橙色の空を見上げて
ようやく書き終わりました、厨二な物語を!
書き終えるまでにいろんな事がありました。
学校、バイト、バイト、学園祭、インフルエンザ、そしてバイト。
そうですね、基本バイトか学校か病欠ですね。
そんな、文字通り精魂込めた短編をどうぞ。
約32,000文字(改行等含め)ですが(^_^;)
某月某日某曜日。
某時某分某秒。
少年は初めて人を殺した。
それは多分避けることのできない現象だった、事象だったんだとその少年ーー木洩日赦影は十年経った今でも自らに言い聞かせている。
赦影が初めて人を殺した日は普段よりも色んな事が滞りなく進んでいた。
寝起きは快調で目覚まし時計が鳴るよりも早く起きることが出来た。朝食には『両親が海外に行ってて一人じゃ大変だろ?』と、お隣さんから貰った高価そうなハムに卵を乗せて焼いたハムエッグ。余談だが自作した料理の中では群を抜いた完成度を誇っていた。
ゴミ出しの日だという事を忘れていて慌ててゴミを纏めたのには腹立たしかったがお陰で高校には遅れずに行く事ができた。それどころかクラスで二番目に教室に入る事ができた。
一番目に居たのは赦影が大好きな憧れのあの子だ。
黒板にその日の日直の名を書き記している少女は、なるほど少年赦影やその他の男子生徒、どころか女子生徒の憧れの対象になる事も納得できる美しさ…と言うよりも一種の妖艶さを持っていた。
2つに分けた三つ編みという如何にも地味な印象を受ける髪型だがその美貌ゆえかそんな雰囲気を一切感じさせる事は無い。寧ろその髪型を洒落たものにしてしまいそうな程だ。(事実、一部の女子生徒の間では流行っていた。)
スタイルもおよそ学生とは思え無い艶かしい軀をしている。
その女子生徒、名を日向陽子と言い、読んで字が如く何処迄も明るく快活で気持ちの良い好少女だ。
落し物があればそれが十円でも百万円でも交番やそれに当たる場所へと届けに行き、困っていると分かれば人や動物分け隔てなく手を差し伸ばす。
優しく賢く何より博愛に満ちた少女だった。
そんな好少女陽子は教室に入ってくる赦影の気配に気付き口を開いた。
『おはよ…う?あれ、いつもの人と今日は違うんだね』
初夏の風よりも澄み渡る綺麗な声を聴いた赦影はその主が陽子という事もあり一瞬ドキリとした。
陽子にしてみれば何でも無い日常の些細な一言だ。
しかし、陽子のそれは赦影の心を高揚させるのに十分過ぎる効力を有していた。
『お、おはよ、ぅ…』
果たして、緊張と戸惑いとを綯交ぜにしたまま赦影は陽子と言葉を交わす。
当然、会話の内容など覚えていられるはずもなく、ただ幸せな時を過ごしていた事だけを赦影は記憶していた。
思い返す度、初恋の甘酸っぱさと背を向けたくなる罪悪感を覚える。
きっと取り留めのない話だったんだろう。
何度もそう結論付けては飽きもせずにどんな話をしたのかと想いを馳せて仕舞うのだ。
それだけ赦影という男にとって日向陽子は大きな意味を持っていた。
「懐かしいな…」
赦影は闇夜の中で白い吐息と共に小さく呟くと上着のポケットにしまっていた豆粒大のチョコ菓子を2粒、口の中へと放り込み再び眼を閉じ瞼の裏に映る映像に耽入る。
陽子と言葉を交わしたその日から二人は急速に距離を縮めて行き、直ぐに無二の友へと関係は移り変わる。
空が薄っすらと橙色に染まり始め夏の風にも涼しさを感じる時刻、二人は普段立ち入りを禁止されている高校の屋上の入口にいた。
一足先に屋上へと足を踏み入れた赦影は背後で未だ戸惑いを見せている陽子に入るよう促す。
『大丈夫だって、この時間帯なら誰も来ないからさ』
『そう言う問題じゃ…あぁでも…いや、いけない行けない!』
軽やかに言葉を発する赦影とは対照に、一向に踏み入る事を拒む陽子。それは仕方の無い事と言えた。
何故なら善行しか積まなかった彼女にしてみれば立ち入り禁止の屋上に踏み入る事はおろか授業中のうたた寝すらした事はなかったのだから。
陽子にしてみれば法も校則も《護らなければならない決まり事》という認識の上で重要度はさして変わらない。
とすれば、この日屋上へと足を運んで仕舞えばそれは陽子にとって初めての悪行となる。
だからこそこんなにも戸惑っているのだ。
赦影はそんな彼女の生き方を心の底から尊敬すると共に、なんてつまらない人生なんだ、とも思っていた。
当然と言えば当然の感想だろう。法を護る事自体は言わずもがなであるが愚直に校則を護る人はそうそういない。
そこで赦影は決めた。
尊敬出来る好少女のつまらない人生をほんの少しだけ愉しめるものにしてあげよう、と。
身勝手極まる、だがその時の赦影にとってそれは陽子の今後に必要なものだと判断した為に行った彼なりの善行であり、誰の非難も受ける筋合いは無い。
赦影は屋上の中央から陽子の居る戸口へと踵を返した。
『ほら、そんな所で隠れてないでおいでよ。風が気持ち良いよ?』
大仰に手を広げ全身で風を受けているポーズをとる赦影を不安げな上目遣いで見つめる陽子。
『でも…』
赦影はドアの陰から戸惑い顔を覗かせる陽子へ手を伸ばし誘ってみた。
それでも踏ん切りのつかない陽子に痺れを切らした赦影は問答無用とばかりに彼女の背後へと周り込み掴んでいるドアから手を引き剥がした。
その時、陽子のドアを掴む力が弱かった事から屋上に入る切っ掛けが欲しかったのだろうと赦影は納得する。
『ゆぅ君!』
唐突な大声に赦影は一瞬身体をビクリとさせた。普段の陽子は声を張り上げたりしないからだ。
(流石にまずい事したかな)
数秒前の行いに後悔したのも刹那の出来事。
次の瞬間に後悔は幸福へと在り方を変える。
『ねぇ見てゆぅ君!私達の住む街ってこんなに広くて大きかったんだね!』
つい先刻迄の躊躇いはなんだったのか。
開口した陽子は讃美する言葉を先程よりも大きな声で発した。
陽子は駆け足で端にある手摺まで寄ると身を乗り出し、様々な橙色に彩られる風景に魅入っていた。
眼の前に広がる街では新築の家屋を形造る真っ白の壁を薄橙色に、いつもなら怪談話にでもなりそうな寂れたアパートですら趣のある橙色へと染まっている。
どこに眼を移しても変わることの無い幻想的な風景に陽子はそれ以上語る事無く、ただただ眼下に有る自然と人口で造られた美術館を見つめ続けていた。
一足遅く赦影が街を鑑賞する陽子の隣席へと訪れる。
陽が沈むにつれ橙色の濃さに変化が表れる。
ぼやけ、色が乗り、移り変わる。
刻々とその姿を変貌させる街。
それでも一向に美しさが損なわれる事はない。
彼は何度か此処に脚を運んだ事があった。勿論、今日と殆ど変わら無い時分にも。
その筈なのに、赦影は以前見た時よりも感動を厚くした。
時期や時間によってある程度の変化はあるにしろ、それとは違う美しさが眼前に広がっている。疑問に思いながらも赦影は視線を外そうとしない陽子に声を掛けた。
『どう?時々ならこんな事しても良いんじゃない?』
含みのある物言いをする赦影に陽子は膨れた顔をしたまま尚も視線を外す事はしない。
『ゆぅ君の意地悪!何でこんなに綺麗なものをもっと早く教えてくれなかったの!』
普段では考えられない言葉遣いで口早に話す陽子。本人は責め立てているつもりなのだろうが性根が優しい分、その見た目も相まって愛おしさを感じさせた。
怒りの只中にいるであろう陽子とは裏腹に赦影は歓喜に満ちた声で謝辞を述べる。
『あはは、ごめんね。まさか陽がここまで喜んでくれるとは思わなくて』
『どうしようかな〜』
視線を外す事の無い陽子。意地の悪い表情の横顔は今までもそしてこれからも見ることの出来ない美しさで橙色に照らされていた。
『また、一緒に見てくれたら赦してあげる』
振り向きそう言う陽子に見つめられた赦影は頬を真っ赤に染めて、
『うん、約束だ』
力強く言い切った。
その日赦影は家に帰ると真っ先に浴室へと向かった。浴槽は前日の夜に洗ってある。
浴槽に湯を注ぐ蛇口を全開にすると学校帰りである事を思い出した赦影は荷物を部屋へ置きに一旦戻る。
10秒もせず脱衣所に戻ってきた赦影は浴槽が殆ど溜まっていないにも関わらず、服を脱ぎ裸になると浴室に入りシャワーの蛇口を捻る。出始めは酷く冷たく、夏場とはいえ夜に差し掛かる時間帯には流石に厳しいものがある。
にも関わらず赦影は眼を瞑ると冷水の中へと火照る頭部を投じた。
頭部から次第に首筋、肩、背中へと冷水が流れて行く。身体は鳥肌を立たせ、しかし赦影の口元は喜びに満ち満ちていた。
ーー今日僕は初めて陽の役に立てた…陽に愉しい事を教えてあげられた!
