第四話 虚もまた真なり
体育祭が行われた後の最初の週末、普段なら遊びに行くという選択肢のない時間の流れのまま過ごす堕落した生活を送るのだが、今日に限っては予定があった。
ある人物に電話をしなければならなかった。友達ではないし、ましてや親族でもない。だが、俺はその人を親以上に慕い、また心を完全に許すことができる人物だ。
俺は勝手に「師匠」と呼んでいるその人は、俺が「どれい」だった頃に知り合い、そこから俺を救ってくれた恩人である。
一部の人たちからは一流のスパイと呼ばれ、また他方では陰でアジア情勢を総括している「アジアのドン」と呼ぶ者もいる。要するに、その人がいれば人々も金も時には一国だって簡単に思い通りに弄ぶことができ得るのだ。
その師匠に救われた身であるゆえに近状報告を定期的しなければならないのだった。
今日ももちろんそのために朝もきちんとした時間に起きたのだ。とはいっても相手はアジアのどこかにいるとはいっても時差を考えると最大約7時間ほど開きがあるので何時にかけようがあまり関係ない。
さて、滅多に使うことのない携帯電話でかけてみた。
トゥルル……トゥルル……トゥルル……トゥルル……トゥルル……トゥルル……
あれ? 出ない……
いつもなら1コールで出るのだが、仕事中かもしくは就寝中か?
しかしスパイという職業上そういうことにあまりルーズになることは仕事に支障をきたすのでないだろか。
とりあえずは切ってもう一度かけなおしてみた。
トゥルル……トゥルル……
『……Hello』
繋がったようだ。
「俺だ。さっき電話に出られなかったようだが、何かあったのか?」
『オレオレ詐欺っていうことぐらい何年も日本を離れていたからって分かりますよ。切りますんで……』
「待ってくれ! 俺だ! 峰が原だ」
『あら、とーる君? ついに詐欺師のアルバイトしてるの?』
「あんたは自分の保護した子どもにそういう疑いをかけるのかよ」
『嘘、嘘。とーる君は優しくていい子でちゅもんね~』
「切るぞ。大体、この電話があんたがしろっていうからやってるんだろ」
『わかってるよ。自分が手塩にかけて育てた子だからね、心配で心配で』
俺のことをどこか子どものように扱っているところが少々癪ではあるが、一応これも報告の1つである。
「今どこにいるんだ?」
『スリジャヤワルダナプラコッテよ』
「ウソだろ。それ言いたかっただけだろ」
『ばれてたか~。今はバンダルスリブガワンにいるの』
「それもウソじゃないのか? ただ2番目に長い首都を言いたかっただけじゃ」
『いや、これは本当だって。ブルネイに仕事に来てるのよ』
「そっか」
師匠の仕事に関しては俺は一切口を出してはいけない決まりになっているのでこれ以上は聞くことはできない。これも俺が今の生活が無事でいられるようにとのご配慮だ。
彼女も実は俺のことを100パーセント信頼しているというわけでもなく、それゆえのこの報告が俺に義務付けられている。
『とーる君のほうはどんな感じ? 友達できた?』
「ああ、たくさんいるよ。この前の体育祭だってクラスのみんなと仲良く30人31脚をしたよ」
『ダウトね。あなたが他人と肩を組んで走っているところなんて想像できないわ。どうせまた1人でいたんでしょ』
「ま、まあ体育祭の話はおいてだな、実は……」
『何よ? とーる君が予定よりも1週間早く私に電話してきたのと関係あるのかしら?』
そうだ――俺は本当は1週間後に連絡する予定だった。だが、そうせざる得ない状況に今、俺は置かれていた。そう自分で認識し、おそらく師匠もそうすべきだと考えたからだ。
どうやって言い出そうかと思案したまま黙ったままでいると向こうから話を振られた。
『もしかして、転校生のこと?』
驚きというよりかはむしろ当然かと納得してしまった。
恐らく師匠のもとに情報が届いているのだろう。まさかとは思うが今までのほんの数分足らずの会話でそれを見切っていたのかもしれない。
いつもなら適当な雑談程度で終わってしまう報告は今回に限って言えば俺のこれからの学園生活に大いに影響していくことになるので、慎重に言葉を選び、発さなければならない。
いつ自分の手に握った携帯が手汗で滑り落ちてもおかしくないほどだった。
「……そうだ。元E班所属No.1004、いや今はエミーリア・ハミル・ユールコレットと名乗っていた彼女についてだ」
『そう、No.1004。あなたの元同僚であり元戦友』
「戦友なんて言い方はよしてくれ」
またもあの時の記憶が脳裏に蘇る。喉が重たくなる感覚だ。
「彼女が御宮山学園に転入してきたのはあんたの差し金か? それとも……」
『いいや、その件についてはとーる君が思っているほど深いものじゃないわ。ただの偶然よ』
「ただの偶然であんなことになるのかよ。」
『この私がそう言ってるんだから信じなさいよ。私を誰だと思っているの?』
「すまなかった。邪推だったよ」
