第15話『どうして道路は濡れている?』
「今日はすごく暑いな。まだ六月なのに汗が止まらない」
僕はハンカチをポケットから取り出して、顔の汗を拭いた。隣を歩く最神は涼しげな顔で、手に持っている小さな扇風機、ハンディーファンというんだっけか、まあそれを僕の方に向けた。
「どうですか、涼しいですか」
「結構涼しいな、ずっとそのままにしておいてくれ」
僕がそう言うと、最神は僕の方に向けていたハンディーファンを自分の方に向けた。
「私も暑いですから、ずっと民野くんにハンディーファンを向けるわけにはいきません」
さっきまでは涼しかったのに、最神がハンディーファンをこっちに向けなくなったから暑くなった。一度涼しさを経験してしまったから、さっきよりも暑さが辛く感じた。
「……暑い、お願いします。素晴らしい天才様、全知全能の神様、ハンディーファンをもう一度こちらへ向けてください」
僕の言葉に最神は「わっはっはっは」とまるで悪役のように高笑いした。
「なーに甘いことを言っているのですか、甘い言葉を私にかけているのですか。今から私達は甘いケーキを食べに行くのですよ、この暑さを乗り越えたとき、そのときが一番ケーキを美味しく食べることができるのです」
最神はそう言って、ハンディーファンの風を強くした。最大レベルまで風を強くしたのか、最神の前髪は風でふわりと揺れる。
僕と最神は消えたケーキの行方を解決し、部活を終えて駅前に新しくできたというカフェへ向かっていた。僕は最神と二人でカフェに行くのは気まずいので、ダメ元で雑駄を誘ったのだが、案の定「甘いものは苦手って前に言ったし、さっきも言っただろ、無理」と言われてしまった。
なら継印を誘おう、と最神に言ったら「デレちゃんは今日は生徒会の子と帰るって言ってましたよ」と、最神に言われてしまった。
他に僕と最神と一緒にカフェへ行ってくれる人間を探そうとも考えたが、流石にそんなに必死に他の人を探すのは最神に失礼だと思って、諦めた。
「この暑さを乗り越えたとき、美味しいケーキが食べれるなら、最神もハンディーファンをしまったらどうだ」
「ギク」
効果音を自分で言う奴を僕は初めて見た。
「ほら、美味しいケーキを食べるんだろ、図星みたいな効果音を出してないでハンディーファンを鞄にしまえ」
「いえ、これは図星の効果音ではありません。ぎっくり腰なのです。だから、ギクなのですよ。あと、ぎっくり腰の人に優しくできない人はよくありませんね。もっと優しくてください」
ああ言えばこう言う、とはこういうことを指すのだろう。笑って屁理屈を言う最神が若干面倒に感じた。
「ぎっくり腰なら、今すぐ病院に行くか家に帰れ」
「かわいい子にはカフェ旅をさせよ、って言うじゃないですか。カフェ旅をさせてくださいよ」
そんな言葉はない。それに『かわいい子には旅をさせよ』だとしても、この状況で使える言葉ではない。
「ぎっくり腰が治ったらいつでもカフェ旅させてやる。じゃあ今から帰」
「民野くんアレアレ、アレを見てください!」
僕の発言に最神は言葉を重ねた。わざとらしい話の逸らし方に僕はため息をつきつつ、最神が指差した前方を見た。
最神が指差したのは、誰も人がいない道路だった。近くに信号機があり、横断歩道があるだけの、普通でどこにでもあるような道路。
「アレが何だ。普通の道路じゃないか」
あそこにUFOが、みたいに僕の気を引いてこの話をなかったことにしようとしたみたいだが、僕にその手は効かない。最神は僕の気を引く前に、この話から手を引け。また先ほどの話を続けようと僕が口を開いたとき、最神が僕より先に言った。
「分かりませんか? あの道路、濡れています」
最神に言われてじっと道路を観察してみると、横断歩道から少し離れた道路の一部分だけ、丸くて黒い、シミのようになっていた。水か何かで濡れているのだろう。
「昨日も今日も、天気は晴れていました。一度たりとも雨は降っていません。では、どうしてあそこの道路は濡れているのでしょう?」
最神は「不思議ですね」と言って首を傾げた。何だかわざとらしいその様子に僕は眉をひそめて、口を開いた。
「話を逸らそうとし」
「いいからあの謎を解いてください、民野くんはテストで問題を解いている際に余計なことを考えるのですか」
最神はまた僕の発言に言葉を重ねた。まあハンディーファンの話は今しなくても後ですればいいか。
道路の一部分が不自然に濡れている。あまり大きいシミではないことから、多くの水が道路にかかったわけではない。
「前提条件から確認しよう。本当に昨日と今日は雨が降っていないのか?夜寝ているうちに雨が降っていたわけじゃないのか?」
最神はハンディーファンの風で涼しそうな顔をして言った。
「昨日も今日も雨は降っていません。天気予報で見ましたし、なにより道路は一部分だけ濡れているのです。雨が降ったなら、乾くにしても、もっと他のところも濡れているでしょう」
最神は続けて「いやー、涼しい涼しい」と言った。その情報は要らない。
雨は降っていない、なのに道路は一部分だけ濡れている。これは確かに不思議で、不自然だ。
通行人が歩きながら水分補給をしていて、うっかり水を溢してしまった?いや、横断歩道は近いが、横断歩道から少し離れたところが濡れている。まず人間は通らないだろう。
人間ではないなら、他の生き物か?
