ふたりはいつの日も
──明日香は今、何をやっているのだろうか。母さんの元で、しっかりやっているのだろうか。
──もう年も年だから、いい男見つけて彼氏でも作っているのだろうか。どうせなら彼氏の顔を拝んでやりたい。
──今まで通りの明るさを保っているだろうか。俺がいないからって、寂しがったりして泣いていないだろうか。……それはないか。
──あいつはいつも一人で突っ走っては俺を引っ張るようなやつだったからな。ひとりでも大丈夫だろう。
だけど彼女──明日香のことを考えれば考えるほど、彼の目からは涙が溢れ出て枕を濡らす。
今はもう会うこともない、そんな彼女のことを夜な夜な心配しては涙を流す。
これがここ最近の、彼の日常だった。
#
7月も中盤に差し掛かり、夏の気怠さが街を漂い始めた頃。
「あっついな〜」
「そうだねぇ」
二人はいつもの通学路を、二人ならんで駄弁りながら歩いていた。
太陽からは燦々と陽光が降り注がれ、一人はカッターシャツの胸元を少し開けバタバタと動かし風を送る。
もう一人は夏のせいで蒸れている髪が気になったようで、手持ちのゴムで髪をひとつに結っていた。
今もなおカッターの胸元を扇ぎながら自らの息を吹きかけているのは、背丈175センチ程の中肉中背である男子高校生・磯貝徹。
スポーツそこそこ勉学は少し得意な程度の、特に特徴のない一般的な高校生だ。
そんな徹の横を歩く、髪を結び終わり今度は鞄から電池式の小型扇風機で顔に風を浴び始めたのは身長が160センチ程度の女子高生・磯貝明日香である。
スポーツが割りかし得意だがその分勉強が出来ない、運動神経が徹より少し高く頭が徹より少し悪いプラマイゼロな比較的普通の女子高生。
二人は苗字から察することも出来るように、血の繋がった兄妹である。
兄の徹が18歳で高校三年、妹の明日香が16歳で高校一年。
学年こそただの兄妹であるため違うが、通う学校は一緒のためこうして毎日同じ道を並んで歩いていた。
「なんでこんなに暑いのかなぁお兄ちゃん」
「そりゃ、夏だからだろ」
「……まぁそうだよね〜」
他愛もない会話をしながら、今日も二人は周りを歩く他の通学最中の生徒たちを気にも留めずに学校へと向かった。
やがて同時に校門を抜けそのまま二人は昇降口へ。
この学校の昇降口は全学年の生徒が一斉に使用しているため、登校時と下校時はとにかく人混みが凄い。
「く……ッ、明日香……俺の手は絶対離すなよォ!」
「う、うん……ッ! この手はもう、絶対離さない!」
『…………』
どんな非常時でもこの兄妹の絆は断ち切れないだろうな、とつい立ち止まってしまった生徒たちは二人を見て思う。
それは本人たちもそうらしく、徹が「俺たちの絆は──」と言い明日香が「永遠だよ!」と続ける。
そんな三文芝居を見終わった生徒たちは、呆れ返った様子で各々の下駄箱へと歩き出す。
一汗かいた徹と明日香は、改めて他の生徒たちに鬱陶しがられようとも昇降口のど真ん中で口を開く。
「それじゃあな明日香。また帰りな」
「なに言ってるのお兄ちゃん。今日はお弁当なしで食堂で済ませるんでしょ? 一緒に食べよっ」
「……まぁ、明日香がそう言うんならそれでもいいけど」
「え、嫌なのお兄ちゃん……?」
「そッ、そんなことは決して全くないぞ!? 俺は明日香のことがずっと好きだ、だから一緒に昼食だって当然摂る!」
「私も大好きだよ! うん、それじゃあまたお昼に食堂でねお兄ちゃん!」
「あぁ、それじゃあな明日香!」
「うん、それじゃあねお兄ちゃん!」
「あぁ、それじゃあな明日香!」
「うん、それじゃあねお兄ちゃん!」
「あぁ、それじゃあな明日──」
『──早くどけ!!』
