幕間.白い少女と古びた本①
目を開くと広大な草原で佇んでいた。
瞬きを二、三度行い、右に左にと視線を動かす。
障壁物が何もなく、澄んだ青空とどこまでも広がる緑の絨毯が続いている景色に、まるで絵画のように色鮮やかな世界だと思った。
そんな名画の中でゆっくりと歩いていると、一人の少女の姿を目の端で捉える。
彼女は【私】に気づくと軽やかな足取りで近づいてきた。
『ふふっ、すごく楽しいわね』
【私】に声をかけてきた少女は頭のてっぺんからつま先まで白い少女だった。
地面につきそうな白の長い髪に、くすみのない白のワンピース。肌も透き通るように白く、唯一、瞳の色だけは草原のように濃い緑色をしていた。
『こうやって一緒にいる所を見られたら何か言われるのかしら』
少女は【私】の隣に立つなり、笑顔でそう言ってきた。
私はきっと『そんなことないよ』など言ったのだろう。
『ふふっ、優しいのね』という言葉が微笑みと共に返ってきた。
ーーきっとこれは夢なのだろう。
ふとそんなことを思う。
私はこの景色を見たことがないし、この少女もどこの誰か分からない。会った記憶が全くなかった。
だけど夢は記憶の整理だと聞いたことがある。
私の記憶が整理された結果がこれなのであれば、無意識のうちに見た、聞いた、そしてそれが形作って夢に現れたのかもしれない。
『貴方は気持ち悪くないの? だって私たち……』
【私】の手を取り、熱を確かめながら不安げな顔で見つめてくる。夢なのに彼女の手は酷く冷たく感じた。夢だからこそ【私】がそう感じた。
『でも、そういうところが好きなのよね』
ふんわりと花が綻んだかのような微笑みを【私】に向けた後、ザァーっと目を開けていられないほどの強い風が吹く。そして一瞬のうちに景色は変わった。
風が収まり、ゆっくりと目を開いた先の景色は真っ暗だった。
瞬きを何度も行い、辺りを見回すが依然として暗いまま。何も見えない。
手のひらを眼前に持ってくるが、そこに手があるのか視認することができない。ただ、そのまま顔に手を近づけると触れることはできるので体が動いていないというわけではなさそうだった。
試しに手を伸ばしてみるが、自分の伸ばした手の先に何も当たらなかった。
ここの広さはどれくらいなのか、この先には何があるのか、私は動いても大丈夫なのか。何一つ分からない状況にその場から一歩も動くことができなかった。
単純にここには光がないだけだ。
ただそれだけなのに、底知れない不安感が拭いきれなかった。
昔、真っ暗な部屋の中で一人ぽつんと膝を抱えていた時や、夜に明かりがない道を歩いていた時はこんなにも真っ暗ではなかった。ほんのりと月明かりがあったおかげで不安なんてなかった。
それなのに今は怖い。見えないことが怖くてたまらない。
ドクドクと全身が波打つ。グッと手で胸を抑えても動悸が止まらない。
ずっとこの虚無が続くのかと思うと、少しずつ息が上がっていく。もっと深く呼吸をしろと自分自身に言い聞かせても、吸えない。吸いきれない。
怖い、怖い、怖い。
言いようのないこの不安な夢から逃れたくて、無意識のうちに目を閉じようとした時だった。
目の前にフッと浮かび上がってきた一冊の本。
明かりがあるわけじゃないのに何故かそこにあることがはっきりと見えた。
藁にもすがる思いで目の前のそれに手を伸ばす。
随分と古びたその本は、所々に傷がついていたり、表紙が剥げていたりと、かなりの年季を感じさせる。
手に取り表紙をめくると、最初のページは破かれていた。そして二ページ目と思われる上半分だけとなったそこには一言殴り書きがあり、乱暴に書かれた文字は辛うじて読めるほどにひどく乱れていた。
『私にとっては大切な宝物』
私はその文字にそっと触れる。夢だから何も感じることはないはずなのにほんのりと温かさを感じた気がした。
そうしてしばらく経った頃、先ほどまでの動悸や呼吸が随分と落ち着いてきていた。唯一見えるこの本が私自身に安心感を与えてくれていたのだろう。
怖いと思っていた感情自体を消し去ってくれていた。
他のページには何が書かれているんだろう。ふとそんなことを思った。
もしもこの温かさと同じような文字が綴られていたとしたら見てみたい。
そうしてページをめくろうとして、妙な違和感を感じた。
どうしても手が動かない。頭では動けと思っているし、手に力を込めているつもりだが思い通りにいかず次のページがめくれない。
それに動かないのは手だけではない。
視線があの乱れた文字に縛り付けられたまま動かせない。
この文字だけを見ていろ、他のものは決して見てはいけない。まるでこの先を見せたくないと拒まれているかのようだ。
そうこうしているうちに本から光が消えてゆく。
ゆっくり、ゆっくりと暗闇が濃くなっていき、再び視界が真っ暗になった。
意識が浮上する。目を開けるとそこはハイド邸の与えられた部屋の天井だった。
「……っ。すっごい汗……」
枕が汗でびっしょりと濡れていた。酷い汗だ。それほどまでに何か怖い夢でも見ていたのだろう。
夢の内容は何も思い出せない。思い出せないということはそんなに重要なものでは無かったのだろう。
でも何か心に引っかかるような感覚があった。
忘れてはいけない。思い出さなくてはいけないような。
しばらくベッドの上で考えていたがとうとう思い出すことは無かった。




