前編
『八奈結び商店街を歩いてみれば』は http://ncode.syosetu.com/n4518cg/ にて公開中。
『ミス・アンダーソンの安穏なる日々』現在公開一時中断で、今秋新作とともに再公開予定です。
暑いんだか寒いんだかで、季節感がすっかりどこかに行ってしまったものの、とりあえず春になってはや幾日。
先週まで居座った雨雲も今はすっかり消えうせて、大阪の町はようやく春らしい陽気に恵まれていた。八奈結び商店街のほど近くを流れる間知川も、のどかな朝日を受けてちらちらと輝いていた。朝早くの人少ない河川敷に、ウォーキングする影がひとつ。
(あー、久しぶりによぉ晴れたなぁ。なんや汗かくくらいや)
よく転ぶことでご近所さんでは有名な女子高生、なずなである。
学校が休みの彼女は、ダイエットを兼ねて朝河川敷をウォーキングすることにしていた。衣替えをしていて去年の春服に袖を通したとき、全身的にキツくなっていたのがそのきっかけであった。去年は普通に着られたのになぜ……というのは愚問で、やれグ○ンカルビーやら、やれ肉パフェやら、やれチョコレートピザやら、お年玉パワーで友達と流行のグルメを食べ歩いたからに他ならない。このままではイカン! と一念発起、早朝の静かな時間にウォーキングを始めたのである(本当はジョギングをしたが最初の三日で挫折したのである)。
さすがに雨が降っているとどうにもならないのでここ数日は室内で筋トレに勤しむばかりだったが、ここにきて麗らかな陽気が戻ってきたので踏み出す一歩も軽やかだ。それに今日は、他に楽しみもある。
(朝ドラ、いよいよ最終週やもんなぁ……! あーもう、どうなってまうんやろ……!)
河川敷を橋から橋まで歩き終えて帰宅すると、丁度朝のお楽しみ連続テレビ小説の時間になるのだ。今期は大正時代の生活をモチーフに描かれた作品で、なんとも浪漫な感じがお茶の間に好評である。なずなもそのひとりで、普段は録画して学校から帰ってきてから観るのだが、今は春休みなのでリアルタイムで視聴できるのだ。
(なんか最後の最後にひと波乱ありそうな感じやけど……最初の方の回想シーンとかも入ってきてるし、どう絡むんやろ)
物語はヒロインの幼少期から始まってその半生を追いかける定番のパターンで、どうも冒頭の辺りがクライマックスに影響してきそうな展開なのだった。というわけで、あれやこれやと妄想を膨らませながら若草茂る河川敷を歩いていく――と、当然のごとく、
「わわ!!」
ずっこけた。
前方不注意で、道に転がっていた何物かにものの見事に足を引っ掛けてしまった。そのまま地面とキス……するのはなんとか免れたものの、思い切りこけてしまった。度重なる転倒を経てダメージを減らすテクニックこそ向上するも、肝心の転倒を避けられたことはただの一度もない。
「うう……またやってもた……」
起き上がりながら、学校名入りのあずき色ジャージをパタパタと払う。ついでに、誰かに目撃されていなかったかキョロキョロ辺りを見回して確認する。幸いにも、人っ子一人いなかった。なずなはほーっと胸を撫で下ろす。いい歳してあちこちでずっこけることは、何気にコンプレックスなのである。
と、そこでようやく自分が躓いたものに視線が行った。ずれた眼鏡をきちんと正してよくよく見てみると――女の子がひとり、倒れていた。
「えっ?! うそ、ごめん、大丈夫??! 平気??!」
なずなはパニックになりながら、ともかく女の子の傍に寄った。女の子はうつぶせに倒れていて、どうもずっとそうしていた様子がある。上の空でこんな目立つ存在に気づかなかった自分を責めながら、なずなはそっと彼女を仰向けに起こした。
「ん……」
瞼は閉じられていたが朝日が顔に射すのを感じたのだろう、女の子は少し眉間を寄せた。どうも目立った外傷はない。やや頬がやつれているように見受けられる以外は、健康体なようだ。
しかし、それ以上に目を引くのは、その容姿の秀麗さである。目を閉じていて、気を失っている状態でも、目鼻立ちのうつくしさやキメ細やかな肌、手入れの行き届いた黒髪がその容貌を輝かせている。絵本の中の白雪姫が出てきた、と言っても通りそうなその姿に、なずなは一瞬我を忘れて見入ってしまった。
(ハッ!! アカンアカン、そんな場合やなかった!!)
