地獄絵図。(その1)
息が出来ない。
灯花は、黒い液体の中に飲み込まれた。
酸素を求めて、四肢を暴れさせるが、よけい苦しくなるだけだった。
視界が悪く、暗闇の中で身体が落ちて行く感覚だけが唯一わかることだった。
ある声が、落ちて行くこの身体に誰かがこちらを見て笑った。
子供の笑い方だった。
小さな女の子の声のようだ。
だけど、純粋な声であるが、どこか不気味な響きがあった。
私に喋りかける様子はなく、ただ、笑うだけ。
声が響くたびに、死の恐怖が高まって行く。
暗闇の中で、それも溺れている状態で、この声はあまりにも異常なこと。
異常な出来事は、ここに入る前から起きているが、この異常は闇を現す。
闇。
地獄蟲。
灯花は、恐怖に溺れながらも、声の主が何なのか、なんとなくわかっていた。
何度も遭遇すれば、彼らが何を発ししているかわかる。
あの襖に描かれていた水墨画。
鹿を貪る巨大な百足。
暗闇の中だから見えていないが、私の目の前にきっといる。
堕ちて来た獲物をおかしく笑う地獄蟲。
ああ、私はどうして、何度も、地獄に堕ちるのだろう?
絶望という言葉は、どうして、私に与えるの?
私に何の罪があって、私に罰を見せるの?
どうして?
どうしてなの?
天狼さん(神様)、どうか教えてください。
そう思った時。
聞こえた。
それは、狼の遠吠え。
暗闇が揺れるほどの響く声。
すると、私の視界に、眩い光が現れた。
「…っ!!」
その光は、白銀のオオカミの姿となって、私を包むように広がった。
私の目の前にいた地獄蟲が声を失った瞬間でもあった。
思った通りの地獄蟲の姿。
巨大な百足が私を喰わんばかりにとぐろを巻いていた。
だが、それを対峙するオオカミの姿も見て取れた。
白銀のオオカミは、巨大な百足と引けが取らないほどの大きさで私の盾となって、地獄蟲に眩い光と共に咆哮していた。
その強い咆哮に、巨大な百足は怯みだした。
「ギイッギギイイイー!!」
虫らしい声を上げながら、光に身を焦がしていた。
光は、青い炎となって、すべてを暗闇を焼き切るように広がった。
青い炎が、この世界を照らした時。
世界の形を知った。
それは、白地の襖が並ぶ世界。
ここに入る前の世界とそっくりだった。
ただ違うのは、ここは一つの部屋だということ。
そう、私達は入っただけ。
出口ではなかった。
私は、その空間に普通に立っていた。
だけど、溺れた感覚はしていたし、息が出来なかった感覚は、身体に残っていた。
「…あっごほっ!…っごほっ!」
酸素を求めて、咳き込む。
口の中から、黒い液体を吐いた。
墨臭いにおいが、鼻に着いた。
ただの墨ではないだろう…墨と何か生臭いものが混じっている。
地獄蟲がいた所にまともな水は無い。
青い炎を浴びせられた巨大な百足は、白銀のオオカミに恐れを抱いて、逃げた。
先ほど、あれだけ人を笑っていたのに、あっけなく逃げたのだ。
そのプライドの無さに、怒りを覚えるほどだった。
逃げた場所は、白銀のオオカミが立ち止るほどの場所だった。
白地の襖が並ぶ所へと飛び込んだのだ。
巨大な百足は、そのままの姿を写した水墨画となった。
べったりと塗りたての墨の絵。
弾いた墨の水滴も生々しく写されていた。
灯花は、地獄蟲がいなくなったと判断すると、白銀のオオカミに駆け出し、しがみついた。
真っ白い毛並みを引っ張って、顔を押し付けるように埋めた。
唇を震わせて、受けた傷をこらえた。
身体に受けた傷ではない。
心に受けた傷。
経験は、知識として力になるが、受けた傷は深くなるばかりだ。
繰り返し、繰り返し、繰り返しの傷に今度こそ、折れた。
灯花は、伏せた顔から涙が出ていた。
だが、不自然な涙。
見た目は透明だが、血が混じった涙を流した。
