追憶からの前日
一寸先は闇。五里霧中。
その二つを少年は同時に味わっていた。
辺りには霧なのか靄なのか、よく分からない漆黒の気体が漂っている。
日光はこの気体によってほとんど遮られ、微かな月明かりしかない真夜中のように真っ暗。
僅か数メートル先ですらボンヤリとしか見えず、一歩を踏み出すのにも慎重にならざるをえない。
薄っすらと見える光景は、雑草一本すら生えていない荒野。
木は枯れてその場に立っているだけで、かつては川だった窪みには一滴の水も無い。
外套を纏った茶髪の少年はそんな場所をただ一人、多くの荷物を縛りつけた背負子を担いで進んでいる。
「……」
何度辺りを見渡しても、人っ子一人どころか鳥や動物や虫の姿すら見えない。
大地以外の自然が存在しない光景は、正に死の大地。
だが、そうなっている事は分かっていても、誰もそれを確認できていなかった。
理由は立ち込める黒い霧にある。
この中に入ったら最後、例え僅かな時間でも潜入した全員が死亡している。
死の大地を覆う死の霧が漂う地。
そんな場所だというのに少年は死なず、自らの足で歩いていた。
「……ふう」
休息を取るために足を止めて座り、竹製の水筒を取り出して中の水を飲む。
渇きは完全に癒えないものの、量が限られている上に一滴の水も無い地にいるため必要以上に飲む訳にはいかず、誘惑に屈する前に袋へ水筒を戻す。
「今日で……何日だっけ……」
次いで背負子の荷物から取り出したのは、掌に乗る程度の小さな木の板。
それには横線が三本刻まれている。
「三日……か」
日中でもほとんど日が差し込まない黒い霧の中。
昼と夜の判別もつき難く、僅かな明暗と変化と今の時期特有の寒暖差を頼りに少年は日にちを数えて刻んでいた。
ほとんど何も見えない霧の中を連日歩き続けたことで、時間の感覚は狂いだしている。
しかし正気が失われることはなく、精神的に壊れることもなく、なによりも死ぬことがない。
そんな身だからこそ少年はこの地へ来ることを選び、自らここへ来た。
「明日には……帰路に着こうかな……」
誰かに対して向けたものではない、完全な独り言を呟いて木の板を戻す。
太陽も星も見えず方角が分からない彼にとって、唯一方角を知る手がかりとなる方位磁針を地図と照らし合わせて方角を確認すると、立ち上がって再び歩み出す。
この光がほとんど差し込まず、何も無い大地を進んで調査すること。
それが真っ暗になった人生を切り開き、光を差し込ませる手段だと、今にも倒れそうなほど肉体的にも精神的にも疲れ切った自分へ鞭を打つ。
倒れたところで数十年は死なず、疲れも少し休めば回復してしまうんだからと言い聞かせながら。
「ホント、ここには何度来ても苦しめられるな……。ハハッ……」
何度も繰り返した呟きに失笑しつつ、少年は思い出す。
人類どころか動物や魔獣すら足を踏み入れない、この魔境へ足を踏み入れる切っ掛けとなった日のことを。
『あなたがどんな人生を送るかは分からないけど、寿命が尽きるまで生きるんだから、後悔しないようにね!』
あの日、満面の笑みでそう告げた少女を思い出し、踏み出す足取りが強くなって目に力が宿る。
頬を叩いて気合いを入れた表情にも生気が戻り、少年は歩き続ける。
「そうだよな。俺が選んで俺が決めたんだ、後悔なんてするもんか」
それが空元気なのか、本当に力が湧いてきたのかは分からない。
だが、こことは別のどこかからそれを見ていたその少女は、触れられないと分かっていながら手を伸ばして告げる。
『ごめんね。それをあげた私には、あなたを見守って無事を祈る事しかできなくて』
申し訳なさそうに少年の未来を案じる少女も思い出す。
彼の人生の転機となった、あの日の事を。
******
日が傾きだした午後の時間帯。
