Chapter 8 「嵐の街道」
霧が晴れて美しく星が輝くメキシコの夜空に舞い上がった俺が考えていたのは、タラリオンの入り口にあったラテン語の文章だった。
「ここに入るもの一切の望みを棄てよ」
ダンテの神曲で地獄の入り口の門に刻まれていた詩の一説。
あまりに有名なために古今東西のあらゆる作品で流用されまくって、もはや実態が何なのか分からなくなっているフレーズだ。
何故そのことを思い出したのかは、アルバートさんが「テロスの町に『ケルベロス』が現れた」と言ったことにある。
ダンテの神曲で描かれた地獄は9層に分かれており、ケルベロスはその第三圏、暴食の罪を犯した亡者を苦しめるために現れる。
門のメッセージやケルベロスは、単体で出てきたのならばそこまでは気にならなかっただろう。
だが、この短いタイミングで連続して重なると関連性が気になってくる。
ちなみに神曲では一圏「辺獄」はキリスト教の洗礼を受けられなかったその他大勢の住民が地獄の入り口待ちをしており、そこでは虻や蜂に追い回されるらしい。
そう考えると、あの白い怪人が虻や蜂のポジションだったのだろうか?
「そういう意味だと、今の移動中の中間地域が第二圏ってことになるのか」
ちなみに、第二圏は「愛欲者の地獄」
肉欲に溺れて不倫などをしたバカップル達が終わりのない嵐に巻き込まれて翻弄される場所である。
処女の俺には何の関係もない場所だ。
……。
「……童貞じゃなくて、処女というワードが先に思い浮かんできた自分が怖いんですけど」
本当に一日でも早く日本に戻らないとダメだ。
頭が完全に女子に染まってしまう。
そんなことを考えていると、まっすぐ進んでいるはずの箒が風で微妙に横に流された。
慌てて箒の軌道を修正するが、また強い風が吹いてきて流される。
なんとか抵抗しようとするが、風はどんどん強くなってきており、いつしかまっすぐ飛行するのが困難になってきた。
「おいおい、嵐で狙うのはビッチだけにしろよ! こちとら純粋乙女だぞ。嘘だと思うならユニコーンでもバナナ味でも連れてこい」
風は何かモンスター的なものが発生させているのかと目を凝らすが、それらしい存在は何も見当たらない。
否――風を発生させている原因は意外とすぐに見つかった。
眼下を見下ろすと、岩場、草原、砂地、森……数えきれないパターンの地形がモザイク状に配置されている。
こんな地形がとても自然に発生したとは思えない。
明らかに何者かの意思が介入している。
タラリオンの街中も世界中の建物を一か所に無理矢理集めて作ったような異様な構造になっていた。
それと同じ現象が町の外でも発生していたとすれば?
日光が当たると熱を溜め込みやすい岩と砂、それに対して温度変化が起きにくい森や草原……。
温度差によって空気が対流すると、必然的に風が吹く。
小さい風は積み重なると嵐になる……。
「一度死都に入った者を、絶対に外へ逃がさないための自然を利用した罠」
強くなる風に帽子を飛ばされないよう、深く被りなおす。
タラリオンの件はラティを倒したことで全て片付いたと思っていたが、どうやらまだ俺達に牙を向いてくるようだ。
こんな不自然な地形が何年も残り続けるとは思えない。
数年で森や草原の植物は全て枯れ、南の砂漠に飲み込まれて何の影響もない場所になるだろう。
だが、それを悠長に待ってなどいられない。
「本当にちょっと町を見てくるだけのつもりだったのに、どれだけ無茶をやらなきゃいけないんだよ」
鳥を5羽呼び出して、すぐに全羽解放。
「森と草原の植物を全て『収穫』。そして、温度差で発生する風や竜巻はより高熱をぶつければ消滅出来る……どうやらラティとの延長戦がスタートしたらしいな」
近くに生えている木々と草を全て黒い霧に変えて空高く舞い上がる。
最初の相手は、まるで意思を持っているかのように、じわじわと俺の方に迫ってきている竜巻だ。
竜巻に巻き込まれたらただでは済まないだろう。
速やかに対処せねばなるまい。
「俺の戦いはこれからだ! ラヴィ先生の次回作にご期待ください!」
◆ ◆ ◆
双頭の猟犬、ケルベロス。
そしてその眷属であるヘルハウンドの群れが街へ現れてから既に3か月が経とうとしていた。
近隣の町に冒険者を雇いに行った者は「町がなくなっている」などと意味不明な妄言を吐いて終わりである。