白銀のオオカミは、そんな涙をただ静かに受け取っていた。
腫物を扱うように、繊細に慎重に破らぬように、静かに。
「…………」
静かな時間が流れる。
白銀のオオカミの規則正しい呼吸と穢れを弾く柔らかい毛並みが灯花を優しく包んだ。
そんな二人に割ったのは、割れたはずの鬼の面をした陽炎だった。
私達が入って来た襖を背にして、鬼は言った。
「いつまで、そこで立ち止まるでござるか?」
白銀のオオカミは、唸った。
灯花を気遣っているのか、身体を震わせるだけで動かさなかった。
その間、灯花は、顔を上げることも、立ち上がることも出来ずにいた。
「…………」
心の中で、言い訳を探す。
どうしたら、休めるか。
どうしたら、このままでいられるか。
そんなことばかり考えた。
陽炎は、そんな灯花の姿を見て、容赦しない言葉を浴びせた。
「迷惑だと言ったはずだが?」
「……っ!!」
天狼さんを迎えに行く前に、忠告された言葉である。
今、その言葉がしみじみと伝わってきた。
「…くっ…ふっ…」
そして、自分がオタ面さんに対して言ったことも、よく覚えている。
唇を噛んで、痛みをこらえる。
灯花は、力んで掴んでいた白銀の毛並みをゆっくりとほどいた。
すると、オオカミは、そばを離れようとする私を囲い込んだ。
「灯花、無理をするな。陽炎の言葉なんぞ気にせず、休んでくれ。お前は、疲れているんだ…」
甘えたくなる言葉だった。
だけど…
ここに居ても、いつまでたっても出られない。
それに、幽世に入った以上、立ち止りは駄目だ。
「天狼さん、わたし…がんばる。足手まといで、ごめんなさい…」
きっと、私の顔は涙でぐしょぐしょだ。
高校生にもなって、みっともないけれど。
これが、今の私だ。
それを聞いたオオカミは、獣の瞳を見開いて、そして、閉じた。
「…………灯花、謝るのは私の方だ。私が不甲斐ないばかりに心配をかけ、迷惑をかけたのは、この私だ。……だからこそ、灯花、すまなかった」
白銀のオオカミが頭を下げた。
「そんな、こと、ないです…」
私が調子乗って、迎えに行ったのが悪かった。
身の程を知らずとは、これの事かもしれない。
「だが、私とて万全ではない。先ほどのこともだ、油断して先手を打たれてしまった。言い訳しか聞こえんかもしれんが…私はお前に、格好をつけたかったかもしれん」
「てんろうさん…」
意外な言葉が出て来て、涙がぽろりと落ちた。
自嘲めいたオオカミのその姿に、私はもう一度触れた。
「そんなことないです。すごく、恰好よかったです。……助けてくれて、ありがとうございます…」
白銀のオオカミは、少女の手のひらに撫でられながら、小さく鳴いた。
灯花は、白銀のオオカミを触れた後、自分の顔を拭った。
やるべきことはわかってる。
自分の足で、禁忌の箱に入ったんだ。
出る時も、自分の足で出なければならない。
私は、オタ面さんに向き直った。
「陽炎さん、こうなるとわかっていたんですか?」
「ぐっふふふっタダで出られるとでも思ったでござるか」
わかっていたんですね…
「…私、陽炎さんのこと、信用できません」
陽炎は、鬼の面の下で小さく笑った。
「ならば、どうする?」
「今度は、私が出口を探します。それで、いいですね」
「よかろう……頑張れでござるよ。拙者は、灯花たんに道を示したでござる」
「それは、ここから出られるヒントを出したと解釈しても?」
「ぐっふふふ…」
その笑い方、まるで喜んでいるかのようだ。
「このぉドMめ!」
「ご褒美!」
「~~~~っ!!」
一回、殴りたい。
オオカミは、そんな私の身体を少し押した。
構うな、とも、放っておけ、とも伺えた。
ともあれ、幽世に楽な道は無いことはわかった。
大丈夫。
今の私には、味方がいる。




