第1話―依頼
次の瞬間、ガイの視界に入ったのは木でできた天井だった。この景色を見慣れているせいか、ここが何処かガイには直ぐに分かった。レイナ先生が勤めている診療所のベッドの上だ。現在位置が分かり安心したガイはのんきに腕を伸ばしてストレッチをする。思わず声が出そうになるが、どうやらあの大怪我の影響か声が擦れている。これでは人を呼ぶことも出来ない。
ガイは退院の手続きをするため人が確実にいる診療所の受付まで乱れた服装のまま向かった。実はナースコールのスイッチはベッドの横にあるのだが彼は忘れていた。
受付への扉の隣に立てかけてある電子時計でガイが日付を確認すると、本日は6月3日の午後11時らしい。あの戦いが6月1日の正午の出来事なので彼は合計2日は確実に眠っていたことになる。これを見た彼は自身の筋力が大幅に衰退していると予測し、万が一の時のため風の魔法でゆっくりと扉を開ける。
受付の窓から満月の光が差し込んだ。それは2日間眠っていたガイの目に優しく降り注ぎ、脳の覚醒を補助する。無事に覚醒した脳は視界や耳に入ってくる情報をスーパーコンピューターに劣らないほどの速さで円滑に処理し、受付の奥の部屋に多くの人がいることを突き止める。
奥の部屋の扉を風の魔術で開けるとそこには複数人の医者や看護師がいた、おそらく事務室のようなところだろう。奥には扉もなくただ診療室などを行き来するための通路があるだけの事務室。本日の患者の書類を適切な場所に置くためせわしなく動いているためか、誰もガイのことに気付いていない。時間帯からしてもそろそろ休みたいはずなのにまったく休憩を入れず、気を張って来るかも分からない急患を待ちながら書類整理する医者や看護師たちを見ていると、話しかけたら仕事の邪魔になるだろうとついつい遠慮してしまう。
ガイが話しかけようか悩んでいたところ部屋の奥の通路から誰かの足音が響いた。彼以外は誰もその音を気にしていない様子。何故医者達が気にしないのか気になったが、今はそんな事を気にしている場合ではない、もしかしたら何らかの方法で医者達の意識を仕事に向けているのかもしれないからだ。魔術でナイフを作り出し臨戦態勢にするととたんに足音が歩いている音から駆け足の音に変わり、ガイは焦った。奥の通路には魔力検知器があることを忘れていたのだ。
魔力検知器は魔術を使い、無から生まれたエネルギーを検知し、あらかじめ設定されている魔力の量を超えた時アラームがなる仕様でアラームの音量も設定できるようになっている。おそらくこの診療所は入院している方の迷惑にならないようにアラームの音量をこの事務室で談笑しているときにギリギリ聞こえるようにしているのだろう。魔術社会になってからどんな病院、警察問わず重要な機関には設置する事が義務づけられていたのは世界の常識なのに単純に忘れていたことに彼は後悔する。
そして足音がこの事務室の奥で止まると、そこにはスーツ姿の男がいた。明らかに泥棒や戦いに来た格好ではない。ガイは安心して魔術を解除する。
「皆さん、ガイ・カディックさんが起きてます!」
男が急に大声を出した。それを聞いた医者達は書類整理を一旦やめて扉の前に立っているガイの方に駆け寄る。
『いつ起きたんですか?』『体の調子は?』『指が何本か分かりますか?』『声が聞こえていますか?』
など様々な言葉を一斉に掛けられ、彼は一瞬困惑してしまった。急に耳から入ってきた情報量の多さのせいでもあるが何故通路の方にいた男の事を気にしていないのかと気になったのが1番の理由だ。ガイはとりあえず聞こえた質問にだけ魔術で答えつつ、男の方へ目を向ける。その視線に気付いた1人の看護師が言った。
「彼はウォーレン・マクレーンさん、あなたをここまで連れてきたんですよ」
やっと医者達が別段気に留めている様子がない理由が分かったガイはウォーレンに礼を伝えた。
「実はガイさん、あなたに頼みごとがあってこの診療所に連れてきたんです」