二人が惚気た会話を昇降口のど真ん中で繰り広げているせいで先へ行けない生徒らは、話を聞きながら皆心の中でそう思った。
30人近くの人間の熱すぎる視線を浴びてか、徹と明日香は最後に別れを互いに告げると名残惜しそうに各自の昇降口へと消える。
明日香は辛そうな表情で。
徹も辛さを噛み締めた苦しい表情で。
二人は重い足取りのままそれぞれ自分の教室へと足を動かしたのだった。
「──お兄ぃちゃぁん!」
「うをっ、と。なんだ明日香か」
昼休みの時間、徹は約束通り食堂に来ていた。
場所取りも完璧で、校舎の外に設置された学校の敷地外に広がる自然を一望することの出来るテラスの最高の席を取っている。
そんな徹の背後から聴き慣れた明日香の声が聴こえると同時、重い衝撃が背中を襲う。
すぐにそれが明日香の抱きつきによるものだと分かると、軽く反応し彼女を引き剥がした。
軽々とした反応をされた妹の明日香は、頬をプクーと膨らませると無言のまま徹の前にある机へ何かを叩きつける。
チャリン
「……えーと、明日香さん。一緒に食券買いに行きましょうよ?」
「お兄ちゃんいってらっしゃい♪」
「いつもよりもいいテンションで言われると傷つくゥ!」
満面の笑みで訴えかけて来た明日香に徹が抗えるわけもなく、机の上の小銭を手に取ると勢いのまま走っていった。
透明なガラス扉へ綺麗に衝突した情けない兄の姿を見て、でも明日香は何処か微笑ましそうに頬を緩める。
それでこそ私のお兄ちゃん、と言わんばかりの表情だった。
顔面をさすりながら食券機の前に立って、徹は思案するような表情を作る。
無論、昼食をどうしようかで悩んでいるのだ。
妹の元まで戻って訊きに帰るのは今の状況では厳しく、尚且つ徹の兄としての尊厳が廃るような気がした。
だから敢えてここは、生まれてからずっと一緒にいた明日香の食べたそうなものを予想する。
「んーと、麺類は醤油ラーメン塩ラーメン豚骨ラーメン辛口ラーメン激辛ラーメン……今にはピッタシのざるそばだってあるな、たぬきうどんだって讃岐うどんだってある。……豊富だな麺類だけでも」
改めてこの学校の食堂のハイレベルさに驚きつつも、飯類もざっと見渡し頭の中で検討した。
幼い頃に明日香本人から聞いたことを、徹は頭の中で思い返している。
両親と四人で仲良く買い物の途中に寄った飲食店で、明日香がふと言ったことだ。
『私お蕎麦好きなんだ〜。ご飯よりも主食ならパンも抜いてざるそば食べる〜』
丁度今日のような暑い日のことで、立ち寄った蕎麦屋で妹が言ったことである。
ざるそばをたらふく食べた明日香が一日中ずっと上機嫌だったのを徹は今でも覚えていた。
「よし、んじゃざるそばだな。……さて俺は──」
小銭を投入しざるそばの食券を一枚買うと、次に自分がなにを食べようかと一瞬首を捻る。
だが特に考える必要もないな、と思いすぐさま直感で押したキムチチャーハンの食券を手にしてカウンターまで歩き出した。
「おかえりお兄ちゃ〜ん……って、なんでこんな暑い日にチャーハンなの」
明日香の目の前にあるのは、涼しさを何処からか醸し出す夏の風物詩とも言えるざるそば。
それとは対照的に、出来たてであることを示す湯気が立ち込めそこにキムチの赤色が点々と刻み込まれているキムチチャーハン。
その夏の天敵とでも言えようそれが徹の目の前に置かれたのを見て、明日香は思わず口を開いていた。
正直なんでこれを頼んだのかよく分からなかったため徹は適当に笑い流して席に腰を落ち着ける。
やがてチャーハンを睨みつけていると腹が減ってきたのを感じて、明日香とともに昼食を開始した。
「…………」
「…………」
『おい、めっちゃ静かだぞ』
『食事中にだけ騒いでくれればいいものを……』
『ただでさえ暑いのに余計熱いのがなぁ』
