第七章 第二話
「ほら、離しなさい!」
「やっ!」
別宅に戻ったラルヴァを待っていたのは、二階から聞こえるドタバタという足音と、女二人の叫び声だった。
「……何なんだ、一体」
せっかく気合を入れて仕事を終え、早めに帰ってきたというのに……何となくラルヴァはそんな期待を裏切られたような気分に陥りながらも、階段を上がる。
「一体、何をやって……おぉ?」
「おうじさま! おうじさま!」
ラルヴァが二階に顔を出した途端、キリアが走ってきてラルヴァの後ろに隠れる。
完全に不意を突かれたラルヴァが背中に張り付いたキリアをどうしようかと考えていると……廊下の向こう側から息を切らせたベルが走ってきた。
よほど走り回ったのだろう。
その額には汗が浮いており、息はもう絶え絶えと言った有様である。
ベルという名の侍女はそろそろ初老が近づいてきている。
その恰幅の良い体型と言い……彼女は運動するのにあまり向いていなかったのだ。
「あ、お、王子。
その、子に……言って、やって下さ、いな」
「……まぁ、落ち着け。ベル」
ベルという名の侍女は、酸素欠乏症寸前の表情で何かを言おうとする。
だが、ラルヴァは呼吸するだけで一苦労しているような彼女から無理矢理情報を聞きだそうとするほど、時間に困っていなかった。
ゆっくりとベルの呼吸が落ち着くのを待つ。
そんなラルヴァの背中に隠れていたキリアは、年老いた侍女が迫ってきたことにより、彼の背中に必死でしがみついて離れようともしない。
……よほど嫌なことでもされていたのだろうか?
それでも、『鮮血』の二つ名を持つキリアが、ベルを殺していないのは……「食べ物をくれる味方」だと思っているからなのだろう。
(……その程度の理性は、あるみたいだな)
何となくその事実にホッとするラルヴァ。
こうやって社会は敵だらけではないと教え込んでいけば「このキリアという名の少女でも、社会活動が営めるのではないか?」などとラルヴァは楽観的に考えていた。
……だけど、それは甘い夢物語でしかなかった。
「この、子。何処から拾ってきたのか、ネズミの仔みたいなのを握り締めて放さないんです。
もう腐っているのに……」
「……ネズミ、の、仔?」
その言葉がラルヴァの頭のどこかに引っかかった。
何故かラルヴァは直感的に……『ソレ』が最悪の……聞くべきでない言葉だと分かってしまう。
だけど、理性はそうは考えない。
──彼の頭脳は、その最悪の直感を信じることが出来ない。
……何故ならば、人間という生き物は知らない事象を判断することができないから。
嫌な予感を感じながらも、『ソレ』を知ろうとしてしまう。
だからこそ……
「キリア、ソレを見せてみろ」
……そう、ラルヴァは言ってしまった。
「……ん」
そして、キリアの手が開かれる。
……そこには、手のひらに収まるくらいの、小さな小さな生き物の死体があった。
既に干からびてしまっているソレは……毛が生えている様子もなく、哺乳類らしき皮膚に包まれていた。
褐色のその死体は、半分くらいが頭でもう半分くらいは胴体というアンバランスな造形をしていて、頭はまだ目も鼻も形作られておらず、その小さな胴体からは四本の足と……長い紐が伸びており……
「……っ」
その動物の死体を見た瞬間、ラルヴァは何か言葉を出そうと口を開く。
──だが、彼の口から放たれた音は……言葉にならなかった。
唇は凍りついたように動かない。
吐き出す息すら肺の中に残っていないようで、彼の意思に反して彼の身体は声というものを発してはくれなかった。
ただ……言葉は出せなかったし、彼女から答えを聞き出すことが出来なかったというのに。
