第一章 第二話
ベルガの塔とは、王宮の外れにある高い塔である。
数十年前、ランシア王国で叛乱を起こした王子ベルガを幽閉するために造られた塔であることから、その名がつけられている。
その建設理由故に頂点には貴賓室が設けられており、塔上部は貴族や富裕層が、地上部とほぼ同じ深さの地下には貧困層の犯罪者や凶悪犯などを投獄できる設計になっていた。
その薄暗い塔の階段をラルヴァ王子とバルデス将軍は降りている。
警護の兵士は簡単に説得できた。ラルヴァは何だかんだ言って王子である。過去にも囚人を使って『遊んだ』経緯があったので、ことは素早い。
バルデスの貫禄とヴォルクスの少しばかりの心包みもあって、警護の兵士は彼らを素直に通してくれたのだ。
「ったく。面倒な構造だな。登るの大変だぞ、これ」
薄暗い階段を一歩一歩、梁や階段の軋む音を立てて降りながら、ラルヴァは思わずぼやいていた。
事実、塔の内部は螺旋状の階段でかなり勾配がきつかった。
その上、一仕事を終えて登るのを考えると……王位など放棄して帰りたくなるほど地下は深い。
「王子。そうは言っても、これは脱走防止の役割も果たしていますので」
用心のためと鎧を着込んだバルデス将軍はガチャガチャと金属音を立てながら、それでも重さを感じた様子もなく平然とした顔でそう告げる。
もう四十を超える彼だが、未だに体力の衰えは感じられない。
……逆に体力に自信のないヴォルクス大臣は、上で事務処理を担っている。
キリアほどの罪人になると公開処刑が必要となるので、囚人で似たような体格の女が居ないかを捜しているのだ。
もし見つからないならば、適当な女を金で買えとラルヴァは伝えてあるので、抜かりはないだろう。
「……此処か。酷い匂いだな」
額に汗が浮くほど歩き、ようやくキリアという名の凶悪犯の牢獄へと辿りついたラルヴァは、その室内から漂ってくる匂いに顔を顰め唾を吐き捨てていた
その部屋からは彼の言葉通り、本当に酷い匂いが漂っていたのだ。
具体的に言うならば、糞尿と食料が腐った刺激臭を混ぜ合わせたような。
……まるで、動物を檻の中に長い間閉じ込めたような、そんな匂いが。
「その、厳重に縛ってありまして、要は、その、彼女は、色々と垂れ流し状態ですので」
「何だ、それは?
確か囚人といっても便所くらい」
「ここに運び込まれてから、既に三名ほど犠牲者が出ておりますので。
捕縛を解くことすら、もう……」
「ふん。何を恐れているんだ?
それは味方にすると頼もしいということだろう?」
バルデス将軍がラルヴァ王子を思いとどまらせようとした最後の言葉は、王子の笑みに蹴散らされた。
彼にとって全ての人間は王子である自分に従うのであり、自らが傷つけられるとは微塵も思っていない。
だからこそ、彼はこれほど逸話を聞いてなお、『鮮血』のキリアを脅威とすら感じていないのだ。
そのまま鍵を開くラルヴァ。
「……コイツか」
五歩もあるけば壁に突き当たる広さの、石畳の牢の中には一人の少女が転がっていた。
少女……と言えるのだろうか?
彼女は血と汚物で汚れた囚人服の上から拘束具をつけられていて、一瞥しただけでは性別を確認できる要素は一つもない。
ただ、囚人服と拘束具で顔はおろか肌すら殆ど見えないながらも、その身体はどう見てもラルヴァ王子よりも遥かに細く……人一人殺せそうにない少女のソレだった。
拘束具からはみ出している、銀色だったのだろうその髪は、洗って居ない上に血に塗れ一部どす黒く変色している。
その挙句、彼女の顔全体が、特に口の周りが固まった血で真っ黒に汚れていた。
……拘束具をつけられた状態で、看守を噛み殺したのだろうその血の跡は、バルデス将軍の顔を顰めさせるのに十分過ぎた。
だけど、その少女が自らに対しての脅威とすら感じて居ないラルヴァ王子は、意にも介さずキリアに近づく。
「お前がキリアか?