なずなはぶんぶん頭を振り邪念を払うと、ジャージのポケットに入れていたスマートフォンをあたふたと取り出した。ともかく、この女の子を病院に連れて行って具合を見てもらう必要がある。が、いかんせん救急車など呼んだこともないので勝手がわからず、つい混乱が口からこぼれる。
「えぇっと、一一〇……は、警察やんな? 一一九? で、ええんやっけ……と、とりあえず掛けてみよ――」
と、画面をタップしようとしたところで、右手の手首が突然掴まれた。驚いて、キャッと小さな悲鳴を上げてスマートフォンを取り落としてしまう。左手が咄嗟に追いかけると同時に、
「でんわ、かけんといて……!」
か細い声がして、なずなは目を瞬いた。
ハッと思い至って視線をやると、女の子が目を醒まして彼女の方をじっと見ている。女の子の双眸は日本人には見慣れない碧眼で、長いまつげが一層浮世離れした印象を与えていた。
またも呆けてしまったなずなをよそに、女の子は息も絶え絶えに訴える。
「ちょっと、おなか空いた、だけやから……もんだい、ないから……」
「え、で、でも……」
女の子の必死な様相に、なずなは戸惑ってしまう。力を使い果たしたのか、女の子はまた気を失ったようで、なずなの手首を掴んだ手もだらんとしだれ落ちた。
(ど、どないしよう……! 救急車呼ぶなって、そんな……このままにはしとかれへんし…!)
展開に追いつけずショートしそうななずなだったが、そのときピンと頭にひらめきが訪れた。どうも、それ以外の道は考えられない――彼女は意を決して、女の子が痛くないように苦心しながらも負ぶさり、ある場所を目指して急いで歩き出した。
転ばないようにかつてない集中力で進みながら、その頭の片隅でひとつの疑問が持ち上がる。
(この子……どっかで見たことある気がするんやけど、何でやろ?)
+++
「ほんで、なず、これどないするつもりや……?」
「え、えぇーっとぉー……あ、あはは……」
ギン、と睨みつけられて返す言葉もなく、カウンター席に腰掛けるなずなは苦笑いでごまかし明後日の方向を見た。
場所は、八奈結び商店街の一画にあるうどん屋。そしてなずなにガンつけたのは、主人である繁雄だ。人相の悪いことで定評のある繁雄の睨みはレーザー光線並みの鋭さを有するが、それもすぐに緩まる。彼は、はぁ、とため息をついて、カウンターの中から客席のひとつに視線を移した。と同時に、
「おかわり!」
と、元気のいい声が響く。
まだ開店していない店内のテーブル席にひとり座っているのは、なずなが河川敷でみつけたあの女の子だ。彼女はなずなに負ぶさられてうどん屋につくや否や、その出汁の香ばしい匂いを嗅ぎ取ってすぐさま覚醒した。そして、なずなから事情を聞いた繁雄がかけうどんを差し出すと、猛烈なスピードでかきこみ、瞬く間に完食した……とともにおかわりを要求したのだった。そこからもう幾度となく「おかわり!」が繰り返されている。その勢いときたらましく疾風怒濤。なずなが彼女を連れてきてからまだ三十分しか経ってないが、テーブル上には空の容器ががざっと三十以上重ねられている。椀子そばならぬ椀子うどん(ただし器はどんぶり)状態だ。
が、カウンターの中から繁雄は動かない。女の子はいつまで経ってもうどんが追加されないのでもう一度要求しようと口を開いたところで、
「もうしまいや」
繁雄が先に釘を刺した。
「ええっ! なんで!?」とは女の子の抗議だ。「うちまだおなか空いてるのに!」
「そんだけ食ってまだ入るんか!! どないな胃袋してんねん!!」
思わず声を荒げた繁雄だが、年下相手に大人気ないと思い直し(といっても、彼もなずなと同い年なので十分子どもなのだが)、深く息を吐いて気を落ち着けてから説明する。
「昨日の晩に仕込んだ分、もう出前で注文入ってる分しか残ってへんのや。勘弁してくれ」
「ぶー……おいしかったのに……」
女の子は、その秀麗な顔を子ども相応に膨らして見せた。その様子は愛らしく、繁雄もなずなもお互い苦笑を交し合った。
満腹ではない、とはいえ、食事を摂った女の子の顔色は先ほどまでと比べるまでもなく良好だった。話をするには問題ないだろう――そう判断してなずなは静かに語りかけた。
