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第1話 目覚めと混乱

誰かが私の中で呼吸している。

205号室。二人。片方の心拍数が速い。


待って。

「私の中」?


私には、建物の内部がすべて分かる。

でも、自分の手の位置が分からない。


ただ、気が付いたらこの場所にいた。


一森まどか、26歳。出版社勤務。

昨日まで終電帰りの日々を送っていたはずが、いつの間にか自分の意識が建物全体に広がっていた。


『え……何これ?何が起きてるの?』


パニックになった。脳が完全にバグったと思った。

自分の身体がない。手も足も、顔も髪も、何もない。

でも、「感じる」ことはできる。


建物内の空気、温度、湿度。全てが分かる。

駐車場。アスファルトの冷たさ。車が入ってくる振動。

配管を流れる水の音。壁の中を走るケーブル。屋根に降る雨の感触。


そして、室内の人の動き。話し声。呼吸。


全てが、私の一部として感じられる。


『どういうこと……?私、建物になってる……?』


視覚はないはずなのに、全てが「見える」。いや、見えるというより、「把握できる」という感覚に近い。


ビルの看板には「ホテル・マドロス」と書かれている。

フロントには目隠し付きの受付カウンター。内線電話。パソコン。自動精算機も併設されている。


古びたネオンサイン。夜になると赤く光る。

築30年ぐらいだろうか、設備はどこか少し古く感じる。


そこまで考えて、気付いた。


『……ラブホテル?』


私は、ラブホテルになっている?

なぜ。どうして。いつから。


記憶を辿ろうとした。


昨日は……確か、会社にいた。

いや、待って。昨日?本当に昨日は昨日だったのか?


記憶が、霧の中にある。手を伸ばしても掴めない。

仕事のこと。毎日遅くまで残業していた。上司の顔。同僚たちの冷たい視線。


それから……高校からの親友。宮下あや。

あやの顔が浮かぶ。笑顔が眩しかった。

でも、最後に会ったのはいつだっけ?


『だめ……思い出せない』

大切な何かを忘れている気がする。でも、それが何なのか分からない。


二階の廊下に、人の気配がした。

60代くらいの男性が清掃カートを押しながら部屋を回っている。

優しそうなおじちゃんといった感じの顔立ち。清掃スタッフらしい。

『あの、すみません!』

私は必死に呼びかけた。


『助けてください!ここはどこですか!?』

でも、清掃スタッフのおじちゃんは何の反応も示さない。もしかして耳が遠い??


おじちゃんは205号室のドアを開けて、中に入っていく。


『聞こえませんか!?ここにいます!』


おじちゃんは黙々と清掃を続けている。シーツを剥がし、ゴミ箱を空にし、浴室を磨く。まるで、私が存在しないかのように。


『なんで……なんで気が付いてくれないの?』


それから、何時間も試した。

声を出そうとした。でも、声帯がない。

物を動かそうとした。でも、手がない。

照明を点滅させようとした。でも、方法が分からない。


何もできなかった。


ただ、建物として存在するだけ。


そのうち清掃スタッフのおじちゃんが全ての部屋の清掃を終えた。

カートを一階に降ろし、裏口から出ていく。

軽トラックに道具を積み込む音。エンジンがかかる音。

『待って!行かないで!』

でも、振り返らなかった。

車が遠ざかる音。


フロントに意識を向けると、そこには別の人がいた。

40代くらいの女性。少し白髪の混じった髪を後ろでまとめ、長袖のスタッフシャツを着ている。名札には「佐藤」の文字。このホテルの受付スタッフだろうか。ふっくらしていて頼れるお母さんって感じの貫禄がある。

目隠しカウンターの向こう側で、スマホを見ながらお手製の弁当を食べている。


『すみません!聞こえますか!』


佐藤さんはこちらを気にすることなくスマホの画面を眺めている。


誰も私に気づいてくれない。まったく反応がない。


『私……どうなっちゃったの?』


夜になった。


佐藤さんがスマホをしまう。

ネオンサインが点灯する。


「ホテル・マドロス」の文字が、赤く光る。


――そして、初めてのお客さんが来た。

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