リュウ皇国の皇都に建つ国立高等学校の校庭では、拳法服姿の少年少女が格闘技の訓練をしている。
その中に、複数の少年少女を前に手合せをしている二人の少年がいた。
片や茶髪に黒い拳法服の少年、片や黒髪に赤い拳法服の少年。
二人の手合せに野次馬の少年達は声援を送り、少女達は一部の血の気が多い子を除き、心配そうに様子を見守っている。
だが、声援と視線が向けられているのは黒髪の少年だけで、茶髪の少年には誰一人として声援も視線も向けていない。
しかし、当の二人の目には手合わせしている相手しか入っておらず、声援も耳に入っていないほど手合せに集中していた。
「「はあぁっ!」」
双方が声を張り上げ拳を突き出す。
交錯した拳は互いの頬に直撃し、何人かの女子が小さく悲鳴を上げて目を逸らす。
しかし戦っている二人は歯を食いしばって耐えると、ほぼ同時に後ろへ跳んで距離を取った。
「ふぅっ!」
茶髪の少年は一回だけ強く息を吹き出し、冷静な表情で構え直す。
「くぅっ!」
苦しい表情を浮かべる黒髪の少年は、脚が震えて崩れ落ちそうになるのを堪え、こちらも構え直す。
そのままどちらも動かず睨み合いに入ると、緊張感が野次馬達にも伝わって声援が止む。
風で葉が掠れる音と周囲の手合わせの声だけがする中、誰かが唾を飲んだ瞬間に双方が同時に飛び出し、真っ向勝負とばかりに右拳を突き出す。
黒髪の少年が顔を狙った拳は寸前で避けられ、頬を掠めるだけに終わったのに対し、茶髪の少年の拳は見事に狙った鳩尾へ命中した。
「がっ、ふっ……」
息が詰まった黒髪の少年はそのまま崩れ落ち、うつ伏せで地面に転がった。
応援していた少年少女から声が掛かるが、黒髪の少年は起き上がれない。
「しっ! 俺の勝ちだな」
茶髪の少年は小さくガッツポーズを取って、自身の勝利を告げる。
「あぁっ、くそっ! 負けたよ、私の負けだ」
黒髪の少年は転がって仰向けになると手足を広げ、大の字になって悔しそうに負けを認めた。
応援していた側が敗北したことで、彼を応援していた野次馬達は残念そうにしたり、悲痛な声を上げたりする。
「これでまた、お前の連敗記録が伸びたな」
笑みを浮かべながら歩み寄った茶髪の少年は、倒れたままの黒髪の少年へ手を差し伸べる。
連敗記録を指摘された黒髪の少年は、苦笑いを浮かべながら差し伸べられた手を握った。
「自分の連勝記録を自慢するんじゃなくて、相手の連敗記録を指摘するとはいいご身分だな」
そう言いながら引っ張ってもらって立ち上がると、背中についた土を払い落とす。
「文句があるなら俺に勝ってから言えよ、ハク」
「皇子である私にそういう口を利けるのは、お前くらいだぞ。ロン」
茶髪の少年ロンこと、高位豪族リ家の長男リ・ロンレン。
黒髪の少年ハクこと、リュウ皇国の第三皇子リュウ・ハクト。
幼い頃に出会った当初こそ色々とあったが、それが切っ掛けで打算抜きの友人関係を築き上げた二人にとって、本気の手合わせ程度で関係が崩れることは無い。
「ハクとしては、それがいいんだろう? お前の周りで俺みたいに接してくれる奴、何人いる?」
周囲を気にして後半を小声にしての問いかけに、しばし考えたハクトは落ち込む。
「家族とロンを除けば、レイしか浮かばん」
頭に浮かんだのは家族とロンレン、それと婚約者の少女だけ。
肩を落としながらの返事に、元気出せよと伝えるようにロンレンは肩を叩いた。
先ほどまで応援していて、今は徐々に解散していっている野次馬達は取り巻き気取りであって、友人ではない。
立場上は仕方ないと理解していても、やはり少し悲しいハクトだった。
「殿下! 大丈夫ですか!?」
校舎の方から誰かがハクトを呼ぶ。
顔を向けると外側に跳ねた黒髪にタレ目をした、気の弱そうな少年が駆けてくるのが見えた。