『でもま、ああいうカップルがいるから学校も賑やかなんじゃない?』
「おいそこォ、俺たちはカップルじゃないぞ!」
「お兄ちゃん落ち着いてキムチ飛んでる!」
食事中だから目的通り食事に勤しんでいただけなのに何故こうも言われなきゃいけないのか、徹にそれは理解出来ない。
最後の一言にだけはつい反射的に反論してしまった。明日香が宥めてくれなかったら、今頃徹はキムチを吐き散らしながら胸の内も吐き散らしていただろう。
自分の軽率な行動を反省しながら、また徹は食事へと戻った。
#
時間は経ち、朝のような騒がしさが昇降口に戻り始めた放課後。
兄の徹は人が多すぎてイライラしながらも何とか波から抜け出すと、少し歩いて校門の前で立ち止まった。
時にはズボンから携帯を取り出し画面を無意味に覗き、時には外の暑さに溜め息を吐いたりして時間を潰す。
やがてもう何回目かも分からないが、やることもないためまた昇降口に視線をやった。
「……遅いなぁ明日香のやつ」
徹は今、校門前で妹の明日香を待っている。
それは当然一緒に帰るからであり、学校終わりの日課として二人の中では既に決定事項で昼休みの別れ際にもさり気なく確認を取ってあった。
だから忘れていることなんてないだろうが、中々明日香がやってこないことに少しばかり徹は疑問を抱く。
当たり前だ。
唯一無二の妹が約束を放置して他事に集中している。それは構わない。
だが約束の場所にどんな理由もなく来ないのは、兄として心配でしかなかった。
「……ま、まさか」
──男!?
そんな懸念が徹の頭を過る。
勿論明日香だってもう16でいい年頃だし少し低めの身長が好印象だし持ち前の艶々な髪が綺麗だし愛らしい顔立ちがキュートだしそれとは対照的に少し大人びた体つきがまた素晴らしい。そんなことは徹にも分かっている。
しかし何故か、徹の頭の中には拭い切れない寂しさが残った。
妹が男に取られるというものがこんなにも辛いことなんだ。
兄である徹は、それを改めて思い知った。
「別に、兄ちゃんは妹を縛ったりなんかしないから気にしないよ。元気でな明日香」
「ん、私がどうかした?」
「…………んぁッ!?」
唐突に横から顔を出してきた妹に、自分が口に出していたことを思い返しつい驚きの声を上げる。
でも徹は心の何処かで安心していた、俺の元から離れないでよかった、と。
ちょっと前から横にいたけど、一体どんな失礼なこと想像してたの? と明日香は徹に半目を作り問うてくる。
頬に汗が伝うのを感じながら、はははと適当に笑い飛ばし徹は「さぁ帰ろうぞ妹よ!」と意気揚々感を出して言った。
「むぅ……まぁいっか。それじゃあ帰ろー!」
どうにか詮索を諦めてくれた様子の妹を見て、ドッと溜まった疲れに重い息を吐くと先に走り出す明日香の後を追う。
二人は喋りながらも着々と帰路に就き、やがて家まで後100メートル程の所にまで来る。
家に帰ればまた楽しく夕食を摂り、そしてリビングで駄弁ったり片方の部屋で夜な夜な語らったり。そんな想像がこの兄妹には出来るだろう。
だが、現状は違った。
「ただいまー……」
「ただいまぁ……」
…………
家の玄関を開け二人は帰宅を告げるも、家の中から返事が返って来ることはない。
それも当然で、徹と明日香の両親は共働きでありいつも帰りは夜遅かった。
そんな日常茶飯事を気にすることもなく徹は玄関で靴を脱ぎ、明日香も玄関の鍵を締めるとリビングへと駆け出す。
「……」
徹はリビングへ一足先に向かった妹を横目に、着替えも兼ねて自室へと向かった。
取り留めて何かあるわけでもない普通な仕様の部屋。
四角形の部屋の隅に設置してある机の上に鞄と携帯を置き、引いた椅子の背もたれに上着をかける。
ベッドの上に制服を脱ぎ捨てると、そこに置いてあった部屋着に袖を通した。