赦影にも罪悪感はあった。だから始めは屋上に連れて行くのを躊躇った。迷った。
だが、赦影は決めていた。陽子の日常をもっと愉しくしてあげようと。
例えそれが陽子のこれまでを否定したとしても。
その結果、赦影は陽子の笑顔を見る事が出来た。本人も喜び愉しんでくれていた。
赦影にはそれが、その事が嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
舞い上がり赤らむ頬を冷ます事に夢中な赦影の口元は先程よりも弛んでいる。
今、赦影の心の中では自分の決意を実行し成功を成し得た事、陽子の心からの笑顔に胸を高鳴らせていた。
翌日には真逆の感情に成る事も知らずに。
次の日赦影は寝坊をした。時計を見ると走ればまだ辛うじて間に合いそうな時間だった。朝食も摂らず、支度もそこそこに急いで家を飛び出す。道中、何度か通行人や自転車にぶつかりそうになったがどれも紙一重のところで避ける。お陰で遅刻を告げる予鈴が鳴る前には教室に居る事が出来た。
それ以降の記憶が放課後まで無い。
赦影は一時限目が始まる時には知らずの内に眠りに落ちていたからだ。
机に突っ伏す格好で寝ていた為、筋肉が強張り気怠さがある。そんな中どうにか頭だけを起こした赦影は辺りを見渡した。
机や椅子しかないがらんどうと化した教室内に夕陽が射す。手で顔に陰を作った赦影は窓の外に眼を向ける。
外は赤灼け日中よりも明るく見えた。
ーー夕焼けが綺麗だ。
そう思い景色に眼を奪われたのも一瞬で赦影は窓際に軽く腰掛け佇む一人の女子生徒に気がつく。
夕陽を背に受ける女子生徒は日向陽子である。
逆光で姿が霞んでいても赦影が陽子を見間違う筈がない。
赦影は強張り軋む筋肉を総動員し椅子から立ち上がり普段と変わらぬ仕草で陽子に声を掛けようとした。
違和感を感じたのはその時だった。
赦影の脳裏を突いたのは第六感とも言える具体性のない直感でしか無い。
そこに佇むのは紛れも無い日向陽子だ。
地味なのに一部で流行っている2つ分けの三つ編みも、その美貌も、艶かしい身体も昨日までの陽子と寸分も違わない。
なのに昨日までの陽子とは明らかに異なっていた。
何かが足らない。
書店で買った小説にブックカバーが付かなかったとか、買い物袋を閉じる為のテープが貼っていなかったとか、些細だがとても大きな、そんな違和感と共に赦影に走ったのは途轍も無い嫌な予感。
その予感の正体は他でも無い陽子自身の口から明かされる。
『寝起きでイヤかもしれないけど、私の事を殺して欲しいんだ』
『ーーーは?』
優しい、けれど決意の篭るハッキリとした声で発言した陽子。
赦影は窓から射す煩わしい光を意にも介さず、窓際に佇む陽子を睨みつけるように茫然と見つめ、その言葉を何度も何度も脳内で反芻した。
ーー私を殺して欲しい?何故僕が?だって陽は昨日あれだけ喜んでいたじゃ無いか。なのにどうして、殺して欲しいだなんて。
黙している赦影が蹌踉めき、下を向いた顔に右手を当てる。
『ゆぅ君。昨日は本当に愉しかった、嬉しかった…。でもね、やっぱり悪いことはしちゃいけなかったんだよ』
窓際から離れると陽子は顔を抑え目を見開く赦影に優しく諭すように続けた。
『あの後ね、家に帰るとパパとママが話してたの。障子越しでね、話してたの。次の集金日はいつかって。初めは何の事かさっぱりだったんだけど、話を聞いて行く内に判ったんだ』
そこまで言うと口をつぐみ涙ぐむ瞳で赦影を真っ直ぐに見つめる。
見つめられている事に気付いた赦影は顔を上げ陽子の視線を見開いた双眸で余す事なく受け止めた。
それに満足したのだろう陽子は諸手を使い涙を拭う。
『なんでもね、私の家は悪い事をする人達の仲間だったみたいなんだ。鉄龍会って言う組織の。ゆぅ君も聞いた事ある、よね?』
拭っても拭っても拭い切れない涙。
救いを求める陽子の顔は痛々しかった。
鉄龍会。赦影達の住む市一帯を牛耳っていると噂の暴力団。盗み、強盗、強姦、人殺し…悪逆の限りを尽くす手のつけられない社会のはぐれ者どもで構成された組織である。
ーーーそんなイカれた奴らと陽子の家は繋がりがある?
そんな事は信じられないといった風に赦影は頭を振った。
『…その事、知ってたの?』
『そんな訳ない!』
赦影の重く沈鬱な声を受け、陽子は声を荒げて反論した。
『そんな訳ないでしょ…?私だって嘘だって思いたかった。だからその時両親に問い詰めた。そんな筈ないよね!って。でも、返って来たのは聞きたくも無い事実ばかり。ねぇ、知ってる?番頭って言葉。銭湯に居る人の事じゃないよ?部下から沢山お金を預かって組織に届けるんだって。パパのそのまたパパもその前も前もずっと受け持ってた、とっても、とって…も…大事…な…仕ごっ…あぁ…ぁぁ…!』
全てを言い切れず瞳から涙を零し泣き噦り、床に沈み込む陽子を赦影は見続ける事しか出来ない。
これまで善行ばかりを積み上げていった陽子にとって産まれた家が悪行をする屑の代名詞と言える奴らの手先だった、だなんて普通の人間とて耐えられるものではない。ましてや陽子がその当事者である。話を理解した途端に心は瓦解し荒み砂漠と化してしまったのだろう。
陽子の心境を赦影が正しく知る事は無いがーー酷く辛いだろうなーーと察する事くらいは出来た。
判らないのは何故僕に殺してくれと頼むのかだ。
一頻り泣き倒した陽子は真っ赤に腫れた目元を人差し指で擦ると先程までとは打って変わり粛然とした声で話し出す。
『私は大事な跡取りらしいの。今度の誕生日の時にはさっきの話を全部私に話すつもりだったみたい。もしこのままだったら私は間違いなく継がされる事になる。でも、そんなのは絶対イヤ!…勿論、自殺も考えた。でも、私は弱くて…それが情けなくて、恥ずかしくて…だから、どうせなら…新しい世界を教えてくれたゆぅ君に殺してほしい』
最後まで言い遂げると張り詰めていた心の糸が切れたのか再び涙を流して床に崩れ落ち、そのまま額を床に擦り付け赦影に懇願する。
頼む理由を知り願いを聞いた時、考えるよりも早く赦影の口は動いた。
『いやだ。イヤだ、嫌だ!そんなの絶対に間違ってるよ!陽が死にたくなるのも解る。でもね、そんな簡単に殺してなんて言っちゃダメだよ!そうだよ!陽のお父さんやお母さんに頼んでみよう!今みたいにさ!僕も一緒にお願いするから!だから…!』
赦影は一気に捲し立てるとそのまま膝を屈し陽子の前に跪く。
膝を引きずり陽子の近くまで行くと赦影は額を擦り付けたままの陽子の事を上から強くけれど優しく両肩を包むように抱き締めた。
『だから、だから…殺してくれなんて…言わないでくれよ…!』
赦影の心からの願いを聞いた陽子は顔を上げる。額は擦れ薄っすらと血が滲み、目元や頬は涙で紅く腫れ、風に触れるだけでも痛みを感じそうだった。
『それは無理だよゆぅ君。ママは分からないけど、パパは絶対に無理。そんな事をしたら間違いなくゆぅ君は殺されちゃう。それは殺人じゃなくて自殺にされちゃう…!だから、ね?お願い…私だって沢山、沢山考えたんだよ?何度も何度も。でも、私は弱虫だから…だから、ごめんね…』
痛々しい紅さを誇る頬を涙で濡らしても拭うことをしない陽子。その瞳は赦影へと注がれる。
市一帯を牛耳っていると噂のある鉄龍会ならば殺人を自殺に見せかける事は容易だろう。
陽子にとってそれはどうしても避けたいのだ。だから《助けて》とは言わず『殺して』と頼んだ。
陽子は声を上げた。赦影のワイシャツを掴み胸に顔を埋め泣き喚いた。
彼女も死ぬのは嫌なのだ。本当の意味で死にたい人間なんてこの世には一人としていないだろう。それでも彼女は赦影に殺してくれと懇願している。
茫然自失としている赦影は脳にまで走る痛みで我に返った。拳を強く握りしめ過ぎ掌に食い込む爪や、欠ける爪。強く噛み鮮血の滲み出した唇。
それと同時に思い出したのは決意の言葉。
ーーー彼女が少しでも愉しく過ごせるようにしよう。
紛れも無く、痛い程自分の言葉だ。
ーーーもしも、この先陽子にとって苦痛でしか無い人生が待っているのなら。
赦影が考えに至った瞬間、その身体は別人と化す。
『くッぅ?!…!』
陽子の細首を赦影のゴツゴツとした掌が包む。
首全体を強く、強く、強く、包んだ。
『…ぅ君…が…とう』
涙を唾液を無様に垂れ流し、狭りゆく気道でどうにか絞り出した陽子の声は赦影を苦しませた。
ーー早く、早く死んでくれ…!
