第十話 「崩れた平穏」
月曜、火曜と特に大きな事件もなく平穏そのものだったが、それは水曜日に突如として崩壊した。
朝に登校すると学校の環境が先週とは激変していた。
廊下のあちこちに巨大な黒い虫やヘドロのような不気味な物体が這いまわっている。
また、授業中に窓の外から視線を感じて目をやると、窓のすぐそこに立って中を覗き込んでいる正体不明の黒い影などがいたりする。
2階教室でなければ、ただの変質者で説明がついたのだが。
僕達以外の生徒は誰もそれらの奇妙な物体の存在を見えてはいないようで、何の反応も示していない。
明らかな異物が紛れ込んでいるのにごくごく普通の日常を送ろうとしている人々という異様な光景があった。
綾乃の方へ目をやると、他の生徒達に合わせて見えないフリを努めてはいるが、やはり限度があるようで落ち着きがない様子だ。
何とか1限目の授業は耐えきったが、流石にそれが我慢の限界だった。
僕と綾乃は教室を勢い良く飛び出した。
「朝から幻覚が見えるのでと言ったら保健室で寝かせてもらえると思う?」
「理由はそれで良いと思うよ。授業を抜け出しても自然な理由として」
「いや、保険室は今は行かない方が良いと思うぞ」
僕達が話しているところに隣の教室から出てきた小森君が声をかけてきた。
その肩には男子生徒がもたれかかっている。
男子生徒の顔色は真っ青で明らかに体調が悪いのが分かる。
僕達と違って本当に保険室で寝てもらった方が良さそうだ。
「今朝から体調不良を訴えるやつが続出して大変だよ。うちのクラスはこの吉田で3人目。2組はどう?」
「うちのクラスからは私が1番に立候補予定。だけど授業中に3人倒れるのはインフルエンザ大流行並みに問題だと思う」
「1組と2組でそこまで違うのか。教室の位置の関係もあるのかな?」
「僕達には分からないけど何かあるんだろうね」
流石に正体不明の虫達に囲まれて授業継続は無理だと思い、小森君と一緒に保健室へ向かうことにした。
階段を降りて1階にある保健室へ向かう。
だが、僕達の足は保健室に向かう途中で止まらざるを得なかった。
保健室のはるか手前まで入場待ちの大行列が出来ていた。
どうやら他の学年、他のクラスでも体調を崩して保健室に駆け込む生徒が続出しているようだ。
入場待ちの生徒達は程度の差はあれ体調がかなり悪いようで、廊下にへたり込んでいる生徒の姿もある。
まるで負傷して治療を待つ野戦病院のような光景がそこにあった。
僕達が思っている以上に大事になっているようだ。
「吉田、ここに置いていくけどいいよな。眩暈は大丈夫か?」
「ああ、助かった。ここまで来たらちょっと気分が良くなった」
小森君が吉田という男子生徒を廊下の壁にもたれかけさせた。
吉田君は口では快復したように言っているが、素人目に見ても体調が改善したようには見えない。
「お前達ここにいたのか? やっぱり体調不良か?」
吉田君の体調を診ていた僕達の前にクラス担任の西原先生がクラスメイトの女子生徒、生田さんを背負ってやってきた。
生田さんは先程までごく普通に授業を受けていたはずだけど……この数分の間に体調を崩したのだろうか?
「話には聞いていたが、この分だと保健室に入ることが出来るまでどれくらいかかるか……生田、ここで待てるか?」
「はい、なんとか待ちます」
全く健康とは思えないことを言いながらも生田さんは保健室入場待ちの最後尾に並んだ。
壁にもたれ、膝を抱えて座り込み、頭をうずめた。
「矢上と柿原もここに並んでるってことは体調不良か?」
「私はちょっと気分が悪くなったので来ましたけど、この行列に並ぶことを考えたら元気になりました。大丈夫です」
「綾乃、その言い方だと人の不幸で元気になったみたいだよ」
軽く返したが、西原先生の目にはまだ心配の色が残っていた。
優しい声で、僕たちの体調を気遣うように話しかけてきた。
「少しでも体調が悪いなら並んででも診てもらった方がいい。見ての通りで、朝から体調不良で倒れる生徒が何人も出て光化学スモッグみたいなガスが出たんじゃないかって話が出てるんだ」
「ガスですか? そんな話どこから?」
「この体調を崩した生徒の数を見れば誰だってそう思う」
西原はそう言って行列を手で指した。
最低でも20人は保健室への待機列に並んでいる。
「他の生徒も安全のために教室から講堂へ移動させてるところだ。クラス委員長が点呼取ってるから、安全確認が済めば今日はもう荷物をまとめて帰っていいぞ」
「まだ1限目が終わったところですけど」
「生徒の安全もあるんだから流石に授業継続は無理だ。私はもう一周りした後に職員会議に入るから付き添いは出来んが、お前達も早く帰れよ」
西原はそう言うと階段を上って行った。
おそらくどこかで倒れていたり、体調を崩して動けなくなっている生徒がいないかの確認に校舎を周るのだろう。
どうやら思っている以上に大事になっているようだ。
学校のあちこちに溢れている存在を誰も視認出来ていないようだ。
「教室に鞄を取りに戻ろう。一度は家に帰っておかないと両親が心配する」
「でも原因は間違いなく旧校舎の地下だよね。このまま放置するのはまずいんじゃ……」
「やりましょう!」
いつの間にか僕の横にいた友瀬さんが両手に握りこぶしを作りながらそう主張した。
「友瀬さん、いつの間にここへ?」
「私も友達の調子が悪くなって保健室に付き添いに来たんですけど人がいっぱいで入れなくて待ってたんです」
「友瀬さんにもやっぱりそこの廊下のやつが見えるの?」
友瀬さんが無言で頷くと、何の前触れもなく半透明のアクリル板のようなものが出現した。
その表面にはまるでコンソールパネルのように様々な計器や文章、何かの映像が表示されている。
もしかするとこれは友瀬さんが喚び出すことが出来る使い魔の能力なのだろうか?
