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1 特別な日誌

 ハノーファーの、ぽっかりと穴の空いた庭で、ゆうは泣きじゃくっていた。

 いつも一緒に悪だくみするミドルミスト・レッドが、いない。

 攫われていった。褐色の玉土だけが残っている。

 周りの花たちに「夕のせいだ」と責められているように感じる。春の陽射しばかりがうららかだ。


「どうして? 僕の、いちばんの、友だちなのに……っ」


 何もできなかった。何も言ってくれなかった。


シュピッツブーベン(悪戯っ子)、ママが呼んどるよ。おまえのスーツケースはどこかって」


 祖父のシュテファンがウッドデッキから降りてくる。スーツケース? それよりミドルミストを探してほしい。

 生まれてから六年間、笑い合ってきた友だちを。


「置いて、いかないで……一緒に、いたい……」


 何十年も土に親しんだ乾いた手に、熱っぽい頬を擦りつける。祖父なら誘拐犯を改心させられたかもしれないのに。


「……園芸の学校に、進むといい」


 恨みがましく泣き続けていたら、祖父がおまじないみたいに囁いた。


「伝統ある園芸学校には、特別な生徒のみ繙くことのできる、特別な日誌がある。それを使って学べば、ミドルミストが行った『天の花園』のビレート(通行証)を得られるだろう」


 学校、日誌、ビレート? 祖父はすぐ難しい話をする。それでも希望は聞き漏らさない。


「いい子になって勉強をがんばったら、またミドルミストに会えるんだね――?」






1 約束は二度目の春に花開く



 創立百年を迎えた淡路あわじブルーメン・シューレ。

 その研究棟第三書庫には、ぶ厚い専門書や資料が堆く積み上がっている。


 雨霧あまぎりベンヤミン夕は、百八十四センチの長身を屈め、閉架の最下段で化石然としたダンボール箱を引き寄せた。重い。

 フラップを開くと、埃が雪虫みたいに舞い上がり、月明かりを浴びてきらめく。時刻は二十二時を回っていた。


 市立高校卒業後、二年制の園芸学校であるシューレに入学して、早一か月。

 元ガルテナー(園芸職人)の祖父に聞いた「特別な日誌」を探し当てるべく、夕はあらゆる雑務を引き受けてきた。

 寮の物置部屋の掃除。教官室の資料整理。古い卒業生が直筆で認めた論文のデジタル化作業。

 どれも徒労だった。


(伝統ある園芸学校、ってふわっとしとる。日本ちゃうんかな)


 今夜の探索も徒労になりそうだが、思いどおりいかずとも、もう泣きはしない。


 検めていない箱はこれが最後だ。ひとつずつ中身を取り出していく。

 古紙特有の甘い匂いを纏った押し花帖、図鑑、独和辞典。

 その下から、A6判の手帖が出てきた。


 革表紙を縁取る銀箔はほとんど剥げている。そのぶん手に馴染む。

 開いてみると、草木の茂った西欧風の街並みの絵が描かれていた。スケッチ帖かと落胆しかけるも、端に「Garten(園芸) tagebuch(日誌)」と走り書きがあった。


 夕の青茶色の双眸(アース・アイ)が瞬く。これか。逸る気持ちで頁を捲る。中盤以降は白紙だ。


 刹那、淡い光が指先に点った。

 光は足下に零れて拡がり、無計画に資料を詰め込んだ閉架を、整頓されたモザイクタイルの書棚へと塗り替える。

 静謐な異常事態に、さしもの夕も瞠目した。


オーパ(おじいちゃん)、聞いとらんわ)


 日誌の詳細は「手に取ればわかる」の一点張りだった。

 逆に言えば、「手に取らないとわからない」ということか。

 コットンスラックスの尻ポケットに仕舞ったスマホの重みが消えている。もっとも祖父の番号は知らない。


 ひとつ深呼吸する。いちいち誰かに助言を求めていては、「特別な生徒」に値しまい。

 塗り替わったのは書庫だけかと、窓の外を確かめる。


 宵闇に、赤煉瓦屋根とクリーム色の壁の建物がひしめき、夕がいる側と高架でつながっていた。その向こうには海が横たわり、遠くにビル群のシルエットを望む。


 瀬戸内海に浮かぶ淡路島に建ち、研究棟と寮に分かれたシューレと重なった。


(つか、中表紙の絵の風景や)


 そこまで閃いたはいいが、日誌も手もとにない。実際に足で探るほかなさそうだ。

 研究棟の廊下改め半屋外の回廊に出るなり、極彩色の蝶が横切った。花粉を運ぶ蝶は園芸職人の味方である。ゆったりとした羽ばたきに誘われるまま、歩を進めてみる。


 高架下の川のせせらぎが聞こえるきりだ。広大な廃墟めいているが、怖くはない。


(今週のシューレだっておんなじようなもんや。灯りも点いとる)


 外灯が連なった回廊の先に、螺旋状の階段が現れた。

 手摺は蔓に似た独特なアイアンワークで、石造りの段板の隙間から生えた草に年月を感じる。

 手摺灯には小玉ねぎ大のとんぼ玉があしらわれ、赤く点滅していた。何となく胸騒ぎがする。


 その明滅に吸い寄せられたかのごとく、誰かが階段を駆け上ってきた。


 園芸学生の習慣で素早く観察する。

 十代半ばくらいの端正な少年だ。手に持ったジャケットとウエストコートは濃紺で、ループタイをしている。春風になびく絹糸のような髪は胸まであった。色素の薄い唇には、萎びた黄色の花びらを咥えている。


 半分ドイツの血を引き、茶の部分が陸・青の部分が海のように見える(ひとみ)とオリーブブラウンの髪を持つ夕に劣らず、日本人離れしている。人間離れすらして見えた。


 少年が夕に気づいて立ち止まる。

 敵意はない。「あなたは誰?」という顔をしたが、すぐ順応し、折り目正しい笑みを浮かべる。


「教育実習の先生ですね。はじめまして、『花園』へようこそ」




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