それだけを願い赦影は更に力を込める。
一層激しく暴れ首を締め付ける赦影の両手の甲を陽子がバリバリと掻き毟る。
肌色だった部分は擦れた白色に変わり、薄皮が剥け、血が滲み、やがて肉に達する。
苦痛と心痛で離しそうになる手を赦影がどうにか踏み止まらせたのは、陽子の心からの願いだった。
ーー絶対に君を救済してみせる。
赦影の決意は固く、首を包み始めてから実に1分もの時間が経っていた。赦影にしてみれば2時間にも3時間にも感じられる長い長い時間だ。
ーーの筈なのに。陽子が絶命する事はなかった。
効果が見られない訳では無い。掻き毟られていた手の甲はいつの間にか撫でる程度のものになり、大した脅威にはなっていない。暴れていたのは最初の方だけで後は身体をピクピクと痙攣させるだけだ。
なのに、未だ絶命には至らない。
『…たく…い』
虚ろになりだした眼を右往左往させる陽子は最後の最後に声を振り絞る。
『死にたくない…』
陽子の言葉が耳に入った時だった。
赦影が、それまで首を包むようにして締め付けていた両手を頭と首の付け根まで滑らせたのは。
『ク…きゅ…』
カクン
僅か1秒にも満たない短い、刹那の間に陽子は絶命した。
赦影の甲を撫でるだけだった指は存在を無くし、痙攣もいつの間にか終わっている。
陽子の頭部はまるで空気の抜けた風船のよう力無く倒れた。
事を成した赦影は尻餅をつくように後ろにへたり込み天井を見上げる。
『やり遂げた。僕は殺り遂げたんだ。これで良いんだろう、陽?僕は君の願いを叶えた。僕は君を幸せにしてあげた。そう…だよね?陽』
懺悔にも聞こえる喘鳴混じりの報告は教室に響く事もなく、空気に呑まれてゆく。
荒げた呼吸が自然に整うと赦影は自分の殺した陽子に視線を向けた。
『ぅあああ!』
そこには傾いたまま赦影を見つめる陽子だった物がある。ほんの少し前まで会話していたのが嘘のようにあった。
本来なら感じるはずのない色も熱も視線も陽子だった物の瞳は赦影の脳の奥の奥にまでそれを届けた。
その眼には映っている。
共にした昼食が、語らいながら歩いた廊下が、夕陽に照らされた横顔が。
それまでの赦影と陽子の過ごした日々が余す事なく、何もかも、悉く、全てが。
陽子の視線に耐え兼ねた赦影は強く目を瞑り、骨の見え隠れする拳で何度も何度も強く床を殴り出した。
子供が抑えきれなくなった感情を恥ずかし気も無くぶちまける様に。
『…にが!何が助けるだ!何が愉しくさせたいだ!ただ逃げただけじゃ無いか!陽の、陽子の声にならない助けを背負う覚悟が無くて逃げただけじゃ無いか!僕が、僕如きが君を幸せにするだ⁉︎笑わせるな!だったら初めから彼女に寄るな!!!!』
赦影は床に向かって慟哭した。喉が裂け血を吐き出しむせ返るまで。
やがて叫声が止み嗚咽に変わった頃。
赦影は未だどくどくと鮮血の流れる両手で顔を覆うと独り言を呟き出した。
君は何故居なくなってしまったのだろう。僕は何故君を救済しなければならなかったのだろう。
「君が僕に話しかけたから?」
ーー違う。
「僕が君を屋上に連れ出し君に校則を破らせたから?」
ーー多分、違う。
「君の家系がイカれていたから?」
赦影はそこまで呟くと高笑いと共に立ち上がった。
『そうか!そうだよ!そうだった!悪いのは僕や君じゃ無い!そんな巫山戯た家をまともに継いだクソ野郎じゃ無いか!それを許したクズ野郎じゃ無いか!だったらさぁ!』
ーーいっそ、そいつらも殺しちゃおうか
赦影は綺麗に整頓された机を散らしながら教室を後にした。
陽は暮れ、夜の帳が下り始める。
赦影は着の身着のまま、傷の手当てもせず陽子の家へと疾走を続けていた。
クソ共の家の場所は知っている。前に陽を送った事があるからだ。
走りながら制服のポケットに手を突っ込んだ赦影は目当ての物を探し当て取り出す。
どこにでも売っているなんの変哲も無い橙色をしたライターだ。
屋上に踏み入れた次にやる予定だったのは庭先での花火。
陽は『まだ親元を離れて無いからダメだよ』と言っていた。けれど、引かれるままに屋上へ入ってしまった陽ならきっと面白い反応を見せてから一緒に花火をしてくれただろう。
その時はきっと。
『わぁ、凄い綺麗だね!なんでもっと早く教えてくれなかったの!』
手持ち花火の光に照らされた顔で言っただろう。
『…あはは、ごめん…ね…』
歯を食いしばり、ライターを握り締め涙を流す憎悪に満ちた赦影の形相からは既に人のそれが抜け落ちていた。誰が見ても彼の顔をこの世のものと思う事は出来ないだろう。
鬼とも悪魔とも表現出来ない異様さは悪鬼羅刹の一歩先に在る何かに変わっていた。
車道の脇を走り続ける事数分。見覚えのある石垣が確認できる。
…陽の家だ。
厳粛な雰囲気を漂わせる大門を通り抜けると、漆黒の闇の中にも存在感を露わにする和瓦で出来た屋敷がある。
その家の圧倒的威圧感に一瞬歩みを止めた赦影だったが、すぐ側で鳴る物音を耳聡く聞き咎めた。
周りを見渡すが目隠しによく使用されるウバメガシがぼんやりとしか姿を現わさない。
音の正体ーー恐らくは陽子の父親に金を届ける部下ーーだろう。
しかし、今の赦影にはそこに至るだけの思考能力すら残されていない。有るのは陽子を殺した奴らに対する復讐心のみだ。
それが如何に身勝手で愚かでしか無い考えだとしても、今の赦影が気付くことはないだろう。
屋敷に入るとまず大きめな靴箱が目に付き、次に外見とは打って変わる絢爛なシャンデリアが赦影を照らす。
始めに見えた門構えからはミスマッチに思えるシャンデリアだが何故か玄関に溶け込むのは屋敷内が洋風の壁で仕切られているからだろう。
そんな物に興味は無い。とでも言いたいのか赦影は靴も脱がずに廊下をゆっくりと歩きだした。
床の軋む音と靴の踵の音が屋敷内に鈍く響く。
不思議な事に玄関のシャンデリアは灯っていたがそれ以外の部屋に光は見えない。
普通なら疑ってかかるべき事態だ。
にも関わらず赦影は不敵に笑ってみせる。
玄関に鍵は掛かっていなかった。
ーーそれはつまり屋敷内に誰かが居る事の証明に他ならない。
他の部屋からは光が見えない。
ーーと言う事は客人が居るわけでは無い。
そこから導き出される答えは一つ。
屋敷内には赦影が殺すべき対象しか存在してないという事。
今の赦影にとってはその事実だけで充分だった。
「…好都合」
小さな声で呟きながら変わらず歩を進めていると、今まで通り過ぎて来た部屋とは比較にならない一際大きな部屋が見える。
障子に映る二対の影。そこからは男女の会話が窺えた。
『…っぱり、バレたん…無いの?』
『…な筈は無い。絶対に…らない方法でやったし、仮に…れたとしても俺たちの事は流石に消さ…ろう』
焦りに溢れた会話はおよそ半分程しか聞こえ無かったが、声色から大人だろうという事だけはわかった。
とは言え、今から殺す人間の話など赦影には興味が無い。
陽と自分の怨敵が目と鼻の先にいる。
その事に喜びを禁じ得ない赦影は思わず声をあげて笑いそうになった。
勿論そんな事をすれば即座に座敷内の怨敵に気付かれ、消されてしまうだろう。
どうにか笑いを堪えた赦影は意を決し、座敷内に足を踏みいれようとする。
そこで赦影は何かに気付き、顎に手を当てた。
ーーどうやって殺そうか。
障子に隔てられた座敷内には最低でも二人の大人がいる。
別段、赦影は喧嘩が強いわけでは無い。一度や二度はした事があったが、懐かしくも過ぎ去った小学生時代の頃のみ。
以降、暴力沙汰とは無縁でいる赦影が素手で大人を…それも鉄龍会の傘下の人間と対等に渡り合う事は難しいだろう。それももう一人が女性とは言え居るのだ。
2対1で勝てる望みはまず無い。
赦影が頭を悩ませていると一つの考えが思い浮かんだ。
(玄関にあった靴ベラを使ったらどうだろうか)
本来なら踵を潰さず履くために使用する道具だが、取り扱いやすさ、間合い、強度、三つの点を鑑みれば決して凶器にならないわけでは無い。
(それに、そんな物で襲いに来る間抜けがいるとは思わないだろうな)
奇襲を仕掛ける場合、武器に求められるのは殺傷能力ばかりでは無い。
相手を如何に欺き懐に入るか。顎の真下にでも入れさえすれば例え赦影のポケットに入っているライターでも脳震盪なり何なり起こす事は可能だ。
獲物を定めた赦影は一旦、玄関まで折り返そうとした。
その時、ギシリ…と床の軋む不協和音が上がる。
『誰だ!』
ドスの効いた恐ろしい声が座敷の外に居る赦影にもはっきりと聞こえた。
事ここに至って仕舞えば仕方がない。
赦影は返した踵を元に戻すと障子を蹴り倒し、ポケットに忍ばせておいたライターに火を着ける。
『お前は…会の者でも傘下の奴でも無いな?だれっ…!』
『なっ⁉︎おいあんた!なんであんたが倒れてるんだい⁉︎まさ…かっ…⁉︎』
勢いに任せ踏み入ったはいいものの、どうやって殺そうか。そう考えている時だった。
眼前で途端に弾け飛ぶ怨敵どもの額。
その結果、赦影はニ度に渡る血の飛沫を浴びる羽目となった。
余りにも一瞬の出来事だった為、赦影は額の中心から赤黒い血を撒き散らし、なす術も無く倒れた陽子の両親をーー陽子の時とはまた違った意味でーー茫然と見続ける事しか出来なかった。
僅かな沈黙の後、不意に膝をつき座り込んだ赦影はそれを切っ掛けに高らかに笑い出した。
それは笑声と言うには悲し過ぎる感情がありありと聞き取れて仕舞うものだった。
笑声が止むと大の字で広げていた右腕を顔の上に乗せ、沈痛な声で呟き出す。
『なんだよ、僕は陽を殺したんだぜ?だから僕はこいつらを殺しに来た。なのに…あっはっは!とんだ茶番だよ…』
赦影の頬に一筋の川が出来る。あらゆる思い出の流水はやがて止まり、赦影の胸中に残ったのは自分の行いに対する虚しさだけ。
ーーそうだ、このまま家ごと燃えよう。
右手に握り締めたままのライターに再び火を灯すと畳を炙り出す。
思いの外燃え辛くはあったが炙り続けるとやがてモクモクと煙を出して燃え始める。
黒い煙と共に焦げ臭い匂いが赦影の鼻をつく。
『最後に嗅ぐ臭いが吐きたくなるような煙と言うのは嫌だけど、まぁ…お似合いか』
瞬く間に燃え広がる火炎に想いを乗せた赦影は瞳を閉じ深い深呼吸をした。