この診療所に連れてきてわざわざ生かしてそこらへんのゴロツキではなくガイに頼みごとがあるということは彼でしかできない頼みごとということだ。別に自分が得意な物なんて手を使う裁縫とか模型作りくらいしかないと思っているガイは疑問の表情を浮かべる。
「実は私の主人、アーロン・バレル様を倒して欲しいのです」
ガイは彼の言っている言葉が理解できなかった。先日アーロンに負けた人物にアーロンを倒してほしいなど理解できる方がおかしい。おそらく現状でウォーレンの言動が理解できるのは頭のネジが百本ほど外れている大人くらいだ。おそらく、彼自体も同様に外れているのだろう。ガイは普通の人より価値観が変わっているとある程度自覚していたがそれでもネジは10本ほどしか外れていない。改めて彼と同じ立場に立っていないことを理解し、ガイは脳を回転させて自身が知っている敬語を集めて失礼のないように文章を構成する。そして魔術で彼の脳内に直接、
「何故、私に倒せと仰るのですか?」
と伝えた。その文章が脳内に送られたあと、彼は驚いたがその感情を内に隠すように真顔であり続けた彼は
「要点だけ伝えます。街のいざこざは街の人間だけで片付けて外にこの情報を流したくないからです」
と言った。違うそうじゃない、彼が言っているのは街の外の強い人々を雇わない理由であってガイに頼みに来た理由ではない。ガイは改めて自分が欲している情報について分かりやすく考えた文章を送る。
「言葉が足らず申し訳ございません、あなた様に頼みに参った理由はあなた以上の才の持ち主はアーロン様を除きこの街にいないこと、あなた様は魔力量がアーロン様と同等なこと、そしてあなた様はアーロン様と友人になれる気がするので」
ガイは最後の点だけ少々疑問に思ったが、この頼みは受けて不利益があるわけでもないので頼みを受けることを簡単に書いた文章を送る。彼はそれを聞いたとたんに看護婦たちに諸々の費用をガイの代わりに払って診療所を飛び出してガイの家、つまりガイの祖父母のタリス夫婦の家に風と炎の魔術を併用してマッハに限りなく近い速さで向かった。
タリス夫婦の家はこの街で有名な牧場の一角にある。もちろんその牧場の持ち主はタリス夫婦である。
夫婦はガイが診療所を出る3時間前から羊たちを小屋に戻していた。そのため、広い面積を持つ牧場は一種のエアポートとなっている。そこにガイとウォーレンは静かに着地した。
「……改めてあなた様にアーロン様を倒してほしいと申した理由を説明させていただきます」
魔術を引っ込めたウォーレンはガイにそう言った。ガイも何となく察していた。彼の説明はなぜ倒さなければいけないのか、それが抜けていたからだ。
「ガイ・カディック様、あなたに依頼しに参った理由は、アーロン様を元に戻してほしいのです」
「(と言うと、元はあんな風じゃなかったと?)」
「はい、アーロン様は元は慈悲深く、優しいお方でした」
そう、あれはアーロン様がこの街に来る2週間ほど前のこと……
私たちはこの街に向かいながら様々な街で屋敷の執事たちに土産物を買っていました。
「なぁウォーレン、屋敷の執事たちには何を買えば喜んでくれるかなぁ?」
アーロン様はとても無邪気な顔でした。このように元のアーロン様は多くの執事を愛し愛される方だったのです。
私はアーロン様に「新しい食器は確実に喜ばれますよアーロン様」と返しました。
「ウォーレン、俺の前では敬語とかやらなくてもいいって言ったじゃん」
「私はアーロン様に仕える執事、そしてアーロン様はその主です。例えあなた様がそうおっしゃられてもバレル家の評判を落とすわけにはいきません」
アーロン様は若干頬を膨らませ、分かったよと返事を下さりました。そして次の瞬間、アーロン様は今のアーロン様に変わりました。原因は明確には分かりません。ですが直前にティーポッドの蓋を開けて中身を覗いていたのでティーポッドの中に封印されていた何かがアーロン様を変えたのかもしれません。