「……動物の、唾液とか?」
最神は大きな目を細めて、僕を睨んだ。
「真面目に考えていますか?何で動物が道路で唾液を垂らすのですか」
ですよね。いや、真面目に考えてはいるのだが、難しい。
歩いているうちに、問題の道路の近くまでやってきた。横断歩道の信号は赤だ。
「この横断歩道を渡るのか?」
「はい、カフェはこの横断歩道を渡ってもうしばらく歩いたところにあります」
僕は横断歩道の目の前に立ち、問題の一部分が濡れている道路を見ながら信号が青になるのを待った。
「道に水を撒く打ち水は、ありえないか」
今日は非常に暑いため、誰かが涼むために水を道路に撒いた、と思ったが、今どき打ち水なんてあまり聞かないし、道路に打ち水をすることはないだろう。せめて、家の前とかだ。
そんなことを考えていたら、信号が青になった。僕と最神は濡れている道路を見ながら、横断歩道を渡る。
近くで見ても、一部が濡れていることを除けば、道路に変なところはないようだった。ごく普通の道路で、この道路だけ特別なところはない。
つまりはどこの道路でも、道路の一部が水で濡れる可能性があるということだ。
横断歩道を渡り終えると、隣を歩く最神が口を開いた。
「どうですか、何か分かりましたか?」
「……普通の道路だ。何の変哲もない道路。だから、道路の一部が濡れるのは、この道路じゃなくても起こる現象だと思うんだ」
最神は歩きながらも、少しの間俯いて「うーん」と唸った。
「そうですね、この現象自体は日本のどこに行っても起こると思います。そして、さっきの打ち水の話、民野くんはありえないと言いましたが、惜しいですよ」
「打ち水が惜しい?じゃあ何だ、人間以外の生物が水を撒いたとかそういう話か?」
「何でそうなるんですか、違いますよ」
最神が呆れたように言った。
いや、打ち水が正解、とかなら分かるが惜しい、と言われるとよく分からない。要は打ち水に近いこと、というわけだろうが、打ち水に似たことなんてあるのか?
僕が深刻そうに悩んでいると、最神がハンディーファンの持ち手で僕の腕をつついた。
「惜しい、と言ったのが悪かったかもしれませんね。正確には、考え方は合っている、と言いましょうか」
打ち水は何のためにするのか、それは涼むためだろう。打ち水の考え方が合っている、ということは誰かが涼むため、道路は濡れたと考えていいだろう。
もし、僕が涼むとしたら、どんなことをするだろうか。風を仰ぐ、涼しい店の中に入る、日向を避け、日陰を歩く。どれも水は使わないな。これらは違うだろう。
水を使って涼むのなら、先ほど考えたが、やはり水分補給ということになる。冷たい水は涼むのに適任だ。だが、水分補給をして、横断歩道から外れた道路に水がかかることはまずないだろう。
あとは、水を体にかけるか、いやでも、水をかけるにしても道路ではやらないか。
他に水を使ってどう涼む?水は飲むわけでも、撒くわけでも、かけるわけでもない。他に使い道があるのだ。
暑い時期に、外で水を使って涼む方法。
「もしかして、エアコンか?」
僕がそう言うと、最神は「つまり、どういうことですか?」とニヤニヤ笑って言った。
「まず、濡れている道路は横断歩道から少し離れていて、人が通ることはないだろう」
これで人間が直接水を溢した線はなくなった。
「生身の人間以外が道路を通るといったら、あとは乗り物だ」
「……エアコンってことは車ですよね。今日は暑いですから、エアコンを使う人がいるのは分かります。でも、どうして車でエアコンを使うと水が溢れるんですか?」
最神は最初から答えが分かっているくせに、保育園児と話す保育士のようなわざとらしい口調で僕に訊いた。
「夏にエアコンを使うと、車の中の暖かい空気と、冷たいエアコンの部品が触れて結露が発生する。そしてその結露水が車外に排出されるんだ」
最近テレビで見た情報、ということは伏せて最神に伝えた。最神にバカにされるような気がしたから。
「でも、どうしてあの道路なんですか?ほらあそこの道路は濡れたりはしてませんよ」
最神は歩きながら右の道路を指差して言った。
「あの道路は目の前に信号と横断歩道があった。長い間止まって、その間に車から出た結露水が道路に排出されたんだろう」
僕の言葉を聞いて、最神は満足そうに笑って頷いた。
「百点満点です。私も民野くんと同じことを考えていました」
最神はでも、と言って話を続けた。
「よくエアコンの排水の話を知っていましたね。民野くんって車に詳しいんですか?それとも化学に詳しいんですか?」
思わぬ追求に、僕は内心焦りつつ、顔はできるだけ暑いが、涼しげな顔で答えた。
「……車にも、化学にも詳しくない。……中学生のとき、理科の教師が授業で教えてくれたんだ」
嘘をついたことになるが、しょうがない。嘘をつくことは嫌いでも、時には嘘をつかなければいけない場合もある。僕は目が泳いでいることを最神に悟られぬように、前方をじっと見た。
「そうなのですね、中学のときに理科の先生が授業で教えてくれたのですね。たった一回の授業ことを覚えているとは、民野くんは真面目ですね」
最神がじっとこちらを見てくる。僕はそれを横目でチラチラ確認しつつ、「……ああ」と答えた。嘘はバレて、いなそうだ。
「私はてっきり、最近テレビで車のエアコンの話をしていたからかと思ってましたが」
「……違うぞ」
最神は「そうですかそうですか」と言って、口元を左手で覆って笑った。嘘はバレて、いない、はずだ。そうに違いない。
「というか、何だっけか。この話の前に僕らは何かについて話していたはずなんだが」
「……? 何のことですか?」
「……覚えていないならいいよ。どうせ大した話じゃなかったんだろう」
あの最神が覚えていない、ということは僕たちが話していたことは重要なことでも何でもなかったのだろう。
最神が小さな声で、ふふっ、と笑った。