燃え盛るような空気と限り無い煙で肺を満たした赦影はやがて意識を失う。
『…い、おい!息をするな!やめ…』
遠退く赦影の耳に届くのは苦悶の声で悶え苦しむ陽子の悲鳴だけだ。
ーーーー ーーーー ーーーー ーーーー ーーー
「見張りご苦労さん。今日はこれでも飲んで休みな…って、なんだ。もうとっくに休んでたのか」
いつの間にか眠りについていた赦影を起こしたのは大雑把な中にも優しさが見え隠れする声。
声の主は霧乃燐。
女性ながらにがっちりとした体格、けれど出るところ、締まるところはしっかりとしたメリハリのある女性だ。
自分と同じ黒のレザー服の上下を着た燐は、ほむら色のポニーテールを揺らし赦影の隣に座る。
「あぁ、ごめんごめん。ついうっかり」
「別に構わないよ。こんな所で寝ても風邪を引かないってんならね?」
燐は右手に持っていた、渋いおじさんのシルエットの描かれている缶コーヒーを差し出した。
『ありがとう。…染みるね」
それを受け取った赦影は掌に伝わる暖かさに名残惜しさを感じながらプルトップを立て口に運ぶ。
眠り冷え切った身体の芯を懇篤とした暖かさが広がる。
「だろう?感謝しろよ」
悪戯っぽく笑ってみせる燐の表情には女性らしさが垣間見えた。
赦影が初めて燐に逢ったのは燃え盛る屋敷の中だ。
その日燐はとある人物ーー鉄龍会幹部の誰かーーから依頼を受けていた。
内容は以下の通り。
《鉄龍会に於いて重要な資金源となる集金日が来る。君にはその番頭にあたる男・日向蕪尊及び横領に加担した人間の抹殺。日程を伝えるのは依頼を承諾するかの有無で変わるので悪しからず。では、今日の夕方もう一度掛ける。以上》。
低くドスの効いた男性の声でかけられた電話。
勿論、燐が依頼を断る理由は無く、その日の夕方に快く依頼を承諾した。
一ヶ月に渡る綿密な調査の結果、蕪尊は集金時家族を除いた鉄龍会の人間全てを屋敷はおろか市内にすら入れ無いよう手配していた。
となれば集金の方法だが、やり方はいたってシンプル。鉄龍会本部から指定された集金日の一日前に届けさせる方法。
この方法は陽子の父・蕪尊の一つ前の代から利用されていた。
この事に鉄龍会幹部らはすぐに気付いたが滞りなく金銭が送られて来る、ならば問題は無い。と言うのが幹部らの考えであった。それに加え信用もある。
しかし、蕪尊の代になってからは違った。初めは少量の金額だった為着服に気づかれることはなかった。が、やがて金額は膨れ上がり最早隠し通す事の出来ない金額となってしまった。
故に、燐の元へと電話が掛かる。
果たして、決行日に日向家屋敷の外にて聞き耳を立ていた燐の前に想定外の事態が起きる。
人にあるまじき風体で玄関前に立つ人影。赦影だ。
始めその歩みを止めようと試みたものの、物音に気付きこちらを見た時の尋常では無い雰囲気と鋭い眼光に圧倒されてしまう燐。
不覚にも腰を抜かしてしまった燐が我に帰るまでの間に赦影は屋敷内へと姿を消す。
そのまま後をつけ屋敷内にいた全員を葬ることも当然考えた。
しかし、燐の受けた依頼は《蕪尊と共に横領に加担した人間の抹殺》である。
燐の職業は暗殺者という、実に血生臭いものだ。その身は腕一本、指一本、その声に至るまでが一つの兵器として成っている。
職人とは心中に一本の信条を持っている事が多い。
ボクサーならリング以外で人を殴らない。大工なら一切の妥協を許さず家屋を建てる。と行った具合に。
そしてそれは暗殺者らに於いても変わることはない。
寧ろ、表や裏で生きるどんな職人よりも己の持つ信条を大切にしている。
それは誰にも理解される事の無い哀しい職務に身を投じる故とも言えた。
かくして、燐が信条としている事が二つある。
一つ、受けた依頼は寸分違わずこなす事。
二つ、絶対に他の暗殺者に殺されない事。
それこそが燐の矜持であり、折る事の出来ない柱だ。
詰まる所、燐の受けた依頼内容には《話を知った人間を消せ》とまでは言われていなかった。
あくまでも加担した人間のみ、である。
もしも今日、赦影を消せば燐の中での信条を折る事になる。
そこで燐は屋敷内に入らず外のウバメガシに身を潜めた。唯一光の灯った座敷が視野に入る場所だ。
燐の得意とする暗殺法は所謂毒を用いた物。
その日の予定は屋敷内に睡眠作用のある毒ガスを充満させ、意識を失ったところにトドメを刺す。というものだった。
この睡眠作用のある毒ガスはどれだけ吸い込んでも死に至ることはない。深い眠りと目覚めた時の目を覆いたくなる後遺症が残るだけだ。
その為、赦影が屋敷内にいる以上持ってきた毒ガスを使うことは出来なくなってしまった。可能な限り中にいる少年には被害を被らせたく無いという想いからだ。
元々、燐という女性は状況が困難なら困難な程注意深く真剣に仕事に臨んだ。逆に、簡単なら簡単なだけ集中力を失い短絡的行動をして仕舞う。
その日所持していた武器は毒ガスとグロック27 Gen4とそれに装着出来るサイレンサー。
非常に小型化された為、重量が600g弱のグロック27 Gen4は携帯性と取り扱いが良く殺傷能力も見込める。燐の最も信頼の厚いハンドガンだ。
ミスをしたな。と内心思い、舌打ちをした燐は右太もものホルスターからグロック27 Gen4とサイレンサーを引き抜くと手早く組み立て屋敷内に視線を向ける。
『誰だ!』
怒号を飛ばす蕪尊。
ーーまさか自分が見つかったのか?
そんな考えは憂鬱に終わる。
見つかっていたのは自分では無く、屋敷内へと姿を消したあの少年だ。
(間に合うか…!)
標的を見定めグロック Gen4を構える。
障子の開く音と共に姿を現した所々血塗れの学生服を着た少年。表情からは人としてのそれが欠け落ちている。
標的の二人が立ち上がり学生服を着た少年の元へと詰め寄る。
今にも少年の胸ぐらに掴み掛かりそうな標的の頭部に向けグロック Gen4の引き金を引いた。
パシュ、パシュ。と乾いた音が宵闇に響く。
余韻が消えるよりも早く標的が畳に伏す。
返り血を頬に浴びた学生服の少年の表情に人間性が戻ると、標的から数歩後ずさり膝から崩れ落ちる。
『…後はどうにかするか』
名残惜しそうに小さく呟いた燐はグロック27 Gen4と、ほんのり熱の残るサイレンサーをホルスターに戻すとウバメガシから身体を起こす。
すると屋敷内から大笑いが聞こえ、寂しそうな声で懺悔が始まる。
それが気になった燐は再びウバメガシの中に身を潜め座敷内を観察する。
懺悔が終わると手に隠し持っていたライターに火をつけ畳を燃やし始める学生服の少年。
『あの馬鹿ッ!』
ウバメガシから飛び出す燐は火炎の中に眠る少年へと駆け寄り声を掛ける。反応が無いとわかると少年を屋敷から担ぎ出し夜の町を駆け出した。
そこは日向家のある市と隣の市の間を流れる大きな川に架かる橋のたもとの地下。
燐の隠れ家だ。
コンクリート造りの場所を改築した為、冷えた印象を受ける部屋。
そこにポツリと置かれるベッドに眠る少年の隣に、見守るようにして燐が腰掛けていた。
それから三日三晩眠り続けた少年は眼を覚ますと開口一番に『燃やしてくれ』と虚ろな眼で燐に願い出る。
おおよその察しがついた燐は少年に名を訪ねた。
『…赦影君か。漢字は?…赦すに影、ね。そうか』
少年ーー赦影が横になるベッドから離れ背もたれ付きの座椅子に腰掛けた燐はわざと厳しい口調で言葉を綴った。
『別に死にたいなら構わないさ、焼身自殺なり何なりすればいい。あんたは充分やった。だから自分の事を赦してやんな。それが死ぬって事ならそれも悪く無いだろうさ』
燐の言葉を聞いた赦影は両手で顔を覆うと背中を丸め咽び泣き出した。
『私はこれから別の仕事があるから隣の部屋で準備をしてるから。決心がついたら部屋に来な。一人じゃ死ねないってんなら介錯くらいしてやるからさ』
燐はそう言い残すと立て付けの悪いドアを開け隣の部屋へと姿を消した。
それから十年の時を経て現在に繋がる。
今、二人の立つ場所は辺り一面が自然に囲まれる中に異質と建つ骨組みの鉄柱。
高さ15メートルとなる筈だった鉄柱は今や10メートル程度のものとなっている。
その最上階に二人は居た。
鉄柱が建つのは見放された開拓の島。
とある大国で起きたバブル経済により買い取られた無人の島は大型テーマパークの建設を予定されていた。
が、盛者必衰。バブル経済は僅か数年で弾ける。
当時の大国の長は愚政を極めていた。
あらゆる国政部署に着服し、私腹を肥やした。
それだけならば良かった。
あろう事かその長は極一部の大臣を通じ小国同士の紛争に加担していた。
詰まる所このバブルの発端は戦争経済によるものだ。
弾薬に銃火器等、現代の争いに於いて欠かすことの出来ない兵器は小国へ飛ぶように売れた。
無論、そんな生業は即座に同盟国へ露見し経済的制裁が行われた。
当然、小国や同盟国へ物品を輸出することも出来ず、それで稼いだと思われる資金の全ても没収された。
結果、バブルの晩年に計画された無人島全域を使用したテーマパークは頓挫し、その名残である組みかけの鉄柱と幾つかの小屋が残される事となる。
そして今回の標的は愚政者ーーデルマタ・ロッサー。
国民や同盟国からの圧力に屈したロッサーは任期も終わっていないというのに自国に背を向け、自身の唯一と言っていい行政の土地へと逃げてくるのだ。
「で、どうだい?海の果てから標的の船は出て来たか?」
燐は缶コーヒーを渡した時からは想像も出来ない真面目な声で赦影を質す。
「未だ見えないね」
ぬるくなった缶コーヒーを飲み干してから伝えられた報告に燐は溜息をつくと、
「ま、後1週間くらいはあるからな。ちょっと早く来過ぎたか?」
はにかみ、赦影の肩に手を回した燐はそのまま抱き寄せ小さな声で耳打ちをした。
「(ここら辺を見回りして来たらおかしな木が数本、等間隔に生えてた。もしかしたら、もしかするかもしれない)」
含みのある言い方に思わず燐の顔を見つめる赦影。
「(まさか、既に奴らが来ている…?)」
小声で訪ねると燐は首を横に振った。
「(多分、違う。昨日まではそれらしい物なんてなかったのに今日になったら急に、だ)」
「(って事は、無線を使える距離まで近づいてる…?)」
「(恐らくは。盗聴の危険もあるから、小屋に戻るまでは一応、な)」