それから私たちはそのティーポッドだけを土産にこの街にあるバレル家の本邸へ帰宅しました。本邸の執事たちはアーロン様の土産物が1つだけということに驚きましたが、執事と主のご子息という関係上、誰も指摘しませんでした。
そしてある日、私は今のアーロン様が転げて頭を打ったとき、元のアーロン様に1度戻られたのです。おそらく頭を強く打ったことにより、憑き物が取れたのでしょう。
ですがこのようなことが起きても例のティーポッドの近くに行けば元に戻ってしまいました。そこで私はティーポッドを壊しましたが、元の状態に戻る気配は無かったのです。
「倒してもらいたい理由はそれだけで、あなたに依頼した理由はあなたはアーロン様と同等以上の才の持ち主だからという理由です」
全てに納得し、質問することなど特に無かったガイは家に帰りたいことを彼に伝える。もちろん彼は了承し、翌日の朝7時にまたこの場所で落ち合うことになった。
翌日、ガイは久しぶりに家のベッドを使って寝たおかげか、今までの疲れはすっかり吹き飛んでいた。のどの調子もなんとか日常会話はできるまでに改善している。最高に心地よい心境で壁にたてかけられている鳩時計を見ると針は9時5分ごろを指していた。外は明るい、つまり今は午前9時過ぎということになる。それに気づいたガイは直ぐに2階の自分の部屋の窓から飛び降りて牧場に出たがそこにはウォーレンは居なかった。もしやと思い、直ぐそばにある通用口から家の中に入り、リビングへ向かうとそこには皿洗いをしているウォーレンが居た。
「何で皿洗いを!?」
「玄関の前で待っていたところ買い物に行くから家に入ってくれ、と頼まれたので、その暇つぶしに」
「なるほど……っていやいやいやすいません!」
ガイは深々とこうべを垂る。
「いいんですよ別に。あと、できればタメ口で話してください、そっちの方が楽です」
彼は皿を洗って洗剤とスポンジが滑るような音を出しつつ言った。声色でも怒っていないと判断できた。だがそれと待ち合わせに遅れたことは別の問題である。ガイは再び謝る。
「ほら、頭を上げてください。2日間寝たきりでやっと家のベッドで寝れたんです。別に少々寝坊してもおかしくはありません」
頭を上げたガイはとりあえず冷蔵庫にある食パンの袋から1斤取り出し、電子レンジに入れてスタートボタンを押す。何事も腹が減ってはまともに考えられない。パンが焼きあがるのを待っている間はウォーレンが皿を洗う音と電子レンジの起動音が聞こえるだけ。心底気まずいと感じた。何かしら話題を自分から出さなければ、そう思った時、1つの疑問が生まれた。
「今日、待ち合わせしてたけど、一体何をするつもりだったんだ?」
「ああ、それですか。一応回復具合の確認と、親睦を深めるためにゲームで遊ぼうかと思いまして」
ガイはウォーレンが言った瞬間は『へぇ』という感想しか出なかったが1秒、2秒と少しずつ時間が過ぎる度驚きが増幅していった。
「ええ!? 今日ゲームするつもりで来たわけ!?」
彼は平然と『半分くらいそうです。』と答えた。正直彼の行動をガイは理解できなかった。昨日今日知り合った人の家に遊びに行くなどガイの常識には存在しないからだ。いや、誰から見てもこれはおかしいかった。どんだけ人との距離が近いんだ、頭のネジ外れすぎだ、とも思った。
「というわけで、ゲーム機の電源つけました」
「いやどう言うわけェ!?」
彼はもう皿洗いを終えて皿を棚に片付けていた。いくらなんでも早すぎる、魔術でも使ったんじゃないかと思ったがガイが知っている魔術式の中にはそんな効果のある物は無い。となれば、執事生活の賜物と言ったところか。
「……一応聞くが、ゲームをするためだけに来たんじゃないよな?」
「まさか、そんなわけ無いでしょう。」
彼は真面目な顔をして答えた。どうやら本当に違うらしい。声色がその証拠に堂々としていた。予定通り電子レンジの音が鳴った。ガイはパンを中から取り出し、電子レンジの隣にある冷蔵庫の中にあったバターを机の上に置く。
「食パンのオススメの食べ方教えましょうか?」