友瀬さんに近付いてコンソールパネルを覗き込むと、友瀬さんが着ているブレザーの胸元から文鳥サイズの赤い孔雀がひょっこりと頭を出した。
「おお……流石にこのサイズだと可愛い」
綾乃がそう言いながら孔雀の頭に手を伸ばそうとする。
すると、孔雀の頭の横から今度は尾羽が一本だけ飛び出してきた。
尾羽は機械のような規則正しい動きで回転したと思うと、先端に付いている目玉からレーザー光線を放った。
着弾地点を這い回っていた虫はその直撃を受け、一瞬のうちに焼き払われて消滅した。
綾乃は手を伸ばした姿勢のまま首だけを妙に硬い動きで動かして僕の顔を見た。
「怖い」
綾乃の言うとおりで小さくなっても凶暴な性質はそのままだ。
全く可愛い要素などないし、色々とシャレになってない。
「アル君の能力なんですけど、こうやってレーダーで表示させて――」
「――隠して! 見られるから隠して! コンソールも孔雀も」
「は、はい」
慌てて友瀬さんは出現していた半透明のアクリル板に見えるそれを赤い孔雀と一緒に胸元からブレザーの下へ押し込んだ。
ただでさえ赤孔雀が入っていて不自然に服が盛り上がっていたところにコンソールまで隠したので、不自然極まりないが、今は体調不良ということで押し通したい。
「また喚び出しちゃった? その使い魔はいつから出てるの?」
「今朝からです。学校に来たらなんか変な虫みたいなのがいっぱいいて気持ち悪かったから、アル君に出てきてもらってレーザーで片っ端から焼いてたんですけど」
「ねえ、無理に喚び出すのは暴走の危険があるって言ったよね」
綾乃はそう言うと両手の握りこぶしを友瀬さんのこめかみに当ててグリグリと動かす。
流石にこれを止める気はしない。
「この際だからその鳥が出来ることを全部教えてくれる。何が出来るか把握しときたい」
「は、はい。アル君……アルゴスは周りにいる人やそこらにいる魔物、場所の情報なんかを分析して出すことが出来るみたいです」
「アルゴス?」
名前は聞いたことがある。
スマホを出して検索するとギリシャ神話の百の目を持つという巨人の情報が表示された。
ただ、友瀬さんが着ているブレザーの第1ボタンと第2ボタンの隙間からひょっこり頭を出してきた孔雀とはイメージが結びつかない。
僕と目があった孔雀は不思議そうに首を傾げてまじまじと見つめてきた。
更に検索を続けると、気持ち悪い百目の巨人に混じって孔雀の写真が何枚も出て来た。
巨人アルゴスが死んだときに目をえぐり出して孔雀に埋め込んだので、それ以降は孔雀の尾羽には目のような文様が付くようになったというグロテスクな話が出て来た。
アルゴスは千里眼……遠く離れた場所の光景を映し出す能力があると伝説では言われているようだ。
友瀬さんの使い魔が使うレーダーのようなものはその反映だろう……と思う。
「アル君はレーダーとレーザーを能力として使えるんです」
そう言っている間にもまたも尾羽が服の隙間から飛び出してきてレーザー光線で虫を焼き払った。
友瀬さんの命令とは無関係にアルゴスが勝手に虫を敵と認識して攻撃しているようだ。
虫に向いているうちは良いが、これが人に向いたらと考えると頭が痛い。
「危ない危ない!」
「早く消して」
「は……はい……どうやって消せば?」
ダメだった。
友瀬さんがまさかここまで何も考えていないとは思わなかった。
失敗のパターンが日曜に暴走させた時と全く同じだ。
「小森君、ライターは持って来てる? とにかく友瀬さんの使い魔を消さないと」
「鞄には入れて学校には持って来ているけど……」
「どの道教室に戻らないとダメなのか……いや消すのはちょっと後回し」
綾乃が僕達に落ち着けとばかりに両手を真横に広げたポーズを取りながら言った。
「友瀬さん。もしかしてあなたの能力でこの虫の大量発生の原因とか探れない? まあ十中八九旧校舎の地下なんだろうけど」
「……多分、レーダーで調べられます」
綾乃の真剣な表情を見て友瀬さんは少し考えた後に答えた。
「ただ、調査をしている間は見た目が派手なことになるので、ちょっとそこの角の目立たないところへ移動して貰えたら」
「じゃあ渡り廊下ね。今の状況で別棟に行く人はいないでしょ」