口元に人差し指を当てウインクする燐に頷く。
それじゃ一旦小屋に戻ろうか。燐がそう言うと二人は鉄塔に備え付けてある梯子を使い地上に降り始めた。
夜風に吹かれ冷え切った鉄の梯子は体を震わせるのに充分で。
「冷たッ」
冷たさに耐え兼ね声を上げる赦影。
「(し、シー!)」
その上で梯子と格闘する燐は声を聞き咎め、先程と同じ様に人差し指を口に当てた。
「(ごめんごめん…燐、前見て前!)」
謝罪と同時の催促に顔をしかめながらも渋々正面を見る燐。
「(眩し…おぉ、夜明けか!)」
海の果てから広がる空は橙色に染まりやがて真っ赤な太陽が登る。
陽は潮騒を響かせる海面を照らし、乱反射した光が幻想的な空間を造り上げた。
「綺麗だな〜」
「(り、燐!声、声!)」
「(あっ、ごめんごめん)」
赦影は燐を模倣するようにして注意した。
「ここまで来れば取り敢えずは大丈夫か」
そう言い放つと燐は近くにある所々錆び付いたパイプ椅子に腰を落ち着ける。同様に、立膝で床に座る赦影。
彼らが今いるのは数年前に建てられた小屋だ。
テーマパーク建設に関わる作業員達の憩いの場として提供されていたこの小屋も今は見るも無残に蜘蛛の巣が張り、ネズミが湧き、埃の漂う有様。とても人が住めるような場所ではない。
しかし、それはあくまでも《真っ当な生き方をしている人間》であればの話だ。
赦影や燐のような表からも裏からも貌を隠して生きなければならない人間にとって誰も近付かない小屋というのは大変都合の良い場所でしかない。
と言っても、そもそもこんな所に来る人がいる筈も無いが。
「で、どうする?」
「うーん、依頼書にはここに着くのに後1週間くらいはあるんだが、逃げるってのにまさか予定通りって訳もないよなぁ」
持っていた書類を放ると両手を挙げ若干呆れ気味に頭を振る燐。
「っはは、仕方ないね」
端的に言って今回の標的ーーロッサーはこの島に来る予定を早めたのだ。
そういった予定外のアクシデントが起きたとしても万事抜かりなく依頼を遂行する為、彼らはこの島に早くから座していた。
「そうそう、そのおかしな木ってのはどんな感じだったんだい?」
「ぱっと見は他のと大差無い。けど、よくよく見ると巧妙に塗装された機械仕掛けの木だった」
「やっぱりそういう系統のだったんだ」
十年に渡る燐との行動によりそのクセを理解している赦影にしてみればこの不可解な木が如何様な物か、耳元で無ければ聞き取れない声で話す事から大体の察しは付いていた。
今後は盗聴の危険とそれ以上の害があるかもしれない木についてはロッサーが到着するまでの最注意項目だと二人は視線を交わし無言の了解をする。
ーーさて、となればさらなる危険性は無いか?そう赦影が質問しようとした時。
「あの木はギリギリの所で稼働してた。一応ここの周りは確認しといたがまずは心配しなくても大丈夫だろう」
燐とて条件は同じだ。赦影に出来て彼女に出来ない筈も無く。思考を先読みされた赦影は一滴の冷や汗と共に苦笑いを浮かべて胸を撫で下ろす。
そうして暫しの沈黙が訪れる。
チク、チク、と時を刻む腕時計の針が煩わしくさえ聴こえる程の静寂。
この静寂は赦影の内心にある気不味さから来るものだった。
彼女に救われてから今日までの十年間、初めは何で事のないただの口約束でしか無かったそれは時を重ねる毎に口にする事の許されない禁忌となっていた。
今日まで禁忌をどうにかして抑え込んでいた赦影だったが、とうとう我慢出来ず触れてしまった。
「…燐はさ、どうしてあの時僕の事を救ってくれたんだい?」
それまでただボヤッと天井を見ているだけだった燐の眉根がピクリと動く。と、同時に部屋一帯に重苦しい雰囲気がのさばった。
「赦影、あん時私は言ったよな?『お前の過去は聞かない。変わりに私に意を唱えない』って。それにお前は首を縦に振った。なのに今更聞くのか?」
部屋にのさばるモノに負けず劣らずの声色で語る燐に赦影は一瞬躊躇った。
もしこのまま言葉を繋げればさっきまでの関係ではいられないのではないか?
そんな不安が脳裏を過ぎったからだ。
だとしても。
例え以前とは違う関係になったとしても、僕には聞く必要がある。と。
その覚悟を赦影の双眸から受け取ったのか、燐は深い溜息をすると脚を組んで話し始めた。
「ったく。私がお前を助けた理由はだな…って、私が話すって事は当然お前もあの日に何があったのかを話すって事で良いんだよな?」
「勿論」
「なら良いんだ。それでだな、私がお前を助けた理由はだな…有り体に言えばお前と私を重ねて見たから、だな」
ーー重ねて見た…?
疑問の残る言い方をする燐に顰め面を向けたまま話しに諦聴する赦影。
「なぁに、そんな不可解な事じゃない。暗殺者なんて職に就いてるんだ、真っ当な生き方をしてる筈もない。私もね、お前と同じ様に依頼先で拾われたのさ、暗殺者にな。私の持つ技は全部その人から教わったんだ。お得意の毒も全部」
何が面白いと言うのだろうか。燐は語り始めこそ神妙な面持ちであったが半ばからはその美麗な顔を歪ませ、終いには嘲りとも取れる笑いを漏らす。
想定外の事に少しの間呆けていた赦影だったが、笑声が止むと共に小さく呟かれた言葉を聞き逃しはしなかった。
「(…本当、なんで助けられたのかな)」
それは普段の口調からは想像も出来ない程、悲嘆に暮れ何かを羨望して止まないものだった。
赦影は痛感した。燐は既に疲れているのだと。
彼女と赦影が過ごして来た十年間も依頼は引っ切り無しに訪れた。
健常者に虚言を並べ嘘偽りのカルテを閲覧させ、その臓器を違法に抜き取り高値で売り捌く医師の抹殺や、世界有数の大企業で横領を行なった役員とその家族を社会的に抹消、己が国の敵対国の思想に惑わされ国家転覆を謀った議員の拷問など、挙げればキリが無いがそれだけ多くの依頼を受け、そのどれもを書類に違う事なく達成して来た。
まともな人間なら半年も持たずに狂って仕舞うような仕事内容ばかりだ。特に拷問の類は凄惨なものが多かった。ある時は依頼対象の息子を生きたまま油鍋にゆっくりと足の先から投入し素揚げに、またある時は遅滞性の猛毒と知らせた上で身体に注射しありもしない解毒剤と引き換えに情報提供を促す。そんなイカれた内容はザラだった。
赦影も何度発狂しかけたかはわからない。後悔の念で死のうともした。
それでも今日まで彼が木洩日赦影としてあり続ける事が出来たのはいつも傍らに燐がいたからだろう。
それを燐は赦影と出逢った日よりも以前から己の生業と規定し生きて来た。
恐らくはたった一人で。
不意に漏らしたあの一言はきっと、《もしも普通の生き方をする女性だったら》というif、あり得ざる現実への想いが込められていたのだ。
赦影はそれを知ってしまった。自分でも驚く程深く正確に。
「なら…」
赦影は自分でも知らぬうちに口が動いていた。
「なら、この仕事が終わったら表の世界で普通に暮らそう。適当な所に家でも買ってさ、マンション住まいだって構わない。TVで良く見る阿呆面さげた家族みたいにペットでも買ってさ、あぁでも、そしたらマンションは無理かな?まぁいいや。兎に角、これが終わったらこんな血生臭い生活とはおさらばしようよ!そうすればまだまだ普通の人と同じように生きれるんだから!」
見苦しいまでの詭弁を一気に捲したてる赦影を絶望に濡れた瞳で見つめる燐。
僅かばかりの無音の世界の後、燐の愉快げに笑う声が部屋一帯に響く。
「良いなそれ…うん、凄く良い!普通の生活か、悪く無いかもな!でも、資金が無くなったらどうするつもりなんだ?」
まるでクリスマス時期に配られるおもちゃのチラシの中から自分の欲しいものを選別する子供のように愉しげに話す燐を見て心底安堵した赦影は、
「勿論、僕が稼ぐさ!」
どんな物でも買ってやる!と息巻く父親のように胸を張った。
当然、赦影の出来る仕事と言えば暗殺業以外に無いのだが…彼にとって重要なのは燐がこの世界から脚を洗うことであって自分の事は一切勘定に入れていない。と言うよりも入れる必要が無い、と表現した方が正しいかもしれない。
日向陽子を殺めたあの日から赦影の中に表の世界で働く、と言うよりは働ける、と言う考えは既に失われていた。
「つまりお前は私の旦那になるって事か?っはは!こりゃ余計に面白い。良いねぇ、今回の依頼は俄然やる気出て来たよ」
言うや否や胸の前で掌に拳を勢いよく当てる燐。
そこから鳴る乾いた音が赦影には妙に心地よかった。
ーー燐の旦那。
本当になるかどうかは別としても今はそう言ってもらえるだけで嬉しかった。
「ふぁ…」
急に霞む視界。
不意に訪れた眠気に欠伸で応えた赦影。
「おいおい、私が答えたのにお前は早々に寝るつもりなのか?」
間髪入れず燐の呆れ声が聞こえた。
「勿論、話してから寝るよ」
目を擦りながらそう答えると赦影はあの日にあった事全てを話した。
「…はぁ」
深い、相当に深い溜息を燐は吐いた。
顔全体を覆うようにして指をあて、出来た隙間から赦影を一瞥する。
「あの風貌に風体、それに眼光、表情。どれを取ってもまともな奴じゃないと思ったが、まさか本当にまともじゃ無いとはなぁ。そりゃ死にたくもなるか」
言いながら立ち上がった燐は気まずそうに黙る赦影の元に近寄る。
ぽむん。
赦影は燐の行動を一瞬理解出来なかった。
「なんで、頭を撫でるの?」
「それは正確な状況判断じゃ無いな。正しくは《これから撫でるの?》だ」
燐はそう紡ぐと赦影の短く切られた黒髪をわしゃわしゃと大雑把に撫で回した。力強過ぎて頭が揺らぐ程に。
「良くやった…じゃ無いな、よく生きようと思ってくれた。自分で立てた誓いを貫く。間違い無く正しい行い…善行だ」
「…え?」
忌憚無く、それはそれはとても良い笑顔で言い放たれたその言葉に、赦影は無意識のうちに涙を流す。
「お、おいなんで泣くんだよ」
ーー僕は間違っていなかった?
燐の言葉には耳も貸さず、混乱する頭で自問する。
ーー僕は彼女の事を殺して、それでも生きる事を選んだのに、それが正しい…?
「な、なぁ、悪かったよ、首でも痛めたか⁉︎傷付けたなら謝るから!」
ーー正常な世界で人を殺してそれでも自分可愛さに生き延びた僕を、それを他でも無い善行だって言うのか?