何故か、それが『何か』ということだけは……ラルヴァには理解出来た。
──理解出来てしまっていた。
「ほら、この子ったら……どこで拾ってきたのやら……」
ラルヴァの背後で、年配の侍女が聞き分けのない子供相手に困っているような声を上げているのを、彼は何処か遠い世界から響いている言葉のように聞いていた。
「……済まん。ベル。
今日は……帰ってくれ」
ラルヴァは動かない口を無理矢理開き……血を吐くような思いでその一言を吐き出した。
が、突然そう言われてもベルは納得できる筈もなく異論を口にする。
「ですが、王子」
「……頼む」
「……分かりましたよ、王子。でも、ソレ、捨てさせておいて下さいね」
結局、ベルからは王子の顔は見えなかった。
だけどその声色が……本当に懇願するような声だと気付いた彼女は、少しだけ唇を尖らせた様子を見せたものの、結局、そんな言葉を残して別宅から去って行く。
その足音が聞こえなくなるまで、ラルヴァは動かない。
「……おうじさま?」
俯いて固まったままのラルヴァを不思議そうに覗き込んだキリアが尋ねてきても……彼は何も言えなかった。
だけど、永久に何も言わない訳にはいかない。
結局……百回ほど呼吸をしてようやく冷静さを取り戻したラルヴァは、最大限の意思を振り絞ることで何とかその唇を開く。
「……これは?」
声を出したラルヴァ自身が、その声が自分の声だということを信じられなかった。
それほど、その声は低く、掠れていて……
「……こども」
そんなラルヴァの声を聞いたキリアは……王子が不機嫌だということに気付いたのか、ビクッと肩を竦め……恐々といった表情でそう呟いた。
その答えを聞いたラルヴァは目を閉じ……息を大きく吸って、吐く。
恐らく……それはラルヴァ自身が予想していた最悪の答えで……だからこそ、冷静さを保つには、必死で呼吸を整えるしかなかったのだ。
ラルヴァは必死にその手の震えを押し殺していた。
その所為か……爪の食い込んだ手のひらは、いつの間にか血で真っ赤に染まっていた。
そうして冷静さを取り戻すと、知りたいその答えを導き出すために、目を開いてキリアを正面から見据える。
「……なぜ、こんなものを持っている?」
「だって、こどもいたら、おうじさまといっしょ」
ラルヴァが何故怒っているかすら分からないのだろう。
拗ねたようなキリアの回答はあまりにも無邪気なものだった。
だからこそラルヴァは、その答えを聞いても……すぐには意味を理解できなかった。
彼の脳裏にあるのは、腹を縦に切り裂かれたレイシアの遺体。
そして、原形さえ留めていなかったヴォルクス大臣の残骸。
その無残な親子の死と……キリアの無邪気なその言葉。
王子の感情は、その二つを一致させることを拒み続けていた。
……だが、理性の方はそうはいかない。
王子としての英才教育を受け、合理主義と常に最悪の事態を想定するように教育された彼の頭脳はあっさりと、ヴォルクス大臣がキリアをラルヴァの懐刀であると知りながらも、彼女を狙った理由を推測してしまう。
……恐らく彼は、実の娘の死因を調べようとして、その身体から『コレ』がなくなっていることに気付いたのだろう。
だからこそ、『鮮血』のキリアが娘を殺したと確信し……傭兵を使って戦いを挑んだ。
結果は、返り討ちだったが。
「ずっといっしょ。
……だから、こども」
(もしかして……)
上目遣いで王子を見上げるキリアの笑顔を見た瞬間、ラルヴァはふと思い出してしまった。
……レイシアが同じようなことを言っていたのを。
──王子様が迎えに来てくれる。
──女の子ならば誰でも見る夢でしょう?
