鬼の青春
夕日に照らされた校舎の廊下を、ある少女は行く。
名を山岡仁美。歩くたびにポニーテールが左右に揺れた。
私はこの時間が好きだ。校庭から聞こえる野球部の声、吹奏楽部の奏でる音色、空からたまに聞こえるカラスの鳴き声。そして、私の足音。自分も一体になって『青春』という曲を演奏しているような、そんな気持ちになる。
──そして今日、私の青春に偉大な一ページが刻まれることとなる。
ある空き教室の前で、私は立つ。
ドクンドクン、あたりはうるさいはずなのに、なぜか自分の鼓動の音が聞こえる。
いや……なぜか、じゃない。理由は分かっている。
「ふぅ」
深呼吸をして、教室の扉に手をかけた。今日の扉は、やけに重く感じる。
「山岡さん!」
さわやかな声が、こちらへ跳ねてきた。
短髪の少年。背は高く、笑顔が素敵な人だ。
彼の名前は、黒井友和。
「黒井くん……話って何?」
「……」
私をこの空き教室に呼び出したのは言うまでもなく彼だ。そして、呼びだした理由も大体は予想づいている。もう私は跳ねてしまいたいほどうれしいし、逃げ出したいほど恥ずかしい。
でも、彼の言葉を待つ。きっと彼は、私のために、今日のために準備をしてきてくれている。
だから、待つよ。ゆっくりでいいから、言って。
黒井くんは震える手をぎゅっと握りしめて、乾いた唇を舐めて……そして、口を開いた。
「……山岡さん、ぼ、僕と」
「……」
「──つきあってください!!!!!」
教室に風が吹きいる。カーテンが大きく広がって、差し射る夕日が、黒井くんを照らした。
黒井くんはこっちに手を伸ばす。腰を直角に折り曲げて、地面を見ている。
その手はブルブルと震えていて、そして汗が夕日を反射していた。
そして、私は──
「はい、もちろん!!!」
その手を、受け取る。
この現代、こうして直接告白してくれる人は随分と減った。今や告白はLINEでポコッと済まされる時代だ。別にそれが間違ってるだとかいうつもりはないけど……いや、間違ってると思う。やっぱり、「気持ち」は面と向かって伝えてくれる方がうれしい。
──相手の人が自分をどれだけ想っているか、感じることができるから。
「や、山岡さん!!」
黒井くんは、ほんとに、たまたま席が隣になっただけだ。
はじめは授業の終わりに少し喋る程度だった。
そこから、「おはよう」だとか、「ばいばい」だとか。彼との辞書に言葉がだんだん増えていった。
……体育祭の終わり、一緒に写真を撮ったっけ。スマホを開くとたまにその写真が見えることがあって、自然と口角が上がってしまうんだ。
思えば、そのころにはもう、黒井くんのことを好きになってしまっていた。
私の「おはよう」は、「今日も会えてうれしい」。「ばいばい」は「さみしいな」に意味を変えた。
もう私の辞書は、君なしでは成り立たなくなってるんだ。
「山岡さん、ほんとに、ほんとにいいの?」
黒井くんは私の手をぎゅっと握りしめてそう言った。
ずいぶんと冷たいのに、汗に濡れた手。不快感はない。ただ、それもうれしい。
ふふ、と声が漏れてしまった。そのやけに慎重なところも、好きだよ。
「うん、いいよっ」
「…………仁美さんって、呼んでいい?」
「欲張りだね……いいよ、友和くん」
「──っ!!! 仁美さん!!!」
友和くんは感極まったのか、涙をこぼした。繋いだ手に、ぽた、ぽたと熱いものが落ちてくる。
ちょっと、止めてよ。私もつられちゃうじゃない……
涙が下のほうから昇ってきて、鼻をつつく。
「ずっと、ずっと君とつきあいたかった。仁美さん」
スンスンと鼻をならして、友和くんは言葉をつづる。
そんなの、私もそうに決まってるじゃない。ずるいよ、全部先に言われる。
友和くんは、涙をふいて、私の目を見た。
「──じゃあ、やろうか」
「……ん?」
やるって……え?
