝、あやは目を覚ますなり、トイレに駆け込んだ。

「うっ……」

吐き気。

「まさか……」

その日の午後、あやは産婦人科の待合室で、拓真の手を強く握っていた。


緊張している。心臓がドキドキしている。


「菊池あやさん、お入りください」


診察室に呼ばれて、中に入る。

あやは「宮下あや」から「菊池あや」となっていた。


エコー検査。

画面を見つめる医師。


そして……

「おめでとうございます。妊娠していますよ」

あやの目から、涙が溢れた。


「本当……ですか?」

「はい。今、妊娠九週目くらいですね」


医師が、エコーの画面を指差した。

「ここに見えるのが、赤ちゃんです」

小さな、小さな光。


でも、確かに鼓動している。

「すごい……」


拓真が、感動で声を震わせた。

「僕たちの……赤ちゃんだ」


あやは、画面を食い入るように見つめた。


そして、ふと気付いた。

「九週……ってことは」

計算する。


「たぶん、あの日だ……」

「え?」


拓真が聞き返す。


「まどかに報告した日」


ホテル・マドロスで、203号室で。

親友に結婚を報告した、あの日。


「あの日に……授かったんだ」


拓真は、優しく微笑んだ。


「まどかちゃんが、贈り物をくれたのかもね」

「うん……」


でも、あやの心に、不思議な感覚が芽生えた。

まるで、誰かに睨まれているような。


いや、睨まれているというより……

「怒られそうな気がする」

「え?」

「なんか……まどかに、すっごく怒られそうな予感がするの」


拓真が笑った。


「そりゃ、親友の命日にあんなことしたら、怒られるよ」

「だよね……」


でも、あやは笑顔だった。

怒られてもいい。


叶うのならば文句を言われたい。


だって、それは……

「生きてる証拠だもんね」

帰り道、あやはお腹に手を当てた。

まだ、外からは全く分からない。


でも、確かにそこに、小さな命がいる。

「ねえ、拓真」

「うん?」

「この子の名前、女の子だったら……『まどか』にしたい」

「いいと思う。まどかちゃんも、きっと喜ぶよ」

「男の子だったら?」

「うーん……『まどき』とか?」

「却下」

二人は笑いながら、手を繋いで歩いた。


その時、温かい風が吹いてきた。

秋から冬へと移り変わる季節なのに、不思議と温かい。


あやは、思わず空を見上げた。


「まどか……いるの?」


風が、優しく髪を撫でた。

まるで、「ここにいるよ」と言っているかのように。


「……ねえ、まどか。あの日のこと、怒ってる?」


風が、少し強くなった。


「ごめんね。でも……私、まどかに幸せなところ、見せたかったんだ」

「私が大丈夫だってこと、ちゃんと伝えたかったから」


風が、また優しくなった。


「だから……もう心配しないで」


「私、ちゃんと幸せになるから」


「まどかの分まで」


拓真が、あやの肩を抱いた。


「帰ろうか」

「うん」


二人が歩き出そうとした時。


心の奥底に、小さな声が聞こえた気がした。


『覚えてろよ、あや』


『生まれたら、あの日のこと絶対文句言ってやるからな』


『でも……』


『ありがとう』


あやは、思わず笑った。


「なんか、この子、気が強そう」

「え?」

「いや、なんとなく……母の勘?」

「まだ母親になってないけど」


拓真が笑う。


「まどかちゃんに似たら、きっと優しい子だよ」

「うん……でも、たぶん、口は悪いと思う」

「なんで?」

「勘」


あやは微笑んで、未来へと続く道をしっかりと踏みしめた。


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