酷い格好だな」
「……」
そんなラルヴァ王子の問いかけに返って来たのは、無言の殺意だった。
拘束具で目隠しまでされているキリアには、ラルヴァの顔も表情も見えないのだ。
脅え切って警戒した野獣が近づく者全てに対して殺意を向けるのは至極当然だった。
だが、王子はその殺意に全く気付かず、少女の元へと歩み寄る。
「……ぅううううぅぅぅ」
無雑作に近づいてきた敵に対し、まるで犬が警戒しているかのように少女はその咽喉を鳴らして王子を威嚇し始める。
それは、言葉というものを何処かに忘れてしまったかのような有様だった。
だが、殺意なんてものを全く感じた経験のないラルヴァはその期に及んでもキリアの殺意に全く気付かず、髪をそっと撫でていた。
……まるで買ったばかりの猟犬を撫でるかのように。
「王子っ! あまり近づくとっ!」
「……バルデス。少し黙っていろ」
そんな無防備な王子をバルデス将軍は必死で制しようと叫ぶ。
腰から剣を抜いて、キリアが何かをしようとすれば、即座に割り込む体勢を取って。
だけど、キリアは無防備に近づいてきた王子に対して何かをしようとはしなかった。
彼女にとって人間とは食料を奪うための障害であり、憎悪を持って襲ってくる敵なのだ。
剣を向けられたり、蹴られたり、石を投げられたりという反応は何度も経験していたキリアだが、無防備に触れられたことなど彼女にとっては初めての経験だった。
だからこそ戸惑い、とっくに射程内に入っている筈の、無防備に急所を晒している筈のラルヴァ王子の頚動脈に噛みつけない。
「なぁ、キリア。
此処から出たくないか?」
「……ここ、から、でる?」
ラルヴァ王子の言葉はあくまで優しげだった。
静かに優しくキリアに触れながら……その汚物と血に塗れたキリアを汚いものとも化け物とも扱わず、宝物を扱うように触れながら、囁く。
キリアは酷く子供っぽい口調で首を傾げる。
──王子の言葉が全く理解出来ていないかのように。
事実、彼女はその育ちを考えると……あまりコミュニケーション能力に長けているとは言い難かった。
「ああ。表に出て、俺のために働いてくれないか?」
「はたらく?
……でも、わたし、はたらいたことなんて……」
優しく触れられる温もりに戸惑いながら、キリアは王子の言葉に弱々しく反論する。
少なくともそんな彼女の様子を見て、彼女を数百人も殺した殺人鬼と思う人間はいないだろう。
事実、剣を手にしていたバルデス将軍は目を何度も擦りながら、必死に目の前の光景が現実のものかどうかを確認していた。
「いや、お前に出来ることをすれば良いんだ。
代わりに食べ物と服と、自由を与えてやる。
どうだ? 俺のために働くか?」
「……じゆう?」
その言葉の響きに、首を傾げるキリア。
幼い頃に社会的束縛から解放された彼女にとって……自由という言葉は概念すら理解できない言葉だった。
「……たべもの、くれるなら、いく」
「そうか。なら、それを外さないとな」
ラルヴァ王子は自らの手が汚れるのにも構わず、キリアの拘束具を外す。
まずは目隠しを外し、それから腕、脚と順番に。
「ちっ。拘束が長くて……弱ってやがるな、これ」
その手足の余りの細さと冷たさに、ラルヴァは触れながら舌打ちする。
彼にとって、キリアとは愛しい武器に他ならず……汚れも一切気にしていない。
汚物まみれの太股の拘束具ですら、全く躊躇いもせずに外せるのはそういう訳だ。
私利私欲が強すぎ、努力を怠る癖があるとは言え、ラルヴァ王子は自身の得になる存在には最高の恩寵を向ける傾向があった。
次期国王として望み薄になったこの状況でも、武勲を誇るバルデス将軍や領地経営に長けたヴォルクス大臣が彼を見放さないのは、そういうところに惹かれているからでもある。
事実、兵士たちや王国民の評判が悪いとは言え、一度でも彼と利が絡んだことのある人間の間ではラルヴァ王子を支持する者は多い。
……尤も、彼によって一度でも被害を受けた人間もまた、問答無用でラスカル王子を支持しているのだが。
「……まぶし」
目隠しを突然外されたキリアは、薄暗い地下牢で仄かに輝いているランプの光に、その銀の瞳を細める。
拘束具の下から出てきたキリアの銀色の瞳は、顔全体から言うと大きく……まるで幼子のような印象を受ける。
事実、『鮮血』の二つ名を持っているキリアだが、ラルヴァが彼女の活動履歴を調べ上げた限り……彼女の年齢は未だに十五・六の筈である。
だと言うのに、こうして間で見た彼女の印象は、どう見ても一〇を僅かに超える程度の幼女にしか見えないのだ。
(……こんなヤツで、大丈夫なのか?)