少年はハクトの下へ辿り着くと、膝に手を置いて息を整える。
「大丈夫もなにも、いつもやっていることなんだから心配するな」
「あんな本気の手合せを見て、心配しないはずがないでしょう! 万が一あったら、困るんですよ!」
息を切らしながらハクトに詰め寄る少年はハクトの付き人であり、高位豪族ヤオ家の長男ヤオ・ショウライ。
世話役としてハクトに仕えている彼は、度々二人が姿を消しては本気の手合せをしているのを目撃し、毎回肝を冷やしている。
「そう言われてもな。なあ、ロン」
「ああ、昔っからこんな感じでやってるから、今更だよな」
何度苦言を呈しても、二人はこの調子を崩さない。
「なんなら、お前もやるか? 本気で掛かって来るなら、構わないぞ」
「やりませんよ! そもそも殿下を本気で殴るなんて、普通はできません!」
きっぱりと拒絶したショウライに、自分が普通じゃないように言われたロンレンは不満顔をする。
「そんなこと言ったって、本気でやらないと強くならないだろう?」
「どうして殿下が強くなる必要があるんですか! なんのために、護衛がいると思っているんです!」
「護衛がいるとはいえ、自衛ぐらいできた方がいいだろう? それに体を鍛えて損は無い。そうだろう、ロン」
話を振られたロンレンは頷く。
「同感だ。鍛えておけば迫力とか威圧感が出て、将来的には威厳に繋がるかもしれない」
「だろう?」
「だろう? じゃないですよ! 鍛えるなら、本気の手合せじゃなくてもいいじゃないですか!」
「自衛できるようになることも兼ねているんだ、相手が本気で来ないと意味が無い」
「ああ、もう!」
毎回のように交わしている、ああ言えばこう言うなやり取りにショウライは頭を抱える。
こうした気苦労から、彼は早めに頭が薄くなるんじゃないかと密かに噂されている。
「とりあえず、汗を流してくるか」
「そうだな」
頭を抱えてブツブツ言っているショウライを放置し、二人は学舎の裏にある井戸へ向かう。
そこでは同じく訓練をしていた数人の少年達が、交代で井戸水を汲んで汗を洗い流している。
二人も順番を待って水を汲むと、上半身裸になって水を被る。
他の少年達よりも鍛えられている二人の体つきに、学舎内から密かに眺めていた女子数名が騒ぐが、誰も気づいていない。
「ぷはぁ。良い汗を掻いた後は、これに限るな」
「冬場は冷たくて凍えそうだけどな」
「それな」
軽い口調で会話を交わしながら、もう一杯水を汲んで頭から被る。
「そういえば、ロンは明日が十六歳の誕生日だったな」
「ああ。明日は休んで社に行って、加護を授かってくる」
二人の話題に上がっている加護とは、成人である十六歳になったら誰もが神から授かれる力のこと。
この世に存在する神々のいずれかから、その神が司る力の一端を授かるとも言われている。
翌日に誕生日を控えるロンレンは、それを授かるために社を尋ねることになっている。
「親父は役に立つ加護を授かれって言うけど、そう言われてもな」
「どの神からどんな加護を授かるかは、正に神のみぞ知るだからな」
「だよな。そもそも、神がくれるものに文句やいちゃもんをつけたりなんかしたら、宮司や巫女が激怒するぞ」
違いないとハクトが返して笑い合い、体を拭いていく。
それが終わるとショウライと合流して、二人は校門前で別れる。
「じゃあ、また明後日だな」
迎えの馬車に乗る前にハクトが声を掛ける。
「ああ、また明後日」
互いに小さく手を挙げて言葉を交わすと、ハクトはショウライと共に馬車へ乗って帰って行く。
それを見送ったロンレンも帰路へ着く。
人々の行き交う通りを抜け、豪族の屋敷が多く建つ区画にあるリ家の屋敷に着くが、門番は見下すような目で軽く会釈をするだけで挨拶はしない。