「ごめんね!赦影、いやよくわからないけどごめん!」
ーーなんで彼女は謝ってるんだ?
その時赦影は初めて自分が泣いている事に気が付く。
ーー…ああそうか、僕が泣いてるからか。心配させちゃったな。悲しいわけじゃ無いって教えなきゃ。
そうしてようやく燐の声が届く精神状態に戻った赦影は涙を拭い、晴れ晴れとした顔で話そうとする。
けれど。
「あれ?おかしいな、なんで止まらないんだろう。嬉しいのに、嬉しいだけなのに。なんで涙が」
けれど、叶わず溢れ続ける涙。
大の男の大泣きである。こんな光景を目にすれば誰でも一歩引き下がった見方をするだろう。
けれどそれは涙の意味を知らない者ならば、だ。
「僕は、今まで分からなかったんだ。生きる事を選んで良かったのかって。人を一人手にかけて、その人生を奪い、握り潰して仕舞った。それより先にあったかも知れない可能性諸共を。悩んでた。夜もまともに寝れた日なんてなかった。命を奪った奴が生きていて良い道理は何処にも無いんじゃ無いかって、ずっと苛まれていたんだ。でも…!」
赦影の支離滅裂な嗚咽混じりの言葉を黙って聞き遂げた燐。
「あぁ、解る。痛いほど解る。命を奪った奴が生きていていい道理なんて無い。だからって、勝手に奪った奴がとっとと死んでいい訳も無い。そう言う事だろう」
優しい、聖母のような声で語る燐はまるで赦影の母にも見えた。
それ以降口を閉ざし、ただ泣き噦る赦影の事を優しく抱擁する燐。
その抱擁は赦影が泣き疲れ眠るまで続けられた。
翌日の昼中に赦影は目を覚ました。
いつの間にかベッドの上で寝ていたらしく手のついた場所が不安定だ。
「ぅん」
突然の寝息に驚き身を翻す赦影。
気づけば自分まで下着姿である。
ーーまって、一体誰が…?
などと言う思考は彼が目覚めたばかりで未だ頭が冴えていないからである。
当然、居るとすればそれは燐。
それを裏付けるものとして、周りを見渡すとグロッグ Gen4とサイレンサー、それに幾つかの銃弾が古ぼけた木製のテーブルの上に置かれている。
とは言え、今この島にいるのは赦影達二人だけなのだから、そんな推理も混乱の果てに起きただけでしか無い。
何故、彼女が隣で寝息を立てているのだろうか。そんな疑問が過ぎると同時に、大人の男としての階段を登ったのでは?と言うものまで赦影の脳裏に去来する。
ーーまさか、いやいや、そんな筈は無い。
彼女、つまり燐はそういった事に一切の警戒を抱く事は無い。とは言え、知らない訳でも無い。正確に言えば、燐は赦影に対して警戒心を抱く事は無い、のだ。
十年もの間を(時には別々の場所に住んだ事もあるが)同じ部屋で共にした二人は師弟のそれと言える。
弟子が師に謀反を翻す。余程正当な理由が無い限り絶対にあり得無い。
果たして、そんな関係になる筈は無い、と断定した赦影だが、それにしてもこの状況は不可解過ぎる。と頭を悩ませた。
「ぅん?なんだ、起きたのか。おはよう」
真っ白なランジェリー姿の身を起こし目覚めの挨拶を交わそうとした燐に吊られて赦影は「あ、おは…」まで言って仕舞う。
いいや違うだろう!そう思い頭を左右に激しく振る。
「ちょ、ちょっとなんで燐はそんな格好で隣に…⁉︎」
ベッドの外で赤面した顔を覆う赦影に燐は惚けた顔のまま語った。
「だって、夫婦になるんだろう?なら、こんな事もするんじゃ無いのか?」
「え、あ…確かに言ったけど、まだ準備していないって言うか、なんと言うか…。だ、第一それは次の仕事が終わったらって!」
いつの間にか正座をし、何故か慌てふためきながら弁明する赦影をポカンとしたまま見つめる燐。やがて目尻に涙を浮かべ。
「そんな、酷い…。あの言葉、嘘だったんだ。凄く、嬉しかったのに…」
ハニートラップ。それは異性に対して最も有効に働く騙し掛け。
今の燐はまさにそれと言うのが正しい。
目尻から涙を零し、身体の半ばまでずり下がった薄手の毛布、そこから覗かせる白きランジェリーと健康的かつ官能的な肢体。
これがどこかの男を騙す依頼の時に行われれば、まず間違いなく成功するだろう。
そう思わせるのに足るだけの甘い誘惑を燐は放っていた。
「いや!それは嘘じゃ無いから!」
そんな姿の燐から目を逸らす事なくキッパリと断言する赦影。
「なら問題ないな!」
その目線をしっかりと受け止めいつの間にかベッドの上で仁王立ちし、はっきりと言い切る燐。
ここで赦影は一つの考えに至る。
この問答に意味はあるのか?と。
「ふふふ」
部屋に響く不意な笑い声。発生源は燐だ。
「いや、すまない。お前があまりにも面白くて、ついな」
そう言うと燐はベッドから降りて窓際にある黒ずんだクローゼットから真っ黒なレザーの上下を取り出した。昨日着ていた服と同じものだ。
「さて、昨日の夜電話があった。要点はこうだ。『後2日でロッサーがそっちに着く』」
着替えながら言うとさっきまでの悪戯な事ばかりしていた燐とは違い、仕事人然とした雰囲気を醸し出す。
となれば、赦影も仕事モードに切り替えなければならない。
「…了解。僕も着替えてくる」
「今回もいつも通りに行くぞ」
「了解」
静かに交わされた会話だった。
燐の言ういつも通りとは、標的者への攻め方、アプローチの掛け方の事だ。
まずは燐が相手を誘い出し、次に赦影が罠に嵌め、最後は二人で仕上げをする。十年間、共に仕事をしてから唯の一度も変わらないやり方である。
「それじゃ、先に行くぞ」
ドアを開きそう言い放つ燐。
「了解。終わったら祝杯だ」
笑顔で返す赦影に燐は同じような笑顔で返した。
「そうだね、あんた」
僅かに赤面するその頬を隠すように燐は部屋を後にする。
「…えっ?」
赦影が言葉の違和感に気づきドアに振り向いた頃には既に燐の後頭部しか見えなかった。
「まぁいいか。僕も着替えて用意しないと」
独り言を呟くと燐の出て行ったドアの向かいにあるドアへと赦影は手を掛ける。
すると突然鳴り響く機械的なベル音。どうやら電話がかかって来たようだ。
「それじゃ、未来のお嫁さんの為に稼ぐとするかな」
冗談を吐きながら赦影は電話を手に取った。
『そっちの様子はどうだい?』
燐の手元にある長方形で機械的なねずみ色をした電子機器から流れる雑音混じりの赦影の声。
燐のレザー服に常備されているトランシーバである。
彼女が居る場所は赦影達が拠点として居る小屋と併設された道具小屋。
テーマパークの計画が頓挫した為、使用されていた工具等が今尚そっくりそのまま残されている。その殆どは錆び付くか或いは風化により使えなくなっていたが、それでも未だ息のある物も幾つかあった。
「特に何も。今ちょうど最後の仕掛けが終わったとこだ」
言いながら視線を足元に落とす燐。そこには赤外線レーザーを照射し、通った人間を仕掛けた人間に報せる機械が設置されていた。
三日程前の晩、燐が事前に運び入れた道具だ。
古ぼけた小屋の中を見渡せば其処彼処に似たような機械が設置されている。
特殊なゴーグルを使って燐の居る辺りを見れば赤外線が蜘蛛の巣のようになって居ることだろう。
『そっか。ああ、それと銃はいつ渡す?』
「んー、標的を目的の場所まで連れていった時かな」
『了解。それじゃまた連絡するから』
「了解」
それっきりトランシーバは何の音も出さなくなる。
「さてと、後はロッサーをどうやって連れ出すか考えるか」
燐は独り言を呟くと近くにある錆び付きスポンジがはみ出たパイプ椅子に腰掛けた。
ーー全く、ロッサーも皮肉に思うだろうな。
特に意味も無く室内を見渡した燐は残されている工具や元々の人が使っていたであろうパイプ椅子を見ながらそんなことを思い浮かべていた。
『さっきロッサーが小屋に入って来た。人数はロッサーとその付き人に二人。どちらも170センチ前後の男だ。武装は見た所誰もしてない。ここまでは事前の情報通りだ。ただ、何があるかは分からないから早い所、一通りの準備をしてこっちに向かってくれ』
「了解、とは言えもう殆ど用意は終わったけどね。五分間も経たずにそっちに着くから」
『流石だな。それじゃ待ってるぞ』
赦影は燐との通信を終えるとトランシーバをレザージャケットの胸ポケットにしまった。
事前に受けていた依頼書に記されていた情報には『小型船にロッサーと護衛と称した監視役二人の計三人が乗っている。この監視役二人は今回の件は知っているので、手を出さない様に。武器の所持はするなと伝えてはいるが、ロッサーに信用してもらう為、最低限の武装をしている可能性がある事は念頭に入れておいて欲しい』といった内容だった。
先程、燐から受けた報告からは今の所おかしな点は無かった。
しかし、用心に越した事はない。
想定出来る範囲内での対策を予め講じていた赦影に抜け目は無い。
「よいしょ…っと」
身の詰まった漆黒色のボストンバックを持ち上げると赦影は小屋を後にする。
それから歩く事数分。
ドアが開け放たれたままの小屋に辿り着く。
燐がロッサー達を誘い込んだ小屋だ。
赦影は念の為と周りを見渡したがやはり他の人影は見当たらない。
二度、深呼吸をすると足音を立てないようにそっと薄暗い小屋の中へと入る。
するとそこは数日前に下見をした時とは見紛う程小綺麗になっている。
小屋全体の古ぼけた感や置かれている物の劣化度は流石に誤魔化せてはいないが、張り込めていた蜘蛛の巣やネズミなどの小動物のフン、虫の死骸、埃、そう言ったものが全て片付けられ、最低限の生活ならどうにか可能なまでになっている。
ーーやっぱりプロだな、燐は。
鼻で笑いながらそう考えると奥のドアから物音が聞こえて来た。
赦影は咄嗟に近くにあったテーブルの影に隠れる。