「体は、大丈夫? ほんま気づかんかったとはいえ、倒れてるところに躓いてまうなんて……ごめんな」
「ああ、どうってことあらへん」女の子は青い瞳に勝気な光を宿して言う。「道端で倒れとるウチの方が悪かったんや。堪忍してな、おねえちゃん」
年上相手にも腰の引けない、堂々とした物言いだった。相手によっては生意気とすらとられかねない態度だが、はっきりと言い切るその姿はなずなの罪悪感を雪ぐだけの力があった。双方の間で了承が取れあったところで、なし崩しに巻き込まれた繁雄が口を挟む。
「ほんで、いったいなんで河川敷なんかに倒れとってん? 家出か?」
女の子がふん、とそっぽを向く。つられて、さらさらとした黒髪が肩口で微かな音を立てた。
「ちゃうわ! 家出とか、そんなかっこ悪いことこのウチがするわけないやろ! ウチの方が見限ったったんや!!」
「やっぱり家出なんやないかい!!」
思わず繁雄は手振りコミで突っ込んだ。が、当の女の子はどこか誇らしげに胸を張るばかりで一向に何も言おうとしない。その頑なな様子に、繁雄の方は何もいわず戸棚に置いてある電話機を手に取った。家出娘の届け先は、警察に限る。その指が一一〇を押そうとするや否や、察知した女の子が慌てて席を立った。
「あかん! 電話は止めて! どこにもかけんといて!!」
「そない言うたかて、いつまでも家出したままやったらおとんもおかんも心配してるで? あとうどんの代金払ってもらわなならん」
「あ、うん、それめっちゃ大事やね……」
なずながテーブルの上の空どんぶりを見ながら呟く。店の一日の売上げが女の子ひとりの空腹にほぼ収まっているのだ。繁雄としては死活問題である。
だが女の子は、
「そんなもん、おらへん」
と、ボソリと呟くと、急に口をひん曲げ不機嫌をあらわにし、ツカツカとカウンターへよっていった。そしてズボンのお尻にあるポケットから長財布を取り出すと、手早く中を開けて札を抜き出し、バン、とカウンターに叩き付ける。
「これでええやろ!!」
「……あのな、千円二千円でどないかなる問題やないねんで……?」
「…!! ま、待ってしげちゃん、これ…!」
呆れ顔の繁雄に、なずなは驚愕の声をかける。訝しげに繁雄がカウンターの机見ると、女の子が退けた手の下から現れたのは――ざっと十人の諭吉であった。
「お、おま…! こんな大金どないしたんや……!
「ウチの金に決まってるやろ! 盗みもなァーんもしてへん、ウチが実力で稼いだ金や!!」
嫌疑の目を向けてくる繁雄となずなを、女の子はフン、と鼻を鳴らしていなした。それから、そそくさと出入り口の方に歩いていく。
「と、言うわけやから、くれぐれもどこにも電話せんといてな。あ、誰かに言うのもアウトやで? また落ち着いたら改めて御礼言いにきますさかい、今日のところはこの辺で……ごちそうさんでした、ほなサイナラ!」
女の子は一方的にまくし立てると、引き戸に手をかけた。
が、彼女が戸を引くより先に、向こうの方からガラガラと開いて、
「シゲー、和希見送ってきたよー」
繁雄・なずなの幼馴染である千十世が現れた。
ヒョロっと背の高いこの少年は、自分の前に立つ女の子に気づくと、しばしじっと眺めた。女の子は千十世の脇から外に出ようとするが、左右に歩を進めども彼が絶妙なタイミングで邪魔をする。更には、千十世が一歩中に入ったため後退せねばならず、店内に逆戻りする有様だった。千十世はすかさず後ろでに戸を引き、見事女の子の逃亡を阻止した。
「千十世、ナイス!」
「ああ、うん、それはいいんだけど」と、繁雄の声にも素っ気ない様子で千十世は言う。「どうしてこんな芸能人がここにいるわけ?」
その言葉に、繁雄となずなは顔を見合わせた。が、当然答が出ないでいるふたりに、千十世が「テレビ点けてよ」と声をかける。繁雄は飲み込めないまま、戸棚からリモコンを取り出して電源スイッチを入れる。
おりしも、朝の連続テレビ小説が終わりを迎えるところだった。前後の流れは不明だが、画面が黄味がかっているのでどうも過去の回想シーンのようだ。そこで、あっ、となずなが声を出した。繁雄はまだわからないでいたが、カメラが切り替わり別の人物が映される――