おそらく途中で魔物に出くわすなどして逃げて帰ってきたのだろう。
結局、誰も援軍は来ておらず、町の守備隊による防衛線で何とか生き延びている状況だ。
だが、それも長くは持たないだろう。
ケルベロスが出現する前の守備隊のメンバーは既に誰もいない。
今の構成員は、町の中で生き残った住民のうち、少しは動けるものが守備隊を名乗って、有り合わせのお手製武器で抗っているにすぎない。
今日も一人死んだ。
「なんでこんなことになるんだよ……誰か助けてくれよ」
目の前のヘルハウンド……口から炎を吐く狼相手に物干し竿の先に包丁を括り付けただけの槍らしき武器を突き出すが、まるでかすりもしない。
逆に炎の息を吹きかけられて、お手製の槍を手放して逃げ出す。
細い通りを土地勘を生かして、ひたすら必死で逃げ回る。ふと気付くと追ってくるヘルハウンドの姿はもうない。
「なんとか助かった……これで今日も生き延びることが出来た」
ようやく一息付ける。
体力も気力も尽きて壁にもたれ掛けるように座り込みかけた直後に、先の通りの角から恐ろしい殺気を感じた。
慌てて立ち上がると、さっき撒いた個体とは別のヘルハウンドが姿を現したのは同時だった。
ヘルハウンドは俺の姿を見て高く跳躍した。
「ひっ」
だが、いつまで経ってもヘルハウンドが飛びかかってくることはない。
おそるおそる目を開けると、ヘルハウンドはいつの間にか民家の屋根よりも高く浮遊していた。
否――何か鳥のような青白く光る塊がヘルハウンドの腹の下に入り込んで、その体を高く持ち上げていた。
「モリ君は町の場所を確認したら戦闘せずにすぐ帰ってこいと言ってたけど、こんなのさすがに見捨てるのは無理だろ」
黒い服に黒い帽子を被った少女が通りの先に立っていた。
ただ、何かが異様だ。
全身には奇妙な紋様が浮かび上がり、それは虹色の光を放っている。
暗闇の中で紅く光る眼はただの人間とはとても思えない。
「叩きつけろ!」
少女が物騒な指示を出すと、先程までヘルハウンドの巨体を持ち上げていた青白く光る鳥が今度は上面に回り込み、押し込むようにしてヘルハウンドを地面に叩きつけた。
落下による傷と青白い「何か」の体当たりにより、ヘルハウンドの内臓が皮膚を突き破って周辺に撒き散らされる。
「倒したのか? こんなあっさり……」
困惑していると、少女は近寄らずに声だけをかけてきた。
「あと5日」
何が5日なのだろう?
「あと5日待ってください。必ず助けに来ます」
「何故、今すぐに助けてくれないんですか?」
「今は状況確認のためにだけここに来ていますが、私一人では全てを相手には出来ません。なので仲間を連れて再度、この街に戻ってきます」
ようやく理解が追い付いた。
少女……彼女は誰かが近隣の町に出した討伐依頼を受けてやってきた冒険者なのだろう。
そう考えれば、先程の不思議な力も説明がつく。
全身に浮かんだ紋様も、何か特殊な魔法の使用条件にそういうものがあるのだろう。
「なるべく早く来てください。みんな限界です」
「努力はします」
そう言い残すと彼女は杖のようなものに跨って、どこかへ飛び去って行った。
◆ ◆ ◆
「というわけだ。テロスの町は実在した。そして、あまり余裕がある感じではない」
俺はテロスの町の状況をかいつまんでモリ君達に説明した。
メキシコらしからぬヨーロッパ風の町にヘルハウンドがウロウロしている。
とりあえず何匹か倒して住民を救いはしたが、1人だとそこまで余裕も時間もないので全滅はさせていない。
ただ、あまり放置していると住民が危ない。
そんな内容だ。
「そういう状況ならば、早く出発した方が良いですね」
「こっちの準備はいつでもOKだよ」
モリ君とエリちゃんからは快諾の声が返ってきた。
「それで、いたのはケルベロスとヘルハウンドだけなんだな」
「残念ながらケルベロスの方は確認出来なかった。ヘルハウンドという火を噴く犬は複数確認できた」
「再確認するが、ケルベロスとヘルハウンド。実体の犬タイプの魔物だけで良いんだな。犬っぽい雰囲気で名前も猟犬だけど、よく見たら全然犬でも何でもないクリーチャーはいないと」
カーターが何故か犬の魔物にやたら執着をしてくる。
猟犬と呼ばれる魔物にそれほど強力な存在が出て来ると思っているのだろうか?