多くの生徒が講堂へ移動していく騒然としたなか、僕達は逆方向、人気のない特殊教室がある別棟へ向かう廊下の途中にある窪みへ僕達は移動した。
友瀬さんがブレザーのボタンを外して隠していたコンソールと赤い孔雀……アルゴスを解放した。
……一応釈明はしておきたい。
コンソールではなく、ついブレザーに押し込められていた友瀬さんの胸の方へ目線が行ってしまった僕だけど、健全な男子高校生として別に悪いことはしてないと思う。
これは真面目に見える小森君も僕と同じ視線移動をしていたので同罪だ。
小森君の彼女の赤土さんも大きかったこと。綾乃には反応が薄かったこと。上戸さんに至っては妹扱いで無反応だったことから考えて、小森君は僕と同じタイプなのだろう。
きっと男子高校生としてはこれが普通の反応なのだ。
今は非常事態なので話を友瀬さんの能力の方に戻そう。
今まで1つだったコンソールが何枚も表示された後に友瀬さんの頭の上にアンテナのような棒が何本か立った。
コンソール上には次々と様々なグラフが表示されては消えてを繰り返していく。
これには僕と小森君は一緒に感嘆の声を上げた。
SF映画に出て来る未来のコンピューターで何かを分析するシーンのようにも見えるこの能力はかなりロマンがある。
「旧校舎のB5って出ました」
「B5? 地下5階って意味?」
「待ってください」
友瀬さんがまたも別のコンソールを起動させると、今度は僕達を斜め上からカメラで撮影したような映像が表示された。
現実でも同じ方向にカメラがあるのだろうか?
右上の天井近くを見上げると、そこには眼球のような物体が浮遊していた。
どうやら友瀬さんのレーダーに見える能力は電波などを受信しているのではなく、眼球の形をしたドローンのような子機を飛ばして、そこから転送された映像などを映し出す能力のようだ。
見ることが出来る対象はこの眼球が移動出来るか否かにかかっていると。
「今は2Fって出てます。ここは校舎の2階なのでこれをそのまま当てはめると」
「B5は地下5階の意味で合ってるのか。それでそこには何が有るの?」
「学校にいる虫みたいなのをばら撒いてる何かがいるんだと思います。それが何かまでは分かりませんが」
詳しく出せないということは、アルゴスが放った眼球がその地下5階にいる「何か」に倒されて映像中継出来ないのだろう。
ただ、状況は把握出来た。
旧校舎の地下にいる「何か」を放置していたら、学校にみんなの体調を悪くする何かが湧き出してきた。
この状態が続くことが良いとは思えない。
事態を解決できるのは、そこらを這い回っている正体不明の敵を視ることが出来る僕達しかいない。
「僕は行くよ。土曜日までじっとしていようとは思ったけど、学校がこんな状態だと見て見ぬふりは出来ない」
既に学校のみんなが酷い目に遭っている。
それに、学校がおかしな虫に占拠されれば、学校から近い僕の家にも被害が出る可能性は高い。
いくら暴走の危険があるとはいえ、敵に抗える力があるというのに、何もせずに傍観しろという意見は聞いていられない。
「私も行きます。きっとアル君のレーダーは先輩の役に立つはずです」
友瀬さんも協力する意思を示した。
かなり危険な力ではあるが、レーダーとレーザーの2つはきっと旧校舎の地下を調査する上で助けになってくれるはずだ。
後は小森君が協力を申し出てくれたらいつでも出発出来る。
小森君は僕と友瀬さんを見て軽くため息を付いた後に言った。
「俺だけで解決するつもりだったんだけど仕方ない。矢上君と友瀬さん、一緒にこの事件を解決しよう!」
「もちろん!」
「はい、頑張りましょう」
「それじゃあ私は」
「綾乃はダメ」
「柿原は一般人だ。出来ればこのまま土曜日を迎えて欲しい。本当は矢上君や友瀬さんも何もしないで欲しいくらいなんだ」
綾乃も付いて来ようとしたが、僕と小森君がそれを止める。
綾乃には敵と戦える能力などないのだから、安全な場所で待機していて欲しい。
これは嫌がらせで言っているわけではない。
綾乃が心配だからこそだ。
「でも私だけ何もしないってのは」
「分かって欲しい。綾乃にしか出来ないことはきっと他にあるし、それは僕達に付いてきて戦うことじゃないってこと」