「改めて聞くけど」
歯を食いしばり悔しそうな顔をして自身を見上げる女の子に、千十世は少し意地悪く微笑みながら尋ねる。
「どうして君みたいな芸能人がここにいるの? ねえ――〝安平あんな〟さん」
テレビの中では女の子――安平あんな扮する少女時代のヒロインが、切なげに母に叫びかけている。
+++
「んーっとぉ、そやったらぁー……あ! わかった! 〝留守番電話〟! やから、〝わ〟やで、美也!」
「〝わ〟……〝ワッフル〟の、〝る〟」
「〝る〟ぅ~!? また〝る〟ぅ~~~~!?」
美也からの〝る〟攻撃に、和希は大仰に頭を振って見せた。
場所は八奈結びからバスで十五分ほど離れた場所にある私鉄の駅。ふたりして改札近くのベンチに並び、しりとりをして遊んでいるのだった。和希が所属するバスケット部主催の遠足があり、その集合場所がここだったのだが、少し早く着いて暇をもてあましているのである。
和希が頭をなんとか、既に着きかけたボキャブラリーの中からなんとか〝る〟のつく言葉を捻り出そうとしていると、バス降り場にもなっているロータリーに一台の車が停まった。
いかにも高級そうなその車から降りてきたのは、すらりとした体躯の青年だった。柔らかな癖毛をきちんと撫で付け、仕立てのいいスーツを身に纏っている。整った顔立ちをしているが目元は鋭く、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。どことなく、都会人、という佇まいである。
和希は青年に全く気づかず脳内辞書を必死でめくっていたが、暇な美也は青年のことをぼーっと見ていた。その視線には頓着せず、青年は改札口の方へ歩き、駅員になにやら尋ねている。
「失礼――この辺りで人が多い場所はどこでしょうか?」
「人が多い……? うーん、まぁ、八奈結び商店街くらいなもんやないですかねぇ」
「それはどちらの方にありますか?」
駅員からおおよその場所を聞き取ると、青年は訛りのない言葉で短く礼を言い、車へときびすを返した。だが、ベンチにいる和希と美也に気がつき、そちらに方向転換をする。
間近に彼が迫ってようやく気がついた和希は、美也の前に庇うようにして立ちはだかった。以前変質者騒動に遭って以来、見知らぬ大人にはちょっと警戒するようになっているのである。
少し張り詰めた空気を察知してか、青年はふたりに近づききる前に足を止めた。
「ああ、少し質問したいだけだからそう構えないで。君たち、〝八奈結び商店街〟の子かな?」
「せやったら、何なん?」
和希が噛み付くように言うが、青年は淡々とした態度を崩さない。スーツの懐に手を差し入れて、何かを取り出し和希と美也の前に差し出す。
それはひとりの女の子を写した写真だった。
「彼女のことを、見かけなかったかな。知っていることがあれば教えてほしい、どんな些細なことでも構わない」
「誰これ? 見たことないで?」
青年から写真を受け取った和希は、しげしげと眺める。写っているのは同い年のようだが、彼女を含む小学校の同級生が束になっても敵わないほどの美少女だ。黒い髪に白い肌、青い瞳がなんともミステリアスで、敵意むき出しにしていた和希もそれを忘れて見ほれるほどだった。
美也がいつの間にか立ち上がり、背伸びをして写真を覗き込んでいる。そしてぽつりと、
「これ、あんなちゃん?」
と口にした。
「美也、知ってるんか?」
「知ってるけど、知らん」
「なんやそれ」
ふたりがそんな会話をしているうちに、青年は和希の手から写真をそっと取って懐にしまった。
「知らないなら結構。どうもありがとう」
彼はそう言って、踵を返し今度こそ車へ戻った。そして乗り込むなり発進し、すぐロータリーからさってしまった。
「なんやねんアレ、感じ悪ゥー」
和希は盛大に唇を尖らせて悪態ついたが、美也は車の去った方をじっと眺めながら呟いた。
「せやけどあの人、嬉しそうやった……あんなちゃんてうちが言うたとき」
「そうか? 最後までムッツリ顔やったやん」
そういいながらベンチに戻ってしりとり再開……しようとしたときに、バスが到着して遠足に行く仲間たちが降りてきた。