ラフな格好になった徹は、椅子に腰掛けると机の上の携帯を手に取り電源を入れる。
「……」
明かりの入った画面には、メールが数件きていることが表示された。
特に何も考えずに、徹はボーッとした様子でメール画面を開きメッセージを見る。
ーーー
差出人 父さん
件名
本文
母さん今日は遅いらしいからよろしくな
ーーー
「……了解」
短く返事だけ返信した。
このような父親からのメールは頻繁であり、自分の帰りが遅いことや母親のことなどを長男である徹に伝言役として伝える。たまに明日香や徹のことを気遣うようなメールも寄越すが、そういうのを見るたびに徹はイラっとした。
そういえばあと数件きてたな、と未開封のメールを見て思い出すと一番新しいものを開く。
ーーー
差出人 明日香
件名
本文
おほほー
ーーー
「ナンダコレ」
明日香からのメールであったことに驚くとともによく分からん内容で徹は苦笑いを浮かべた。
だがやり切れない気持ちが溜まっていたせいか、呑気なメールを見て徹の胸中は少し晴れる。
次の未開封であるメールに画面を移すと、今度は「えへへー」と書いてあった。
その次のには「うふふー」、その次には「いひひー」。
最後の……正確には一番初めのメールには、当然「あははー」という本文が書いてある。
「ホントなんなんだよこれ……。ったく、早速問いただしてやる」
メールが来た時刻を見ると、だいたい徹が明日香にいるのかも分からない彼氏についてのことを懸念していた時間だった。
少し前からいたのだからそれが出来てもおかしくないな、と頭を唸らしていた自分の姿が見られていたことを実感し赤面。
けれどもそんなメールのおかげで少しホッとした様子で徹はリビングへと足を向けた。
時刻は19時を回った頃。
明日香が今日も疲れたのかリビングのソファで無防備に寝ているのを多少気にしながらも、兄の徹は家族のために晩飯を調理していた。
この家族で料理が出来るのは母親と徹だけであり、しかしその母親が仕事で帰りが遅くなるという。
だから今日は徹が腕を鳴らしているのだ。
「……なんか、ここ最近俺が作ること多くなってきたな」
母親の帰りが遅いのは今日に始まったことではない。
かれこれ二ヶ月前ぐらいから仕事の都合で帰りが遅くなることが多くなってきていた。
まぁ仕事で遅くなる分には仕方のないことだし第一その働きで得た金で自分たちは生活しているのだ。
そう思い面倒臭さはあるものの、徹は溜め息を吐き今日も料理に励む。
やがて19時半になり晩飯作りも終盤を迎えた頃、玄関で施錠が開けられる音がする。父親が帰宅したのだ。
その音に反応するように、眠りほうけていた明日香も体を起こす。
眠たげな目を数度こすってから、明日香はテレビを点けながらリビングの扉を開けた父親に声をかける。
「お父さんおかえり〜」
「あぁ明日香か、ただいま」
磯貝家の大黒柱である父親・磯貝進はやつれた表情でそう声を返した。
父親の顔を一瞥すると徹はすぐに料理へと戻る。それを受けた父親も徹の後ろ姿を見て何故か口元を緩めた。
そして父が着替えを済ませ部屋着になった頃丁度晩飯も完成し、徹は四人分の皿にオカズやらを盛る。
一つは母親の分のため台に残しておき、残り三人分を二回に分けて食卓へ運んだ。
「やっと出来たのお兄ちゃん、もうお腹空きすぎて凄いんだよ〜」
「なにが凄いんだよ」
明日香の変な物言いに苦笑しながらツッコミを入れると、席に座れと促し自らも席に着く。
テレビをほうけた様子で眺めていた父親も、その光景を見て食卓へと向かう。
「いただきます」
「いただきま〜す」
「いただきます」
やがて挨拶を済ませると、三人は食事を開始したのだった。
「それじゃあ私は寝ようかな〜、なんかもう疲れちゃった」