諭すように言うとしぶしぶながら分かってくれた。
「じゃあ作戦だ。生徒は一度学校から全員追い出されて、警察やら消防やらが調査すると思う。毒ガスってことになってるから」
「ならいつ調査を?」
「夜になってから。闇に紛れて旧校舎に潜入しよう」
◆ ◆ ◆
「よりにもよってこのタイミングで問題が起こるとは」
俺……上戸佑は小森くんから届いた状況報告の電話を受けてため息をついた。
折戸教授が書いた本が届いたので読み込み、その内容から警視庁の横やりで埋められた「遺跡」の位置を特定することが出来た。
なので、木曜日に有休を取って1日調査を行う予定だったのだ。
予定を切り替えることが出来るか新幹線の時刻表とにらめっこをする。
仕事が終わってからすぐに横浜に向ったとしても、俺の職場から新幹線の停車駅である姫路、新神戸へは到着まで微妙に時間がかかる。
その時間からだと東京方面の新幹線の最終便にはおそらく間に合わない。
仮に最終便に間に合ったとしても、新横浜駅で終電を迎えることになり、そこで足止めを食らって終わりだ。
小森くん達のダンジョン攻略の手伝いには間に合わない。
中途半端なことをするくらいならば、俺はこちら……奈良の遺跡の調査に集中した方が良いだろう。
「そういうわけだから俺は協力できない」
『それは仕方ないです。俺達だけでなんとかするつもりですけど……何か注意することはありますか?』
小森くんから尋ねられたが、ダンジョン攻略については流石に情報不足過ぎてアドバイス出来るようなことがほぼない。
ただ、これから事件解決に向けて調査して欲しいポイントならばある。
「旧校舎の地下へ行く前に学校内で調査して欲しいことが1つある」
『「学校内」ですか?』
小森くんから意図が分からないという雰囲気の声が返ってきた。
おそらく地下で何が起こっているか調べろと俺が言うと思っていたのだろう。
「自分がもし調査の責任者だったらと仮定する。『決して目立つな。静かに調査を進めろ』と言われていたのに、有毒ガスとかで大騒ぎになってしまい、これから学校に警察、消防、救急、報道機関なんかがやって来る。このままだと旧校舎に踏み込まれるのも時間の問題だ。さてどうする?」
『今回の事態は「神父」サイドにとっても想定外だったと?』
「『学術調査』は3月までの予定だ。納期が迫ってるわけじゃないから、別に急ぐ必要なんてないんだ。それだけに、魔物大放出とか大ポカをやってこれまで秘密裏にやってたことを無駄にする意味が分からない」
これは俺の推論だが、そこまで見当外れではないと思う。
流石に今の状況で学校内に魔物を放つのには無理がある。
『柿原さんの能力覚醒……とか』
「柿原さんや他にいるであろう能力者への覚醒にしては影響範囲が広すぎる。『神父』が能力者にどれだけウェイトを置いているか、何をさせたいのかについては不明だけど、年末から密かに進めて来た旧校舎地下の調査を台無しにしてまでというのは理解しがたい。払うコストが大きすぎる」
小森くんが電話の向こうで「むぅ」と唸った。
その後ろで「じゃあこうじゃない?」とワイワイ騒いでいる声が聞こえる。
学生同士楽しそうでよろしい。
俺の話を聞いて、電話の向こうで向こうでも「ああでもないこうでもない」と相談して推測しているのだろう。
不謹慎ではあるが、学校の勉強だけではなく、こういう体験も貴重な「学習」だと思う。
こうやって少ない情報から仲間と相談して考察、推理した経験は糧になり、今後の人生でも役に立ってくれるだろう。
この輪の中に学校が違うエリちゃんが混ざれないのは本当に悲しいことではあるが。
『外部の人間に旧校舎地下の調査がバレるとマズいことになります。県会議員の権力を飛び越えて警視庁が埋めにやってくるはずです』
「その状況でやらないといけないことは?」
『外部の人間には帰ってもらえるようダミーの理由を作ります。その上で旧校舎にある地下への入り口を塞いで見えなくしたいですね。地下に潜っての原因調査はその後』
「ほぼ答えが出たじゃないか。校内で明らかにおかしな動きをしているやつを捜すんだ」
『そいつが学校内に入り込んで何かを企んでいる協力者……俺達の敵』