「いや、バターだけで十分だ」
ガイはバターを好きなだけ塗ったパンを口に放り込んだ後に引き出しからコントローラーを2つ出した。そして友情崩壊で有名なゲームを起動した。ウォーレンもこれには驚きの表情を隠せない。
このゲームによる友情崩壊の理由には、技術と使うキャラが物を言うゲームなのがほとんどの原因だ。そしてこれが魔術を使用した戦闘における強さの判定が同時にできる事も友情崩壊に拍車をかけている。そのため、現在では発売中止の代物だ。
「では先にキャラを選んでください」
「分かった」
ガイが一番得意とするキャラを選ぶと、彼はガイが選択したキャラと同じものを選んだ。つまり純粋な実力を判定するつもりなのだ。もしかしたら彼の目的はこれだったのかもしれない。何にせよ、ガイは本気を出してゲームを楽しもうと決めたのであった。
結果から話そう。勝敗は先に2勝したほうが勝ちという簡単なルールで、ウォーレンが辛くも2本先取し、ガイは負けた。ウォーレンはこの強さならアーロンには負けないと言い張れるほどのつわものだった。やはり彼の行動は理解できなかった。何か他の真意がある、そうとしか思えなかった。
「クソー悔しい」
ガイは小難しいことを考えるのはやめてフローリングに横になった。苦手だからというのもあるが、彼はウォーレンの真意なんかより今日のごはんと、この街の平和のことの方が重要だからだ。その為ならたとえ命を懸けたって文句は無かった。
「さてと、ガイさんの実力も測れたわけですし、修行でもしますか」
「しゅ、修行!?」
修行と聞いて、ガイはおびえずにいられなかった。実は幼少期のころ、魔力を抑える器具をつけた両親に勝つまで数ヶ月死ぬかもと思えるような辛い修行をしていたからだ。
何かを察したのか、ウォーレンは優しくこう言った。
「大丈夫ですよ、それほどハードではありません」
その言葉を聞き、ガイは安堵のため息を吐いた。
「私の祖父によると、この修行を1年間した者が2人いれば小さな紛争は簡単に止めることができるとか」
「!?」
ウォーレンの話を聞いた瞬間、ガイの顔は海よりも青くなる。たとえ1年間の修行でなくても小さな紛争を2人だけで止められるようになる修行が、両親のそれより苦痛なのは明白だったからだ。
「まぁ一般に広まっているあの故意に魔力切れを起こして魔力量を増やす修行とかなんですけども」
魔力切れには様々な副作用があると説明したと思う。そして魔力切れ本来の作用は副作用が出ると同時に最大魔力量が増加することなのだ。
この修行の目的はその魔術切れの性質を利用したもので、とても有名だ。先の発言からしておそらく一般に広まっている物とは違う点があるのだろう。ガイは非常に興味に駆られた。
「”とか”ってことは他にも?」
「はい、一般に広まっているひたすら魔力を増やす第1段階、魔力配分を考えながら魔力が切れるまで戦う第2段階の後にも第3段階があります」
「なるほど、第3段階の内容は?」
「真剣に修行に取り組まないと死ぬよりも辛いことを経験する、とだけ言っておきます」
ガイは人に比べると研究者のような気質で、幼少期から気になることは倫理に反していない限りは調べて実践を繰り返していた。今回も例に漏れず、死ぬよりもつらいことと聞いて知的好奇心がくすぐられた。だがガイはマゾヒストでは無い。わざわざ自分の体で実践するのは嫌いだった。
「俺頑張るわ」
ガイはそう呟き、流れるようにウォーレンに再戦を申し込む。もちろん彼は快く引き受けてくれた。勝敗とか実力判定とか関係ない、純粋な遊び。ガイは久しぶりに友人ができたようで、とても楽しかった。
そして存分に遊び、夕方になったころに彼は帰っていった。また今度遊ぼう、と約束をして。彼を見送った後、ガイは朱色に染まった空を見上げる。何かを思い出しそうになったが、晩御飯の匂いに思考が占領されて結局何も思い出せなかった。気を取り直してガイは家の中の晩御飯に向かって歩き出すのだった。