屋敷の中で擦れ違う家臣や女中も大半が同じ反応で、挨拶をする者はごく少数。
その少数の者達も、見下してはいないものの憐みの目を向けてきて、擦れ違うとヒソヒソと何かを喋っている。
どうせまた、自分への陰口だろうと思ったロンレンは心の中で舌打ちし、狭い自室に着くと荷物を放ってベッドに寝転がった。
「……明日授かる加護次第じゃ、周りの反応も変わるのかな」
天井を眺めながらポツリと呟く。
仕えている家の当主の子供。それも長男に対するものとは思えない反応を周囲が取る理由を、ロンレン自身も分かっている。
そしてそれが、どうにもできない理由であることも。
「まぁ、加護で態度を変えられたら、それはそれでなんか嫌だけどな。はあ……」
複雑な気分と表情で溜め息を吐いていると、部屋の扉がノックされた。
「兄さん、いますか」
「ああ、いるぞ。入っていいぞ」
扉の向こうからの声にロンレンの表情が和らぎ、体を起こしてベッドに腰掛ける。
入室の許可を得て扉を開けたのは、ロンレンと同じ茶髪をした十二、三歳くらいの少年。
その後ろには同じくらいの年齢の少女がおり、髪の色だけでなく顔つきもロンレンと似ている。
「おかえりなさい、兄さん」
「おかえりなさいませ、ロンお兄様」
「ただいま。ラオ、シェン」
現れたのは三歳年下の弟ラオヤンと、四歳年下の妹シェンカ。
二人は笑みを浮かべて歩み寄り、ロンレンの両隣に腰掛ける。
「とうとう明日は、待ちに待った日ですね」
「どんな加護を授かるんでしょうか」
「さあな。こればかりは文字通り、神のみぞ知るだからな」
「僕達は学校があるので立ち会えませんが、明日は兄さんの誕生日も合わせてお祝いですね」
「加護を貰えば、皆もロンお兄様に優しくなりますかね?」
ロンレンに対する周囲の反応を心配したシェンカの呟きだが、そうなったら複雑だと思っていた直後のため、苦笑いを浮かべてしまう。
「……それは分からないな。父上や皆が素っ気ないのは、加護とは別の理由だからな」
「別に魔力が無いくらい、些細な問題じゃないですか」
不機嫌そうに呟くラオヤンの言う通り、屋敷の人々がロンレンに冷たい理由は魔力が無いことだった。
魔力は個々で量に違いはあるが、誰もが少なからず有している力。
それを使って魔法を発動させたり自身を強化したりするのだが、ロンレンは生まれつき魔力を有していなかった。
たったそれだけのことで人間として欠陥品とみなされ、家でも学校でも親しい者は少ない。
親しくしている相手は、家では両隣にいるラオヤンとシェンカ。学校ではハクトとショウライを除き、片手で数えられる程度しかいない。
それでも高位豪族の長男であることには変わりないため、何かしらの嫌がらせや虐めを受けている訳ではないが、家柄目当てで近寄る者すらいない。
ハクトとの手合せで声援を送られなかったのも、相手が皇子のハクトだからというだけではなく、そういった理由が絡んでいる。
「気にする人は気にするんだよ。その程度のことでもな」
当初はロンレン自身も気にしていたが、無い物は無いのだからと割り切って考え方を変えた。魔力が無くとも、別の事で補って生きていこうと。
その一心で勉学や鍛錬に励んできたのだが、その姿勢すら多くの人々は全く評価していない。
「なに、たかが魔力が無いだけだ。生きていくのに影響は無いさ」
そう呟きながらロンレンが二人の頭を撫でると、二人は嬉しそうな表情を浮かべた。
「安心してください! 私は全く、これっぽっちも気にしていません!」
「僕もですよ、兄さん!」
「ああ。ありがとな、二人とも」
強い口調でハッキリと主張する二人にお礼を言い、再度頭を撫でだす。
そんな仲の良い兄弟の時間を過ごす三人は、翌日に何が起こるかなど知る由も無かった。