「何の話なんだよ。ケルベロス以上に強い犬のモンスターって何なんだよ? 米軍の兵士100人と駆逐艦を倒したキスカ島の軍用犬か?」
「キスカ島で何が有ったんだよ」
それは太平洋戦争の最中のこと。
キスカ島に駐留中の日本軍5000人は米軍の艦隊に取り囲まれた。
その窮地を救うべく、実写映画では三船敏郎演じる木村海軍少将が率いる巡洋艦阿武隈を旗艦とした水雷戦隊が霧に乗じて島から軍用犬を残して全員を救出。
だが、それを知らない米軍は霧の中に浮かぶ艦隊や兵を日本軍だと思い込んで攻撃を仕掛ける、。
島に残された軍用犬と米軍との壮絶な戦いが……いや、その話は別に良いだろう。
「それでアルバートさん一家は?」
「俺達はもう答えを聞いています。詳しくは御本人から」
モリ君がそう言うとアルバートが前に出て来た。
「熟考いたしましたが、一度街に戻ろうと思います。流石に少しこの町で体力を使いすぎました」
どうやらアルバート一家もテロスの町に戻るということで良いようだ。
アルバート一家は発見時、ほぼ手ぶらだった。
この町に入って白い怪人と遭遇した時に旅の荷物をほぼ失ってしまったのだろう。
流石にその状況では新天地でやり直しなどと言っていられないのはわかる。
「それで、ドロシーの方はどんな感じ?」
「まあ見てよ。ばっちり仕上げたから」
エリちゃんが部屋の奥に戻り、ドロシーを連れてきた。
最初に出会った時は元気がなかったからか、薄幸の少女という雰囲気だったが、今は妙に自信に溢れているように見える。
「まあ見てってや、うちの実力を」
「いや、うちって……」
ドロシーが両手をたらいに向けると、そこからまるで大道芸のように水が飛び出して、たらいの中へと溜まっていく。
近くに寄ってたらいの水を確認すると、塵一つ浮いていない綺麗な水だった。
おそるおそる鞄の中からコップを取り出してすくって飲んでみる。
名水というほどではないが、冷たくて美味しい水だ。
「どうや、すごいやろ」
「確かに凄い。すごいんだけど、こんなキャラだっけ? 俺が知らない間に別人へすり替わっているとかない?」
「ないです」
「ずっと私達が付いていたので」
真顔のモリ君とエリちゃんから別人説が否定された。
急な関西弁には意表をつかれたが、謎の無口少女よりは、ハッキリしている分だけ、表裏がなさそうで安心感はある。
「まだあまり力にはなれへん……なれないかもしれないけど、精一杯頑張りたいので、よろしくお願いします」
俺が訝し気な視線を送っていると、それに気付いたのかドロシーが俺に向かってぺこりと頭を下げてきた。
最初はなかなかのクソガキだと思ったのだが、きちんと挨拶が出来るというあたり、なかなか可愛げがある。
「こちらこそよろしく。ドロシーちゃんでいいかな?」
「うん。ラビちゃんもよろしく」
「ちゃん」で返されてしまった。
年上の俺は出来れば「さん」と呼んで欲しかったのだが、まあそれだけフレンドリーということで良いだろう。
年下の子供にいちいち目くじらを立てるほど俺は狭量ではないのだ。
それに、ドロシーのスキルにより懸念事項だった水の確保の見込みがたった。
非常食は余裕があるし、最悪の場合は俺のクッキーがあるので飢えだけは凌げる。
庇護対象が多いのでもし何かの襲撃があれば護衛は大変だが、今の俺達の実力ならばそれなりの相手ならば何とでも出来る自信もある。
あとは町に向かうだけだ。
「徹夜明けのラビさんには悪いですが、今から出発します」
「分かった。目指すはテロスの町だ!」




