序章
大陸の中央部、山脈に囲われた場所にランシア王国は存在した。
人口凡そ三万人のそれほど大きくない王国だったが、それなりに安定した王国である。
政治制度は絶対王政。
王族・貴族・そして庶民である農民と工民、商民からなる身分制度はそれほど厳密ではないものの、身分の違いによって役割は大きく違っていた。
王族は政治を主導し、貴族は行政と国防・治安維持を担い、それ以外の庶民は生産活動に従事する。
ランシア王国は周辺諸国に比べても、それほど豊かな国とは言いがたかったが、それなりに平和だった。
そんなランシア王国に一人の少女が生を受けた。
彼女の不幸は、幼くして両親が亡くなり……生活の術を突然失ったことだ。
小さな小競り合いは多少あれど、大きな戦など百年ほど経験したこともない平和な小国とは言え、まだ飢饉の年には餓死者が出る時代。
両親を失った小さな少女が生きていくなど、身体を売るか盗みをするか、物乞いとして生きるか。そのいずれかしかあり得ない。
……だが、その少女は身体を売るには幼すぎ、物乞いをしようにも貨幣の存在すら理解できなかった。
当然の結果として、少女は生きて行くために食べ物を盗むことを選ぶこととなる。
けれど、小国であるランシア王国はとても裕福とは言えず、幼子が盗みだけで生きていけるほど優しい社会ではなかったのだ。
……彼女はすぐに追われ、まともな食事にありつけない日々を送ることとなった。
だけど、少女にとっては幸運なことに、そしてランシア王国民にとって最悪なことに……その少女には類稀なる才能があったのだ。
──野生動物に匹敵するだけの動体視力と運動能力と反射神経、そして僅かな食べ物を得るために殺人を躊躇わない幼さが。
飢えの極限を迎えた少女は、ただ生きるためだけにその才能を最大限に開花させることで、社会の中で生きる術を得てしまう。
彼女が得た術とは、僅かな食べ物を得るために人を殺し、奪って生きるという……最も安易だが、人間社会を生きる上では最も非効率的な術だった。
──二八七名。
それがその少女が捕らえられるまでの間に殺された、ランシア王国民の総数であり。
その中には治安維持を担当し、身体を鍛え上げていた筈の貴族も八〇名ほど含まれていた。
その少女の名は、キリア。
全身を返り血に染めたその姿から『鮮血』の二つ名で呼ばれ、ランシア王国史上最悪最低の犯罪者として歴史に名を残すことになった、一人の少女である。