友和くんの、私の手を握る力が強くなった。
「いたっ」
その握力は、女の子の手をつかむ域を超えていく。
……急にどうしたの? 私は恐る恐る友和くんの顔を見る。
その目は、先程とは一変、獣のような眼光。
怖くなって手を振り払おうとした、その刹那──
「──ふんッ」
男は、腕をぐるんと振り回してそして女を──投げた。
女とはいえ、簡単に振り回せるものでもないだろうに、男は涼しげな顔をして女を地面に叩きつけた。
男は高らかに笑った。
「は、ははははははははははははははは!!!!!!」
教室に風が吹きつける。
赤い夕陽が、怪しく男の輪郭を彩る。
「すごいや、すごいや!! 仁美さんッッ!!!」
巻きあがった埃の中を見つめ、男は笑い、悶える。
「今の攻撃で、受け身を取るなんて!!!」
埃の中、ゆらり女性の影が立ち上がる。
「え、と……く、黒井くん……ど、どういうこと?」
私は訳も分からず、彼を見る。
彼の猟奇的な眼差しが、私を縛り付ける。
「な、なんで急に攻撃したの? 騙したの?」
恐怖が、怒りが、悲しみが、腹の底から湧き上がってくる。
彼が何をする気だったのか分からない。分かるのは、今もなお、濃厚な敵意を向けてきていることだけ。
「──騙した? やだなぁ、仁美さん。僕、言ったでしょ……つきあおうって」
「……」
この男は、一体何を言っているんだ。
私は彼の言葉が理解できずにフリーズする。
……つきあう。
…………つきあう。
「──え」
ある単語が、私の辞書にヒットした。
「……どつきあいって、こと?」
どつく……それは、殴りつける、打ち付ける、叩く、ぶっ飛ばすと同義の言葉。
黒井くんは、その質問を無言で肯定する。
つまり、黒井くんは私と……喧嘩したいということ?
……
…………
…………………いや、意味わかんねぇよ。
たとえ、黒井がはじめからその気で言っていたとしても……私の気持ちはどうなる?
私の青春は、どうなる?
「──てめぇ」
腹の底から声が出る。その声は先程までとは違い、怒りに彩られた低い音。
しかし、黒井はなにも怯えることなく、その身を震わせる。そうか、今ならわかる。武者震いしてやがんのか、こいつ。
「は、はは。やっとやる気になってくれたんだねッ! 嬉しい、嬉しいよ仁美さん」
「仁美って呼ぶんじゃねぇよ」
血とともに、私の全身を怒りが巡る。
黒井、てめぇはここでつぶす。私の貴重な青春の一ページを汚したこの野郎を、絶対に許さねぇ。
「じゃあこう呼んだ方がいいかい? 【鬼神】山岡仁美!!!」
「──ぶち殺してやるからな、てめぇ」
「ああ! はじめからそうしてくれと言っている!!」
──ド級の付き合い、どつきあい。
それは恋のABCを超えたD級。
全てを超越した究極のコミュニケーション。
──さぁ、戦闘が始まる。
黒井流合気道【狂乱王子】黒井友和 VS【鬼神】山岡仁美
***
薄暗い教室に、風が吹きつける。
黒井の方から仕掛けてきた喧嘩だが、なかなか動き出さない。……それもそのはずだ。この黒井の構えからして、こいつが得意にしてるのは合気道だ。
合気──気を合わせると書いて合気だ。
相手の勢いを利用して、闘う。つまりカウンター。待っているのだ……こちらが拳を振るうのを。
何もしてこないとはいえ、嫌な目だ。隙ひとつ見逃さないという目。
黒井を中心に、殺気の霧のようなものが見える。いわゆる間合いというやつだ。
──こいつ、強いな。
まだ拳を交わしてもいないが、それは分かる。
これまでの人生すべてを、武に打ち込んだ匂いがする。
だが膠着状態のままこうしていても仕方がない。
──黒井、てめぇを殺すと決めたんだ。
トン、トン、トン。私は全身を脱力させながらリズムを刻んでジャンプする。
腕は胸辺りで、少し猫背になって。
トン、トン、トン。
今、二人の集中力は極限に達し、そのステップだけが聞こえる。
──トン、トン、トトッ!!!