時計の針は午後10時を指し、風呂も上がり後はもう寝るだけとなった時間。
頭をドライヤーで乾かし首にかけたタオルで額を拭っている明日香は、もう寝ると徹に声をかけ「ばいば〜い」と告げリビングから消えた。
そんなリビング。テレビだけが無意味に点けられている物静かな空間には徹と父親の進の二人きりだ。
特別仲の悪いということもないが、今日は徹からちょっとした話があるため少し空気が重い。
ソファに腰掛け内容を理解しているのかも分からないような目でテレビを見つめている父親。
その横に、徹は重苦しい腰を下ろす。
父親は徹から話があることは承知であるため、話しかけられるのを待っている状態である。
徹もその考えを察している様子で、少しの間父親の疲れの溜まった横顔を眺めてからゆっくり口を開いた。
「離婚の話は本当なの、父さん」
「…………」
切り出された重い単語に、分かってはいたものの返事のしにくさを悟った父親はしばらく口を閉ざす。
だが横を向き徹の真剣な表情を伺うと、またテレビの方へ視線を戻した。
「……」
「離婚の話は本当だ。もう前から決まってる」
徹が目を伏せたと同時に父親が発したその言葉に、思わず視線を父親へと投げ返す。
改めて分かり切っていたことを聞いた徹は、今更ながらに辛さを堪えられなかった。
磯貝進とその妻である磯貝佳菜子は離婚することを決めている。
それはずっと前から決まっていて、一ヶ月前徹にも父親の口から告げられていた。
元々は仲の良かった二人だが、仕事の都合で中々顔を合わせる時間が短くなっていきそれが現状に繋がる。
顔を合わせられない相手のために何故自分が仕事をしているのか。その考えはやがてただ自分のために仕事をしようという考えに変わる。
それが原因でたまに口論になることさえあった。
子供が寝静まった後に行われていたことだが、それをふと目を覚ましてリビングへと向かおうとした徹は知っている。
その喧嘩のことを父親に言ったら離婚のことを告げられた。当初は離婚のことを直前まで知らせるつもりは無かったようだ。
「離婚したら、明日香は母さんのとこで俺は父さんのとこだったよな」
「……あぁ」
徹は事実の確認だけをするために父親を残していた。しかしそれだけでは何故か足らず、離婚後のことを聞き始める。
「それさ、俺を母さんのとこに出来ないかな。父さんとなら安心して過ごせると思うんだよ」
「……あぁ、そうか」
母親のそのコトを知っていたため、徹は明日香を父親といさせたいと提案した。
まだ父さんなら静かだからだ。
「……でもダメだな、それは。明日香ももう16だ、そんな年頃の娘が父親といたいわけがない」
「そういうことじゃないだろ、母さんがああなんだから俺が一緒にいるべきなんだろ」
つい怒りの募った気持ちで徹は父親に反論する。
父親の言っていることは全て口先だけの言葉だと徹は思っているからだ。明日香に対する父親の本当の気持ちが、今の徹は聞きたかった。
「……最初は二人とも俺の元にいさせる話になってた。けどあいつはそれを拒んだ。だから片方は行かせないといけない、だが同性なら一緒にいても大丈夫だろう」
「……身勝手だな母親ながら」
父親の言いたいことが何と無く分かった気はするが、しかしそれでも本音を告げていないことも徹には分かっている。
けれども親も親らしく、子供に感情を吐露するとは考えられない。
そう改めて思い、徹は意を決した思いで話をつける。
「けど、一回母さんと話してくれ。俺は別に母さんの心配をしてるわけでもないし父さんの心配をしてるわけでもない。ただ明日香が普通に暮らしていられればそれでいい。だから、明日香第一で考えてみてくれ」
「……わかったよ」