『貴様ら!裏切ったな!』
小屋全体に怒声が響く。
ーーなるほど、成功したみたいだ。
恐らくこの怒声はロッサーのものだろう。
事実、この時燐は監視役の二人と結託し言葉巧みにロッサーを部屋の奥へと連れ込んでいた。
それならば、とテーブルの影から身体を起こした赦影は声のした部屋へと向かう。
ドアを開け中に入ると真っ先に見えたのは、古ぼけた小屋には似つかわしくない、否、ある意味では違和感を一切感じさせない、1966年頃から現在にかけて処刑などに使われる木製の電気椅子に縛られた男がいた。
電気椅子に付属されている拘束具を用いられ殆どの動きを固定されているその男は、でっぷりと肥え太り、てらてらと光るリスのように膨らんだ頬を持ち、如何にも悪徳政治家然としたその姿、猿ぐつわをされて恐怖にも勝る憤慨に顔を歪めてはいるが、書類と共に送られて来た写真に写っていたデルマタ・ロッサーに違いない。
「おお、ちょっと時間がかかったな」
右側から声を掛けられそちらを振り向くと、見覚えの無い女性が腕組みをし壁に背を預けていた。
「ん?なんだ、そんな鳩がM4カービンを喰らったような貌をして」
「僕今穴だらけの貌なのか?」
どこかで聞いたことがあるようで無いような事を言うこの女性の声に赦影は聞き覚えがあった。
と言うよりも、本能的に理解した。と表現した方が正しいかも知れない。
「もしかして、り…」
理解が正しいのか確認する為、女性の名前を呼ぼうとした時だ。
言い切るよりも早く女性は組んでいた手を解き、赦影の口元に人差し指を当てる。
「おっと、今は呼ぶなよ。…おい、そっちの監視役二人。後は任せてくれていいから帰ってくれ。三日後にここの後処理を頼むぞ」
「分かりました」
「それでは、後は頼みましたよ。それと、こちらが今回の報酬です」
赦影の背後から声が聞こえてくる。
どうやらロッサーの監視役もこの部屋に居たらしく、その内の一人が女性の隣にまで来ると分厚い茶封筒の束が敷き詰められた銀色のトランクを見せる。
女性は赦影の唇に人差し指を当てたまま中を改めると軽く頷き、閉じられたトランクを受け取った。
「この豚に徹底的な拷問をよろしくお願いします」
トランクを渡した監視役の男がそう言うと、赦影の背後で待機していたもう一人の監視役と合流し小屋を後にした。
「…さてと、悪かったな赦影、口を押さえちまって。それと、お前は私の変装を見るのは初めてだったな」
ニカリ、と笑みを作ると女性は赦影の唇から人差し指を遠ざける。
「いや、大丈夫だよ。それよりも驚いたな。まさか君が毒以外にもこんな特技があったなんて」
口が自由になると女性…もとい燐の完璧な変装に驚嘆を漏らす。一部の重なりも無く、普段見ている霧乃燐とはかけ離れた貌をしている目の前の女性。正直、本人に言われたとてどこか納得していない自分がいた。
それ程までに別人として変わっている燐に赦影は一つの疑問を覚える。
「…あのさ、燐。君って裏の世界で何か通り名とかある?」
側頭部から襟足に向かって流れる一筋の冷や汗。
出来ればあって欲しく無い。仮に会ったとしても思っているものと違っていて欲しい。
赦影の流した冷や汗にはそんな意味が込められていた。
けれど、彼の淡い期待は露と消える。
「あー、結構前に依頼主がなんとかって言ってたな。えぇと、確か…。ああそうそう!貌漠の毒霧とかって厨二臭い二つ名だ!」
後はロッサーを拷問するだけとなったからか、仕事を忘れ二人で居る時のような明るく悪戯っぽい貌ーーとは言え今は別人なのだがーーで嬉々とはしゃぐ燐。
けれど赦影はただ黙って地につく二足に力を込めていた。そうでもしなければ絶望と虚無感で膝を屈して仕舞いそうだからだ。
それでも、敢えてなのか、気づかないだけなのか、燐は尚も続ける。
「気になって二つなの意味を聞いてみたんだ。そしたら依頼主はなんて言ったと思う?…自分の顔を忘れた毒使い、だからだとさ!分かったか?茫漠って言う、広くて取り留めのない様って意味を持つ熟語とかけたんだとさ!つけた奴は当然裏の世界の人間なんだろうけど、中々お茶目だよな!」
努めて明るく言い放つ燐は上から伸ばした手を顎にまで持って行くと、ベリベリと貌を剥がす。
そうして顕れたのは赦影の見慣れた美麗な貌だった。
その瞬間、とうとう赦影は四肢に込めた力を喪う。
持っていたボストンバッグは床に落ち、膝が崩れる。
聞いてしまった言葉。知ってしまった事実。折る事の出来ない己が矜持。
赦影は今、自分の中に天秤を創り出して仕舞う。
「お、おい大丈夫か?」
「え、ああ。大丈夫だよ。うん。さぁ、それじゃあサクッとやっちゃおうか」
自分の心持ちを知られたく無い赦影は早々に立ち上がると電気椅子に拘束され、猿ぐつわをつけたままのロッサーに近寄る。
「ふぐー!ングー!」
無様に籠る声を上げるロッサー。
「書類には可能な限り拷問を続けてくれ、とあったけど、あれは厳守事項だった?」
「ふぐっ⁉︎」
「いや、『可能な限り』ってのは人によって変わるからな。拷問する奴のさじ加減一つだ」
いつの間にか赦影の隣に立ち、赦影の運んで来たボストンバッグから取り出した木槌を差し出す燐。
「そうか、…うん。今日はちょっと調子が出ないみたいだから、こいつすぐ死んじゃうかも」
「ング⁉︎」
「おいおい、少しは依頼に添ってやれよ?」
出された木槌を受け取った赦影は何の躊躇も無くロッサーの右目を釘を打つようにして叩く。
「ングゥ"ゥ"ウ"‼︎‼︎」
無慈悲にも三度、続けて。
「燐、猿ぐつわはやっぱり正解だね。薄汚いこいつの悲鳴を聞かなくて済む」
「っはは、だろう?」
笑いながらまた別の道具を取り出す。
「お、今度はニッパーか。中々どうして恐ろしいものを選ぶんだな燐は!」
努めて笑顔で差し出されたニッパーを受け取る赦影。
右手でそれを持ち、別れた切っ先を鼻の両穴に優しく差し挿れる。
「なぁ、ロッサー。この後どうすると思う?喋れないだろうから俺が今から幾つか例を挙げるから、予想したのが出たら頷け。もし僕のやろうとしてる事が当たれば、やらないでやらん事も無いぞ?」
子供と会話する保育士のように優しく語りかける赦影の姿はロッサーにしてみれば、鬼か悪魔にしか見えない事だろう。
「お、出たな。赦影の十八番が。さて、ロッサー君は当てられるかな?」
そして、隣で腕組みをして立つ燐の事も。
「ふ、ふぐっ!」
二人から沸き立つおぞましさに身を震わせ、恐怖に悲鳴を上げるロッサーの姿に気を良くした赦影は、至極御満悦な表情で口を開く。
「いいね、やる気満々だね。とは言ってもな、正直面倒だし二つだけ挙げるか。それじゃ一つ目。このまま真上に持ち上げて鼻を千切る。イエスなら縦に、ノーなら横に目を動かせ」
こうなって仕舞えば腹をくくるしか無いと理解したロッサーは意を決する。
「ふぐっ(左右へ動かす)」
驚き息を飲む赦影。
「う〜ん、不正解!では二つ目!鼻の真ん中をニッパーで切断する!イエスかな?ノーかな?」
キラキラと輝く目をした貌をロッサーに近付け、更に問う赦影からはどこか悲しさを纏っている風だった。
恐怖で錯乱しているロッサーは、もうこれしか無い。と判断し、目を縦に動かす。
「ま、そうなるよね。でも残念。不正解」
「ングゥ⁉︎」
約束が違うじゃ無いかと言わんばかりに息を荒げるロッサー。
赦影は近付けていた貌を遠ざけ、手を腰に当てて溜息を吐く。勿論、鼻の中にニッパーの先端を差し挿れたまま。
「ん?なんだ。違うのか?」
隣で行方を見守っていた燐もいつの間にか答えが気になっていたらしい。赦影に答えを質した。
「なんだ、燐も気になってたんだ。そんじゃ実演してみるかな」
軽快に応えると、差し挿れたままのニッパーの刃先を閉じ、鼻の真ん中を切断した。
「ふぐぅうううう‼︎」
「なんだよ、当たってたんじゃ無いか」
言いながら鼻で笑う燐を横目に赦影は、
「まぁまだ見てなって」
そう言い、またニッパーの刃先を別け更に奥へと差し挿れると、左手で口元を強く押さえ、ニッパーを強く持ち上げた。
途端に室内に響き渡る皮膚と筋肉の剥げる音とロッサーの篭った悲鳴。そして微かに赦影の耳元に届く燐のヒュウ、と言う口笛。
「そう、つまり正解は両方にイエス、だ。どうかな?嘘はついてなかったろう?」
赦影の答え合わせに、しかしロッサーの返答はない。
有るのは噴水と見まごう血飛沫とそれの湧き出る音のみ。
「はぁ、やっぱり調子が良くなかったみたいだ。ここまで剥ぐつもりは無かったのにな」
刃先から持ち手の7割迄が真っ赤に染まったニッパーを後ろに放り投げて語る赦影。その全身は返り血でべっとりの濡れている。
「全く、依頼書に添ってやれ、と言ったのに…。鼻から頭頂部までの皮膚を一気に剥がせばそりゃショック死もするよ」
燐はいつ持って来たのか分から無いピンク色の折り畳み傘で血雨を防ぎながら言った。
「あはは。でも、信条は折ってないだろう?だから勘弁てよ」
赤黒く染まる口元を緩めて破顔する。
「ま、全部任せるって言ったのは私だからな。しょうがないさ」
降り注ぐ血雨も止み、差していた傘を閉じた燐も微笑みながら答えた。
「ああそうだ、これで仕事も終わりだし、私らは今ここで夫婦になった…のか?」
頬を赤らめて疑問貌を作る燐は、正に婚約を結ぶか否かという状況に置かれた一人の女性に見える。
「どうだろう。まぁでも、優雅に傘を差していた淑女が血濡れの男に申し出る事じゃ無い事は確かだね」
ボストンバッグからタオルを取り出し貌に付いた血液を拭う赦影。
「む?それもそうだな。あぁいや、淑女ならそれもそうね。と言ったほうがいい…わね」