「──ッ!」
私は黒井に拳をぶつける。間合いを超えて、それは確かに黒井の顔面に命中した。
……なぜ、あれほど警戒していた黒井に拳が命中していたのか。トリックはいたって簡単。ただのリズムだ。
一定のリズムでステップを踏むことで相手の脳裏にそのリズムを無意識に植え付ける。すると、相手は無意識のうちに私の行動のスタートがその拍のどれかだと思い込む。
だから、音と音の間、裏拍を狙う。
よってフライング気味のその拳は、黒井の顔面にクリーンヒットし、黒井は勢いよく吹き飛ぶ……はずだったのだが。
「悪いなァ、仁美さん。やっぱりメスの拳は軽いやァ」
「──あ?」
黒井は倒れない。まるで足から地面に根を張っているように。
さながら巨木を叩いたかのような感覚。
──コイツッ! なんて体幹してやがんだ!?
私の頬を、冷や汗が伝う。
黒井の頬を殴った私の腕は、がしりと黒井に掴まれた。
これは、まず──
黒井は流れるように私の腕を振り上げ、足をはらってバランスを崩し──そして、地面に私の頭を叩きつけた。
──今度は受け身が、取れない。腕を取られているから。
ガン、と。人体が立ててはならない音が教室に響いた。
「あー。【鬼人】と言われど所詮は女か。弱いなぁ」
動かなくなった私の身体に向かって、黒井はそう言葉を投げる。
その眼差しには失望と、それとどこか寂しさを孕んでいる。
──黒井友和。生まれは栃木の山奥。誰も知らないような道場に、彼は誕生した。
その道場を運営していたのは母だった。父は友和がまだ物心つかぬ頃に熊に食われた。
友和は母に、父の完成させた武術──黒井流合気道をたたき込まれた。
母は口癖のように言った。
──合気道は力が無くたって扱える技。これを身に着ければ女子供だって大人を倒すことができるんだ。
そして齢八つのころ、母も熊に殺された。
父も、母も、熊という圧倒的な力の前に無様に散ったのだ。
なにが力がなくたって扱える技だ。この合気道は、未完成だ。
──友和は黒井流合気道を進化させた。
合気道に、力を組み込んだ。力が無くては扱えぬ、生まれ持った才が無くては扱えぬ、特別な技。
黒井友和のちに熊を殺すことに成功する。そしてその後も道場破りや、格闘技ジムに乗り込むこと数年間。狂ったように、選ばれたものに許される武術を振るう──彼は、『狂乱王子』という二つ名をつけられるまでに強くなっていた。
そして強者を追い続ける間に、【鬼人】と呼ばれる女子高生の噂を聞きつけた。
だから、ここに転校してきた。力を証明するために。そして、女が強い力を持つことが本当なのかを確かめるために。
──だが、期待外れだ。
結局、力の前にいずれも無力なのだ。
次は、何をつぶそうか。
黒井が教室の扉に手をかけた瞬間──
「待てよ」
後ろで、声がした。
馬鹿な。そんなはずはない。
山岡仁美は僕の力を持って破壊した。頭を固い地面にぶつけて。
成人男性でも全治二か月ぐらいの傷を負うはずだ。
恐る恐る振り返るとそこには……
頭を真っ赤に血に染めた、山岡仁美が立っていた。
「──はは、は」
笑うしかない。
この女、気合で立っている。ぶっ飛びそうになる意識を、爪が食い込むまで握り締めて。
──なんてやつだ。なんでそこまで……
ふらふらになりながら、仁美は呟く。
「てめぇは、許さねぇ。私の青春にッ、泥塗ったんだ。てめぇだけは、つぶす」
「は? 青春? 何言って──がはッ!!」
立っているのもやっとかと思われた仁美だったが、彼女は素早く黒井の間合いに入り込み、アッパーを腹に入れる。
鉛を叩き込まれたかのような、そんな衝撃が、黒井を襲う。
──馬鹿な。さっきの重さの比じゃない。なんだ!? 何を喰らった?