しばらく顔を伏せていた父親だったが、話の終わりが見えてきたことを察して徹の言葉に返事を返した。
父親にも父親なりに思うところがある。それは徹にも分かっていた。
しかしそれでも子供に過酷を強いるのは親としてどうなんだ、と徹は口には出さないが常に思っている。その親に養われて生きてきたわけだから、勿論ハッキリとは言えないが。
やがて徹は話が終わった様子でソファから腰を持ち上げると、特に挨拶を交わすこともなくリビングの戸に手を掛ける。
「……変わらないな、徹も」
去り際に聞こえた、父親の自嘲混じりのその言葉が徹の耳に入った。
一拍置いて徹も、何処か自嘲混じりに返事をする。
「あぁ、昔っから俺は俺だよ」
そして扉に向けたままだった視線を伏せると、ドアノブを捻りリビングを後にした。
それから特にその話を父親とすることもなく、ただ楽しく明日香との日々を送った徹。
一ヶ月が経ち夏休みに入った8月12日、磯貝家は離婚し磯貝進と磯貝徹家を出ていった。
#
──見上げているのは白い天井だった。
清潔感のある部屋の中は、今は水滴の落ちる音だけが静かに響いている。
視線を外に投げれば、芝生の上で楽しく遊んでいる子供の姿があったり賑やかに話し込んでいる人の姿もあった。
ベッドの隣の台にはお土産だろう果物がある。
「……俺は、なにしてんだろう」
針の射し込まれたガーゼで止められている腕を狭い視界の中で眺めながら、昔のことに思いを馳せた。
しかし彼の記憶はない。
事故で失ってしまったのだ、その事故以前の記憶を。
楽しかったということだけは覚えている。それは記憶とは別だからだ。
ずっと会いたかった人がいたはずなのに、今はもう相手のことさえ思い出せない。
離れ離れになってから毎日のように思っていたはずなのに、あの頃の平穏を取り戻したいと。
けれどもどんな毎日だったのか、どんな平穏だったのかも分からない彼にはそれを求めることは出来なかった。
「……誰だっけなー、あの子」
やがて外から戸をノックする音が聞こえ、視界の端で誰かが入ってくるのを捉える。
男だ。いや正確に言えば、父親だった。
彼の記憶不慮は不幸なもので、どうでもいいことは覚えていても楽しくて脳に強烈に残っていたことは逆に忘れてしまう。
その分謎の悲しみが込み上げてくるが、やはりそれが何処から来るものなのか彼には思い当たらない。
「先生によると、大学が始まるまでには完治するらしい。まぁ怪我自体は深刻なものじゃなかったからな」
「……」
「ああ、勉強も頑張ってたみたいだから進学に支障もない。推薦が取れたらしいから」
「……」
確かに勉強を頑張っていた記憶は残っていた。何かのために必死になって勉強していたからだ。
昔の彼には何か目標があったみたいだが、今の彼がそれを思い出すこともない。
それと同時、何故か彼の中で『そんな話を聞きたいんじゃない』という気持ちが生まれる。
もっと大事な、大事な人に関する話が聞きたかった。
「……それじゃあ俺は仕事があるから帰るよ。また明日な──徹」
だが父親はその大切な人の話を切り出すこともなく、重苦しく椅子から立つと部屋を後にする。
その後ろ姿を見届けたあと、彼は再び綺麗な白天井を見上げた。
特に何かあるわけでもない。
ただ何もない真っ白だ。
けれどもそれが無性に悲しくて、彼は思い出せない過去を思って静かに泣いた。
本当は後日談まで本編に入っていたのですが、文字数が多すぎるかなと思ったのであえてカットしました
後味悪いなぁとか自分でも思いましたが、でもこれはこれでありかなとも思いました
とりあえず最終的には最高ではないにしろハッピーエンドが待ってます、はいキーワードの再会です
その再会がどんな風なものなのか
それは読者様のご想像にお任せしたいと思います