確か、彼女が言っていたのはそんな言葉だったか。
(……なんだ。
ただそれだけの話なのか)
それを思い出した瞬間、ラルヴァはようやく何故こんなことになったのかを理解する。
……『鮮血』のキリアという名の殺人鬼は、単に社会生活に馴染めなかっただけの、夢も希望も持っていたただ一人の『女の子』に過ぎず……
ラルヴァは、そのあまりの社会常識の無さに、そのあまりの無邪気さに……彼女を懐いてくる動物程度にしか考えていなかった。
そして、彼女に対する認識の過ちが故に、ラルヴァは彼女に一般常識を教えることを一切せず、ただの武器として扱い、ただ懐いてくる動物のように扱い……
多少の暴走は許容範囲として放置していた。
──キリアはただ一人の女の子として、彼に褒めてもらう・認めてもらうことを望んでいただけなのに、その合図に気付こうともせず──
そして、そんなラルヴァ自身の愚かさが……結局、我が子とその母と、右腕と言っても問題ない忠臣を失う結果になったということに。
「……は、ははっ」
その事実に気付いたラルヴァは、思わず笑ってしまう。
その笑いは、酷く乾いた自嘲の笑みで……。
自分の愚かさと情けなさに、涙も怒りも湧かず……本当にただ笑うしか出来なかった。
「こんな馬鹿が……王になろうと思っていたんだからな」
その時点で、ラルヴァは自分のあまりの愚かさに嫌気が差し、そんな自分が王になれる筈もないと考えてしまう。
そう考えた瞬間……何故かラルヴァの心は不意に軽くなった。
(結局、王位ってのは俺じゃ役者不足だったってことだな)
「おうじさま?」
ラルヴァの顔が急に明るくなったのに気付いたのだろう。
キリアが笑顔を見せながら彼の顔色を覗き込んでくる。
「は、はは。そうだな。
……お前を何とかしないとな」
見上げてくるキリアの頬を撫でながら、ラルヴァは笑う。
「……もうおこってない?」
「ああ。怒ってないぞ」
キリアが首を傾げて少しだけ不安げに尋ねてくるのに笑顔で頷きながら、ラルヴァはその額に口付ける。
……いや、本当はラルヴァには分かっていた。
『鮮血』の二つ名を持ち、これだけの数の人間を殺めてきたキリアと、殺人鬼を野に放ち、自らの野望の為に暗殺を命じてきた自分。
──二人にはもう……未来がないという事実に。
だけど……
(その時までの間は……良い夢を見せてやらなきゃ、な)
死刑台に露と消える筈だった殺人鬼を世に放ち、彼女に夢を見させた元凶として……ラルヴァはせめてそれくらいはしてやろうと、決意する。
尤も、そんな言い訳がなかったとしても……
……キリアという最悪の凶器を懐中に忍ばせていた王位という理由を失ったというのに、それでもキリアを手放せない。
いや、それどころか人生最期の女性として彼女を選んだ時点で……ラルヴァの中ではキリアがどれだけ重要な存在になっていたのかが分かる。
尤も、ラルヴァ自身はソレに気付いていないのだが。
「……子供が、欲しいのか?」
「ん。ほしい。
こども、いれば……おうじさまとずっといっしょ」
ラルヴァの問いかけに、彼の服の裾を握ったままで頷くキリア。
もう片手には、未だにその……命になれなかった肉の塊を握り締めている。
「大丈夫だ。俺がお前に子供をやる。
だから……それはもう要らないだろう?」
「……こども、くれる?」
「ああ。やるぞ。
これからは、お前が欲しがっているもの、全部、な」
そう囁いて、ラルヴァは少女の頬に唇を寄せる。
キリアが彼の言葉を理解出来たかどうかは分からない。
ただ、自分の手に持っている『ソレ』がもう必要ないということだけは分かったのだろう。
キリアはゆっくりと手の力を抜き……重力に引かれた『ソレ』は床へと転がり落ちる。
「……ずっといっしょ?」
「ああ。一緒だ。
最期まで……ずっと、な」
「……ん」
ラルヴァはそう優しく話しかけ、その顎に手を置くと……キリアに顔を近づける。
王子が何をするつもりかを知っていたキリアは特に抵抗しない。
そのまま王子に身体を任せたまま、その唇を許す。
……だけど。
ラルヴァはそれだけで止まるつもりはなかった。
キリアの唇を何度も啄ばみながら、彼女の腰に手を回し……少しずつ身体を寄せて。
「……あっ?」
そのままベッドに倒れこむ。
「……なに、するの?」
いきなりベッドに押し倒されたキリアは、自分が何をされるのか全く分かってなかった。
ただ、唇からの刺激で上気した顔を傾け、自らを押し倒した人間をジッと見つめて問いかける。
「子供が欲しいんだろう?」
「……うん。ずっといっしょ」
「なら、俺に任せておけ」
「……うんっ」
息のかかる距離で囁かれたラルヴァの言葉に、嬉しそうに頷くキリア。
……それが合図になった。
キリアにとって、それは全く未知の体験で、感じたこともない自分の感情に混乱していたし、身体中のあちこちから感じる刺激や痛みに涙を浮かべることもあった。
だけど……
……それでも、王子の下からキリアが逃げ出すことはなかったのだった。