「ハハハ、てめぇさっき軽いとか抜かしやがったなァ?」
仁美は赤く血濡れた髪をたくし上げ、鋭い眼光で黒井を睨みつける。
黒井は込みあげる血を吐き出す。
──なんだこれ。内側から破壊された? そんなバカな!?
「なんだ、今のッ……」
「馬鹿みてぇなツラしやがって……いいよ、教えてやる。ただの発勁だ」
「は、発勁……?」
発勁……もちろん知っている。中国武術の一種で、筋と骨を巧みに扱い力を生み出す武術。そして発勁による打撃は、物体の内部に衝撃が及ぶ。
ただ、それにはもちろん構えがあり、呼吸があり……
ノーモーションで打ち出せるほど簡単な技術じゃない。
──いや、まさか可能なのか? そんな芸当が……!?
「──近代武術と、古流武術のハイブリット」
仁美がポツリと呟く。
「それが私。まさか、【鬼人】の二つ名は知ってたのに、そこまで聞いてなかったの?」
赤い血が、夕日に照らされて輝く。
それはさながら、鬼のような佇まい。
なるほど、【鬼人】か。
「──さぁ、青春を壊した報いを受けろ」
ゆらり、炎が揺れる。
──認めない。僕は認めない。そん近代武術と古流武術のハイブリットだ? そんな馬鹿げた野郎がいてたまるか。非力な女になんか、負けてたまるか。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
黒井は声を荒げて腕を振るう。
──これにつかまればまた投げられる。刀を振っているのと何ら変わらない。
……だが、仁美が捕まることはなかった。
「てめぇに良いこと教えてやるよ。近代武術と古流武術の最たる違いだ。てめぇに分かるか?」
「あ!?」
「──フットワークだ」
今、黒井が仁美に追いつけないのは、時代の差。
攻撃をあえて受ける古流武術とは違い、近代武術には避けるが明確に選択肢として存在する。わざわざ受けてカウンターを狙う必要はない。避けて安全に行く方が得策だと、人類は気づいた。
「クソ、クソッ!」
黒井がいくら手を伸ばせど捕まらない……かと思えたが。
「──すきだ!」
黒井はのどからそれを叫んだ。
ピク、一瞬だが、仁美の全身が固まった。
そう、一瞬。だが、黒井にとっては……
「スキありいいいいいいい!!!!!」
ようやく、仁美の腕をつかむことに成功した。
黒井はにやりと邪悪に笑い、仁美の顔を見る。
「──は?」
だが、期待した仁美の絶望の顔はそこにはなく、その表情は冷酷に、まるで鬼のようで……
「二度も、騙したな。てめぇ」
──仁美の周りに、白い、殺気の霧のようなものが見えた。
それは──間合いだ。
──仁美による、合気道が炸裂する。
黒井は流れるように、地面へ打ち付けられる。
女の仁美にも軽々とその身を投げられ、黒井は悟った。
──力がなくとも扱える、か。ほんとだったんだな。
ぐしゃ、と鈍い音がなった。
***
「──はぁ……成敗成敗」
私は血が乾いてぱりぱりになった手で、服についた埃をはたく。
血と汗がべっとりと全身についてしまっている。そそくさと家へ帰って早くシャワーを浴びたい。
「ひとつ、聞いていいかかい?」
もう辺りは暗くなり、立ち去ろうとしたのだが。
私の後ろ髪に、黒井が声を投げかけた。
「え、まだ意識あんの? 化け物だ……」
「はは、それはお互い様だろう?」
ただ立つほどの余力は残されてないみたいだ。
ぐったりとしたまま、口だけを動かしてる。
「君はどうして、それほど強いんだい? それほどの強さをもって、何を求める?」
私は、考えることもなく、答える。
「──カレシ」
「………………そっか」
黒井は諦めたように目を閉じた。
赤色と紺色が空でせめぎ合う時間。
今日も山岡仁美の青春は、上手くいかない。