その印象に……ラルヴァ王子は僅かに眉を顰める。
このキリアという少女は余りにも弱々しく、ラルヴァ自身に相応しい「鋭い剣」だという確信が持てなかったのだ。
「あ、ぁあ、ぁあああ!」
逆に、拘束具から解き放たれたキリアがその眩しさの向こう側に見つけた存在は……まるで金色に輝く神様だった。
優しく触れられ、冷たく凍えていた手を暖かく包んでくれ……記憶にないほど昔……両親が亡くなってから初めて優しげな微笑を向けてくれるその存在は……追われ殺し奪い喰らうというだけの残酷な社会に生きてきた彼女にとっては本当に初めて出会う神様のような存在で。
ただその感動を、衝撃を彼女は言葉に紡ごうと必死に唇を開き、だけどその心境を表す語彙を思いつかず、不明瞭な言葉を漏らすだけだった。
「……おうじさま?」
結局、幼いままで精神的な成長が止まったキリアが、目の前の存在を言い表す言葉は幼い頃に母親が語ってくれた童話の……ただその一言だけだった。
「ふん。お前ほどの犯罪者でも俺の顔くらいは知っているようだな」
キリアが呟いた言葉に、ラルヴァは一つ頷くと名乗る。
「俺の名はラルヴァ=ランシア。
この国の第一位王位継承者だ」
「……らるわ? おいけい?」
だが、そんな難しい言葉は、社会で生活した経験のないキリアには理解出来なかった。
首を傾げる彼女を見て、ラルヴァは少しだけ苛立たしげに舌打ちすると……
「……分からないのか?
なら別に王子と呼んでも構わない」
「おうじ、さま」
ラルヴァの許可を受け、キリアは彼の名を呼んだ。
その声は、まるで何かに縋るような……幼子が親を呼ぶようなトーンだったのだが、子供を持った経験のないラルヴァには、そんな感想を抱ける筈もない。
ラルヴァはそんなことは考えもせず、キリアの目を見ながら……
「……俺と共に来い、キリア」
と言って、彼女に手を差し伸べたのだった。
「……うん」
ラルヴァ王子の手を取りながら、頷くキリア。
血と汚れに塗れているというのに、酷く無邪気な顔で。
目の前に立つ神様のような存在が、彼女に一体何を求めているのかすら知らないままに。
こうして『鮮血』という名の殺人鬼は、またしても野に放たれたのである。
「……流石は、我が王子」
その一部始終を見ていたバルデスは、剣を鞘に納めると自然と膝を付いて恭しく一礼を行う。
そして同時に自らの選択の正しさに胸を張りたくなっていた。
如何にラスカル王子が品行方正で法に長けていても、殺人鬼と言われる相手をこうも簡単に服従させることなど出来ないだろう。
「これぞ王の資質だ」と、少し離れた位置で二人を見つめながらバルデス将軍は確信していた。
「行くぞ、バルデス。何をやっている」
「はっ! 王子!」
キリアの手を引いて牢を出ようとするラルヴァ王子の言葉に、バルデス将軍は敬礼を一つすると、鎧を鳴らしながらその後に続いたのである。