Chapter 1「魔女」
「あいたっ」
床に身体を打ちつけた衝撃で目を覚ました。
どうやら寝ぼけてベッドから床に顔面から落ちたようだ。
鼻のあたりがヒリヒリと痛む。
鼻と額を右手で押さえながら、起き上がろうと左手でベッドの縁を掴もうとして、手が空を切った。
袖からずっしりとした重みを感じる。
視線を向けると、寝間着ではなく、袖が膨らんだゆったりとした黒い服を着ていた。
いや、そこは問題ではない。
問題は、その黒い服から覗くピンク色の袖。そして、その先から見えるのは、見慣れない細く小さな指だ。
何度か手を開いたり閉じたりしてみると、意識した通りに動く。
誰か知らない人物の手が見えているのではなく、間違いなく自分……俺の腕だ。
「な……なんだ、これ」
思わず発した独り言だが、それも聞き覚えのない声だった。
軽く咳ばらいをした後に、ブラウスの襟のボタンを外した。
喉元に手を当てて「あーあーあー」と発声をしてみると、自分が思っているよりも甲高い声が発せられた。
明らかに異常な事態が起こっている。
もちろん、これが夢とは考えられない。
まだ鼻先に残る痛みが、それを証明している。
一度目を閉じて、人差し指を額に当てた。
大きく深呼吸をした後に、思考を巡らせる。
俺は別に運動が得意なわけでも、優れた芸術の才能も、商才も何もない。
ただの地方都市に住むサラリーマン、上戸佑23歳。
あるのは、観察から得られた情報と過去の雑学知識、趣味の経験を結び付けること。
それらから、回答を導き出す小癪な頭の回転と、その答えを真実っぽく誤魔化す言いくるめのテクニックだけだ。
ここで取り乱しても物事が解決するわけもない。
頼れるのは神ではなく自分自身だ。
あくまでも冷静に。常にクールであれ。
まずは、分析のための観察から始めよう。
目を開けて、まずは自分に何が起きたのかを確認する。
着ている服は、頭から被るワンピースタイプだった。
丈は膝の少し先まで伸びている。いわば、魔女のローブのような服だった。
ハロウィンの仮装などで目にするタイプだ。
その下に着ているのは、袖口から分かる通りに、ピンク色のフリル付きブラウスのようだ。
続いて頭の上にあった重さの正体を確認する。
視界の隅に映る鍔を掴んで帽子を脱ぐと、長い前髪が目に垂れてきて視界を覆った。
髪の色は雪のように白かった。
銀髪というよりも、不健康な白さだ。
いくら多忙な日々でストレスの多い生活を送っていたとはいえ、俺はまだ23歳で社会人2年目だ。
白髪が生える歳ではない。
だが、事実として髪が白くなっているのだから、それは認めないといけない。
いくら理不尽なことだとしても、あるがままを受け入れて分析に繋げる。
その方針を崩してはいけない。
帽子は真っ黒な三角帽だった。
ローブといい、三角帽といい、まるでハロウィンの魔女だ。
甲高い声、細い指、そして魔女の服装……それらの単語が脳内で連想ゲームのように組み合わさり、一つの結論に行きついた。
行きついてしまった……嫌な予感がして、両手を胸に当てる。
ゴワゴワした、分厚い生地のローブ越しでも、その下にある柔らかい感触が伝わってきた。
薄い……薄いが、明らかに人間の脂肪的な柔らかさだ。
手だけではなく、体の感覚も、それが正しいと証明している。
Koolだ。Koolになれ。
これはちょっと太っただけだ。不摂生がたたって、胸に余計な脂肪がついた。そうに違いない。
まずは素数を数えよう。
1、2、4、6、8、10、12……素数ヨシ!
ところでお客様の中に俺の息子様の居場所をご存じの方はおられませんか?
