俺のマジックアローの射程距離は――
家まで戻った俺は、抱えてきた女を寝室に横たえた。
女はまだ意識がもうろうとしているようで、苦しげな声を漏らしながら荒い呼吸を続けている。
女はその日も、次の日も苦しそうな様子で眠り続けた。
俺はたまに部屋にやってきて頭に置いた濡れたタオルを取り替えたり、水を含んだスポンジを女の口元に当てたりした。
異変が起きたのは翌々日の朝だった。
俺が隣の部屋で朝食をとっていると、寝室からごそごそと静かな物音が聞こえたのだ。
目を覚ましたのだろうか……?
俺は食べかけの朝食をそのままに隣の部屋のドアを開けた。
……ちなみにノックは忘れた。ひとり暮らしが長すぎてすっかり頭から消えていたのだ。
ベッドには誰もいなくなっていた。
少し前まで誰かが横たわっていた、乱れたシーツだけがそこに残っている。
「あ」
横から声がした。女の声だ。
そちらに目をやると、俺が助けた旅人――一五歳くらいの真っ白な髪の若い女が本棚の前に立っていた。
女の目は動揺に揺れていて、女の口は動揺で固く結ばれている。こわばった身体からは『警戒』の二文字がにじみ出ていた。
まー……。
目を覚ましたらどこかしらない家で、いきなりドアを開けて一〇も年上の男が出てきたら恐怖で固まるか……。
俺は両手を開いて上へと向ける。
「身体は大丈夫かい? 街道で倒れている君を見つけてね、心配だったから俺の家で介抱したんだ」
俺の言っていることが理解できたのだろう。女ははっとした顔で慌てて頭を下げた。
「すいません! 助けてくれた人にあんな態度をとって! 本当にありがとうございます!」
「いや、いいよ。気にしてないから」
俺はひらひらと手を振った。
「それよりお腹はすいていない? ずっと寝込んでいたけど。ちょうど朝食を食べていたんだ。よければ君のぶんも出そうか?」
「い、いえ! そこまでお世話になるわけには……!」
女が慌てて首を振ったときのことだ。
部屋に俺が食べていたスープの香りが漂ってきた。ふわりとしたよい香り。まるでそれに触発されたかのように――
ぐー。
女の腹が鳴った。
「あ、ああ、あ……!」
赤面した女がお腹を押さえる。
俺はふふっと笑った。
「遠慮しなくていいさ。無茶は身体に良くないよ」
俺は女の子を食卓へと案内した。
女の子の前にパンと鶏ガラでとったスープを置く。
「俺が撃ち落とした鳥で作ったスープだ。うまいぞ」
「いただきます!」
女の子はそう言うとすごい勢いで食べ物を口にした。……よっぽどお腹がすいていたんだろうなあ……。
ぺろりと平らげた女の子に俺は言った。
「おかわりいる?」
女の子ははっとした後、おずおずとした様子で言った。
「は、はい……お願いします……」
それを食べ終わってから、対面に座る俺にぺこりと頭を下げた。
「こんなにごちそうになってありがとうございます」
「いいよ。気にしないで。おいしかった?」
「はい、とっても」
女の子がはにかむ。
「あ、すいません。こんなにしてもらっているのに、自己紹介がまだでしたね。わたしはローラと申します」
「ローラね。俺の名前はアルベルト――」
言いかけた家名は呑み込んだ。
父親の声が脳裏に蘇る。
――お前は追放だ。二度とリュミナスの名を名乗るな。
「……アルベルトだ」
それから俺はローラに質問を投げかけた。
「あの道は王都に続いているけど……ローラは王都に向かっていたの?」
「はい。王立魔術学院に入試を受けに行くところでして」
「へえ」
そう言えば、俺が受けに行ったのもこれくらいの時期だった。
「……アルベルトさんは魔術に興味があるんですか?」
「どうして?」
「あの、勝手に見てしまって申し訳ないんですけど、さっきのお部屋に魔術の本がたくさんあったから……」
「ああ」
思い出した。さっき彼女は本棚の前に立っていた。そこで見たのだろう……俺が捨てることができず、実家から持ち出してきた夢の残骸を。
「興味だけね。少しかじったんだ。魔術学院を目指したこともあったんだけどね。結局、諦めたよ。……才能がなかったからね」
俺は薄く笑ってそう言った。
嘘だが。俺は王国の魔術学院に入学していたが、その苦い過去は他人に伝えたいものではない。
その瞬間、ローラが露骨に動揺し始めた。
「は、へ、え!? すすすす、すいません!?」
「え?」
「そ、その、そんな人に! 受験するんだーなんて言っちゃって!」
こちらが申し訳なくなるほどにぺこぺことローラが頭を下げた。
……うーむ……。
こちらこそ申し訳ない気持ちになる。俺は嘘をついたのだから。
「……気にしないでくれ。それはもう俺の中で割り切った話だから」
「そそそそ、そう言ってもらえると助かります!」
慌てているローラのために俺は話題を変えた。
「それで学院に向かっている最中で――どうして倒れたの?」
「故郷から王国まで歩いてきたんですけど、疲労が溜まったみたいで……」
「大変だったね」
「アルベルトさんに介抱してもらえて助かりました。こんなに早く回復できなかったと思います。けっこうぎりぎりな日程だったので……」
「ぎりぎりなんだ。試験はいつ?」
「明日、二月一七日の昼からです」
……明日?