「恥ずかしいなら辞めればいいのに」
「五月蝿い」
真っ赤に熟れたトマトが如く貌の色を変えて嘯く燐に、赦影は抱き続けていた虚無感を更に大きくして答えた。
ーーあぁ、こんな下らない話題を互いが年老い白髪へと変わる迄話していられるのならどれだけの喜びだろうか。
「先行くぞ」
いつも通りの口調に戻った燐は小屋の出口に当たるドアを開けたまま、赦影を促す。
射し込む外光からはもう間も無く夕暮れになろうかという時刻だという事が窺える。
「あぁ、うん…。分かっ…た」
ーーそう言えばいつだかに同じ事があったな。
唐突に感じた既視感。
それは、燐と赦影の二人で初めて依頼を受けた日。二年前の事。自分の意を固めた日からおよそ一年間は全方位の勉学を寝る間も費やし努め、それ以上に肉体の鍛錬を行なった。ーー背中に15キロの重りを乗せ腕立て伏せをしながらドイツ語を学んだのはいい思い出だ。
やがて脳のキャパシティ限界の知識と鍛え抜かれた肉体を得た赦影は燐と行動を共にする。
しかし、赦影には足りなかった。
自分の意思とは関係無く人ひとりの、場合によっては幾人もの人の人生を変えてしまう覚悟が。信条に賭した矜持が。
プライベートでは優しかった燐は依頼を受けると狂ったように書類通り仕事をこなす。
寸分の違い無く、確実に。
結果、初めて行なった二人での依頼は共同とは言い難いものとなる。
竦み、腰を抜かし、奥歯をガチガチと鳴らす赦影に燐の言い放った一言が既視感の出どころだった。
『先に家に行ってるぞ』
仕事を終えたその時の燐は半泣きの赦影に、哀れみとは違う心持ちで作った微笑みを見せた。
その時の背中が、今の彼女の背中に重なって見える。
どくん、と妙に大きく聞こえた自分の鼓動。
同時に濁流よりも溢れる二人で過ごした記憶が赦影の全身を駆け巡る。
およそ普通とは言えない世界に身を置き、互いを支え合った日々の記憶。
僅か五秒にも満たない間の走馬灯。
それらは赦影に己が矜持を示せと訴えているようだった。
「…燐、もしもこの先で僕の中に立てた信条を折ったりしたら君はなんて言う?」
自分でも理解出来る声の震え。
本来なら死の恐怖に直面した人間の発する声だ。
燐はそう質されると間髪入れず、
「間違い無く、私はお前を同業者とは認めないだろう。場合によっちゃ、引導を渡すかもな」
歩みを止めても振り向かずに、笑い飛ばしも巫山戯もせず燐は真摯に受け止め返答した。
「だよね…君ならそう言うと思った。うん、ありがとう」
言いながら立ち止まる燐に背中から左腕を回し赦影は抱き着く。
俗に言うあすなろ抱きというものだ。
「どうしたんだ急に。その気にでもなったのか?」
台詞こそ二人の拠点とする小屋であった微笑ましいものだ。
けれど、その台詞は静かな語調で紡がれていた。
赦影の元にいつぞやの直感が再び訪れる。
忌々しくも違う事の無い直感が。
ーー彼女は、燐は僕が何を考えているのか知っているんだ。
意図せず力む左手に燐は両手を優しく添える。
触れる燐の手は確かに震えていた。
細く触れれば折れて仕舞いそうなこの細指で燐は多くの依頼をこなした。謂わば凶器だ。
そんな手が何かに恐れ小刻みに震えている。
ーーあぁ、やめてくれ。そんなに怯えないでくれ。お願いだ。
下唇を強く噛み締め、声にならない願いを貌に映す赦影に、諭すようにして燐は語り出した。
「赦影。お前と共に過ごした時間は…認めるのはムカつくけど、愉しかった」
言い終え、背後で涙を流す赦影に燐は横顔を見せる。
微笑をたたえたその表情からは、一切の悲嘆を感じる事は無い。
「それじゃ、先に逝ってるぞ」
微笑を絶やさずに一縷の涙を流すと、右腕の袖に忍ばせていた薬を呑み込む。
「燐、それは…!」
異常に気付き燐に回していた左腕を解くと、赦影に力無く寄りかかる。そうして流れるまま赦影は床に膝をつくと、そのままの態勢で燐を柔らかく抱き上げる。
「呑んでから二分で死に至る毒薬だ。前に一度、標的に使った事があったよな、アレだ」
「そんな!なんでそんな事!」
燐の服用した薬は全身の筋肉に力が込められなくなり、やがては呼吸すらままならなくなる麻痺性の猛毒。
以前、標的者に使用した時は呼吸困難に陥り息絶えた。
その猛毒を燐は、自ら服用した。
「遅かれ早かれお前に殺されるんだ。そんな事は絶対にさせない。もしそうなれば私は私自身の信条を貫けない」
動かない表情筋でどうにか言い切る燐の頬に落ちる涙。
「何で泣くんだ。お前は自分の信条を貫いたんだ。寧ろ喜べよ」
最早ロクに動かなくなった唇でゆっくりと綴る言葉にまた、赦影は涙を零した。
「喜べるわけ…無いだろう。僕は依頼を全う出来なかったんだ。喜べる筈が無い…!」
やっとの事で絞り出した痩せ我慢に、だが燐は途切れ途切れに繋いだ言葉で赦影の考えを改めさせようとした。
「やっぱり、受けてたんだな。…私が自害するまで追い込んだんだ。それは私を殺した事に他ならない。そうだろう」
その言葉を聞き、ようやく赦影は理解した。
彼女は此の期に及んでまで自分に気を遣ってくれているのだと。
結局、どれだけ相手を追い込んだとて相手が自ら命を断てば、赦影が殺した事にはならない。
だと言うのに、そうだと言うのにも関わらず燐は『信条を貫いた』と言い切ったのだ。
「あぁ、そうだね。確かにそうだ」
左手で拳を作り強く握りしめる。
己の情けなさと不甲斐なさに憤慨したわけでは無い。燐の感じているだろう無念に絆されたわけでも無い。
心から敬服する彼女と同じ信条を授かりながら結局、その生を全うするのその日まで貫く事が出来なかった事に憤懣しているのだ。
「(そんなに怒るな。死に水を取られる私が安心して先に逝け無いじゃ無いか)」
聞き取れる限界の声で紡ぐ燐の言葉に、握った拳を解く赦影。
「そうだね、ごめん。…あ、ほら、外を見てみなよ。空が、綺麗だ」
けれども、目線を外に送る事はない。
虚しいどころか滑稽に聞こえる空元気に燐は遅々(ちち)とした口の動きで応える。
声は出ていない。否、出す事が出来ない現状に、それでも伝えたい事があるのか残された力全てを振り絞り動かした。
【お前は間違っていない。だからじ…】
途端にピタリと口の動きが止まる。
それはつまり、彼女はもう長くは無い事と同義である。
「燐!君は僕に何で言おうとしたんだ⁉︎お願いだ…!最後まで伝えてくれ!」
抱き上げている燐を、酷と分かりながらも揺さぶる事しか出来ない赦影は己の愚かさを呪った。
何故、二日前に電話を取ったのか。
どうして、彼女に確認する前に依頼を受けてしまったのか。
「くそッ!くそッ、くそッ、くそッ!くそォォォ!ごめんよ燐!僕が、僕が浅はかだったばっかりに!」
ピクリともせず、彼女そのものの重さを両腕に感じながら赦影は言葉を荒げる。
刹那、動かない筈の瞳が微かに動いた。
「あぁ…ああああ!」
赦影は解って仕舞った。
十年間共に過ごした日々で身につけたアイコンタクトで理解出来て仕舞ったのだ。
【自分の事をもう、赦してやれよ】
「…んでだ、何でだよ燐!君は僕のせいで命を断ったんだぞ!なのに、どうして僕を責めないんだ!」
赦影がどれだけ質そうとも以降、燐の瞳が動く事は無かった。
ただ、頭がカクンと無機質に傾くだけだ。
その貌に橙色の光が射す。
「何とか言ってくれ…。そんな、陽みたいな貌をしないでくれ!」
何を言おうとも、強く抱きしめても、燐はその体温ですら応えてくれはしない。
「解った、解ったよ燐。僕はもう絶対に違わない。君から貰った信条を死ぬまで貫いてみせる。だから、そっちに行ったら陽と一緒に夕陽を見よう。この世界では出来なかった、普通の暮らしをそっちではしよう」
声を押し殺して語った赦影の頬には、一滴の涙も無く、今はただ、夕陽だけが存在を主張している。
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ある日から裏世界にこんな噂が流れた。
『夕暮れ時にしか依頼は出来ないが、どんなに残酷な内容だろうと違わずこなす男の暗殺者がいるらしい』と。
曰く、標的を生きたまま開腹してくれと依頼すると所々に血が付いたDVDと真っ赤に染まった布に包まれた人の肺が送られて来た。
曰く、標的を凍死させてくれと依頼すると業務用冷蔵庫が送られ、中を見るとそこには苦悶に歪む貌をした標的が氷漬けにされていた。
鮮やかな手際と依頼書に文字通り寸分違わず行われる事から、いつしかその暗殺者は《違わずの誓い》と呼ばれる。
だが、どうしても裏世界の人間にも解らないところがあった。
依頼は夕暮れ時にしか受理しない事だ。
狼男のようなものなのでは?と言う突拍子も無いものから、モチベーションの問題なんだろう?と言った投げっぱなしなものまであった。
その男が受けている裏世界での評価は高いが故に、依頼は定期的に送られて来る。
が、当の本人は評価の事など一切気にはせず、黙々と依頼をこなして行った。
彼にとって重要なのは、一人の少女との約束と一人の女性との誓い。ただ、それだけだ。
「陽、燐、僕は罪滅ぼしをして来るよ」
そう言うと男はコンクリート造りのたもとを改築した部屋を後にする。
太陽は彼方に半ばまで沈み、世界は橙色へと染まる。
罪滅ぼしと嘯き、終わる事の無い贖罪を己に課した男は罪を重ねに橙色の空を一瞥すると世界に溶けて行った。
如何でしたでしょうか。
もう眠くて(現在23:30)頭が回りません。
この物語は色々初めて尽くしだったので、自信はありませんが、面白いと感じて頂けたなら幸いです。
それではその内、連載の方でお会いしましょう。