どうやら家出されたようで、違和感があり支障が発生しております。
助けてくださいお願いします。
一度気を落ち着けるために両手で頬を強く叩いた。
痛みと共に、少し頭がスッキリとした。
認めるしかない。
集めた情報が、俺の体が魔女の少女になってしまったと証明してしまっている。
深く息を吐き、ようやく周りに目を向けた。
少なくとも自分の部屋ではない。
見慣れたフローリングもなければ、スマホなどの電子機器もない。
足元に敷かれているのは、石畳だった。
薄い靴底越しに、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。
その石畳の上に、背の高さくらいの長い木の箒が転がっていた。
これ幸いとばかりに拾い上げて杖のように体を支えた。
この魔女の少女の体は、元の体との身長差があるからなのか、ただ立っているだけでもバランスが悪くて落ち着かない。
見上げれば、そこは岩をくり抜いて作られた巨大な空間のようだった。
壁は磨かれておらず、ごつごつとした岩肌がむき出しのままだ。
ただし、天井にはいくつも四角い穴が開き、透明な板がはめ込まれている。
そこから差す陽の光が、部屋をぼんやりと照らしていた。
天然の洞窟を人工的な部屋に加工しているようだ。
この雰囲気にはうっすらと覚えがある。
小学校の頃に遠足で行った、炭鉱跡の資料館だ。
ただし、照明や換気扇などの電気設備や案内板のようなものは見当たらない。
日本国内には閉山した鉱山跡を再利用して作られた資料館などは複数ある。
だが、そういう施設には、電灯くらいは付いているはずだ。
だが、そのような設備がないということは――
「――完全に放棄された施設か海外……それとも……」
自分が出した結論に背中がぞわりとした。
どの選択が正しくとも、助けが来ないような場所だということは分かる。
せめてスマホがあれば、今いる場所くらい分かるだろうに。
使える物はないかと身体をまさぐると、ローブの腰にポケットがあることに気付いた。
中身を、まとめて引っ張り出す。
汚れたハンカチ。ドングリ。落ち葉。丸めたメモ用紙。短い鉛筆。曲がった銀のスプーン。
ゴミばかりだ。もちろんスマホは出てこない。
唯一の手掛かりらしいメモを開くと、日本語でもアルファベットでもない文字が並んでいた。
形はアラビア語に近いようだが、それが分かったところで、読めないことには変わらない。
「でも、意味はなんとなくわかりそうだな。昔、マンガかゲームで見たのか? 集めろ、重ねろ、我の名を呼べ?」
持てる知識を引っ張り出して無理矢理読んでみたものの、文の意味が理解不能だ。
そもそも、これが合っているかどうかも分からない。
どこでこの文字を見たのかを思い出せないのだから。
出所不明の知識で読めてしまったことが少し引っかかったが、今は考えないことにした。
ただでさえいっぱいいっぱいなのに、余計な問題を増やしたくない。
ただ、メモ自体は後でヒントになるかもしれない。
しわを伸ばして丁寧に折り畳み、ポケットへ戻した。
最後に出てきたのは、一枚のカードだった。
名刺より一回り大きい、ラミネートされた硬い紙。
「[ラヴィ(ハロウィン) SR]……なんだこれ」
名前らしき文字の下に、箒を持った少女のイラストが描かれている。
白い髪に、赤い目。半眼で、姿勢が悪い。
服装や白い髪など、イラストと今確認できる俺の外観は全て一致している。
自分では確認できないが、このイラスト通りに目の色も赤いのだろう。
「SR」というのは、ソシャゲのガチャでよく見るレアリティだろうか?
だとすると、「(ハロウィン)」とは、ソシャゲのキャラによくあるハロウィン限定キャラということではないだろうか?
イラストの下に、小さなアイコンが三つ並んでいた。
飛ぶ鳥。ハート形のクッキー。直進する光線。
何か起きるのではと期待してカードのアイコン部分を指で押してみるが、特に反応はない。
ただの印刷された紙でしかない。
カードの下部には短いセリフだけが刷られていた。
「ハ、ハロウィンです。クッキーをどうぞ」
先程のメモとは別の意味で理解できない。
カードを裏返しても、そこは無地で、それ以上の手がかりはなかった。
ハロウィン、か。
そういえば昨夜、寝る前に友人からメールが来ていた。「明日はハロウィンだからカボチャ料理を作れ」と。
カードを握りしめ、もう一度、周囲をぐるりと見回す。
かなり広い部屋だ。ちょっとした体育館くらいはあるだろう。
部屋の隅の方にまでは光が届いていないので、端の様子は分からない。
仕方なく、箒を杖にしながら部屋の端へ歩き始めた。
まずはこの室内を全て調べて、更なる情報を得る。
静まり返った室内に、いつの間にか履いていたミュールの踵が石畳を蹴る音だけが響き渡る。
それ以外には何の物音もしない室内に、さすがに耐えきれなくなった。
打ち消すために独り言を呟いたつもりが、それが思わぬ大声になった。
「誰か! 誰でもいいから出てきて今の状況を説明してくれ!」
口から出てきたのは思っていたのと違う言葉だった。
どうやら、あまりに不可解な出来事が続いたせいで、よほど参っていたらしい。
ただ、俺の叫びに答えるかのように部屋の隅から足音と人の声が聞こえてきた。
その音は段々と近づいてくる。
「鬼が出るか蛇が出るか。どちらにしろ当たって砕けろ、だ」
俺もその足音の方向へ歩みを進めた。