「明日の、二月一七日?」
「はい、そうですけど?」
ローラがきょとんとした顔で俺を見ている。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
そして、死刑宣告を口にするような気持ちで口を開いた。
「悪いが、二月一七日は『今日』だ」
「……え?」
ローラがぽかんと口を開ける。
その顔がだんだんと焦りの表情へと変わっていく。
「え、え、ええ!? 今日が、試験日!? わ、わたしが眠っていたのは一日だけですよね!?」
「いや――君は丸二日眠っていた」
「そ、そんな……!」
ローラが絶句する。
俺は窓に目をやった。朝の柔らかな日差しが差し込んでいる。
まだ試験は始まっていない。
だが、わずか四時間後には始まってしまう。
ここからどんなに急いで歩いても王都に着くのは夕方頃だ。ましてや病み上がりの身体。
間に合うはずがない。
ローラが頭を抱える。
「ごめんなさい、村長さまおじさまおばさまお母さんお父さん村のみんなああああああ! あんなに頑張れ頑張れと送り出してくれたのにいいいい! 期待に応えられなくて……!」
俺は立ち上がった。
「そう落ち込むな。まだ四時間もあるんだろう? 間に合うさ」
「そ、そんな、間に合うはずが――!?」
「まだ一時間くらい余裕がある。君の荷物は寝室にあるから旅の準備を。ああ……少しくらい身だしなみを整えたほうがいい。せっかくの大舞台なんだから。水桶は自由に使ってくれ」
俺の言葉の意味がわからなかったのだろう。
女の子は惚けた顔で俺を見た。
「え、え……?」
「間に合うから。ゆっくり支度をして出てくるといい。俺は外で待っている」
そう言うと、俺は家の外に出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「間に合うから。ゆっくり支度をして出てくるといい。俺は外で待っている」
そんなことを言って目の前にいた男――アルベルトは家の外へと出ていった。
ローラはまったく理解できなかった。
間に合う?
絶対に間に合うはずがないのに。ただの気休めだろうか。だが、アルベルトにそんなことを言う理由がない。
気になることは次々と浮かぶが、ローラは疑うことをやめた。
もう『それ』しかないのだ。
アルベルトが垂らしてくれた蜘蛛の糸、それにすがるしかない。
アルベルトは一時間くらいかけていいと余裕をかましていたが、ローラは三〇分もかけずに身支度をととのえる。
家の外に出るとアルベルトが待っていた。
茶髪で黒目――顔立ちは整っているほうだろう。年の頃はローラより一〇は上。物静かな雰囲気を称えた男だ。
ローラに気づいたアルベルトが切り株から立ち上がった。
「早いね。もう支度はいいのかい?」
「はい。……時間は少しも無駄にしたくないですから。でも本当に間に合うんですか……?」
「もちろんだよ」
アルベルトはローラの横に立った。
「俺の魔術――マジックアローで運んであげよう」
マジックアロー?
ローラは頭のなかがさらに混乱した。
マジックアローは初級――いや、超初級の魔術である。ほとんどの魔術師が最初に覚えるものだ。
それは白い矢で目標を撃つだけの魔術。
そんなものがこの状況で何の役に立つのだろう?
「さて、王都はあっちのほうかな」
アルベルトが手を斜め上へと向ける。
「すまないが、俺の身体に抱きついてくれ。危ないからな」
気恥ずかしかったが、ローラは言われたとおりにした。もう今さらしのごの言う段階ではない。
そこでふと――
ローラはとある光景を思い出した。
ローラの脳裏に自分が休んでいた場所が浮かび上がる。休んでいたとき、空から鳥が落ちてきて地面に激突した。
――俺が撃ち落とした鳥で作ったスープだ。
アルベルトはそう言っていた。
おそらく、あの鳥はアルベルトが魔術で撃ち落としたのだろう。
だが、それは奇妙な話だ。
使い手の実力によって多少の違いはあるがマジックアローの到達距離は五〇メートル。
空を飛ぶ鳥を撃ち落とすのならば、真下から狙わなければ難しいだろう。
しかし、あのときアルベルトの姿は近くになかった。
ということは?
「……あの、アルベルトさん?」
「なんだ?」
「アルベルトさんのマジックアローの射程距離ってどれくらいですか?」
「13kmだ」
「は?」
聞き間違いかと思った。
淡々としたアルベルトの声が後に続く。
「マジックアロー」
直後、ローラの視界が急速に流れた。