『私は何もしてないわよ。でも、もしかしたら第三者が何かのために仕組んだとも考えられないとは限らないわね。』
「第三者?」
『たとえば、御宮山学園学園長の鬼無里佳とか』
「いや、確かに本人も学園長の厚意で入学を許可されたとは言っていたけれど、それってただのお人好しじゃないのか?」
『とーる君の場合は、私が学園長に頼んで入学させてもらったけど、エミーリアちゃんの時は彼女の独断で決めたといっていい。もちろんあなたが言うとおりただのお人好しとか気まぐれってこともあるけど―― 彼女について私もいまいち掴めてないというか、裏にどんな顔を持っているかはちょっと分かりかねちゃってるの。』
「師匠が分からないことか……」
『私だって分からないことの1つや2つぐらいあるよ』
「なんかさっき言ってた信じなさいって言葉の信用性が弱くなってるよな」
『とにかく、安心しなさい。事態はことさら問題視するほどでもないわ。もちろん状況が変わったらすぐに連絡を入れるし、あなたも何か分かったら早めに教えなさい』
「ああ、そうするよ」
本当に彼女の言葉には安心する。
事態と言ってもまだエミーリアと俺とは会って1週間も満たない。たしかに、俺が警戒しすぎたのかもしれない。
一応、エミーリアとはこれからも接触して師匠の予想の真偽を見出さなせればならないだろう。
ただ俺にはもう1件、師匠に相談しなければならないことがあった。
獅子堂みくについて――
彼女が俺と接触したのは偶然ではないだろう。なぜ、今なのか? 彼女の正体は何なのか? そしてなぜ、獅子堂は御宮山学園にいるのか?
「それと……もう1つだけ報告しなきゃいけないことがある」
『もう1つ? 何かしら? 言っておくけど、思春期特有のの男子高校生の恋愛相談はお断りよ』
「真面目に聞いてくれ。」
後にそのまま続けようとしたが、どうしてか言葉が出ない。無意識に師匠へ報告することを拒んでいるような――というよりは、師匠の意外そうな反応が何より意外だった。
「実はエルマーの妹に会った」
『そんなバカな! エルマーに妹なんているはずないわ! 何かの間違いよ!』
何かの間違いだとどれだけうれしいことか、あんな出会いが間違いだったらどれだけ今が幸せだろうか。考えただけでそれはおこがましくて、贅沢な願いだろうか―― だってこの世に幸せなんてものはないのだから――
その後、俺は一方的ではあったが獅子堂みくとの出会いのときを事細かに報告した。
一体、そんなことをしたところでブルネイにいる師匠に何ができるのかは分からないが、初めて他人にそのことについて口を開くことで心の余裕が欲しかったのだ。今はどうしようもないほどに余裕がなかった。ここ2,3日は挙動もおかしかったことだろう。クラスの人たちの目線がいつもより痛々しかった。
そんなクラスの中に獅子堂の姿はなかった。体育祭後、彼女は学校を欠席し続けている。
獅子堂がもし、体育祭後もひょっこり学校へ登校していたなら、俺はどうかしていたかもしれない。
師匠のリアクションにも違和感を覚えた。俺の話に終始真剣に耳を傾け、そのたびに驚いたように「そう……」と呟いた。
俺の話が全部終わったところで、師匠は「大変なことになったわね」とだけ言い俺の不安感を煽った。
「あんたの反応からすると、これは異常事態と見ていいのだろうな」
『ええ、異常なんてものじゃないぐらいに深刻よ』
果たしてその言葉で今の状況の程度を的確に表せているかどうか疑問ではあるが、師匠の知りえない何かが意図的に動いているのだろう。
『エルマー氏はたぶん半年以内に大規模な計画を行おうとしているわ。これは以前から分かってはいたんだけど、まさかとーる君と接触しようとするなんてね……』
「その計画に俺が関係しているのか?」
『たぶんね。もちろん、それにはそのみくちゃんが本当にエルマー氏の妹であればっていう絶対条件があるけど、まあそれは概ね事実なんでしょうね。なにより彼女に嘘をつくメリットもないし』
師匠がらしくもない「たぶん」なんて言葉を発した。それにその絶対条件も仮定というよりはそうであってほしくないという微塵の願いなのだろう。
『みくちゃんととーる君が接触したのは言うまでもなく、エルマー氏がそうさせたから。エルマー氏はあなたと何らかのコネクトを欲しがっていたのよ。でも、どうしてかって聞かれちゃうと少し自信はないわ。』
「つまり獅子堂は俺とエルマーをつなぐ接点であり、そいつを辿ればエルマーに逆に接触することができるってことだな」
『とーる君。間違ってもそんなことはしないでちょうだい。世界中から指名手配を受けているテロリストのエルマー氏との接触がどれだけあなたにとってリスクの大きいことかは分かっているわよね』
エルマーをテロリストという記号でおさめるのはあまりにも簡単すぎる。彼のいう存在はテロリストなんて言葉がかわいく見えてしまうほど恐ろしく、憎らしい。
「じゃあ今後どうすればいい?」
『何もしないこと。ただそれだけよ。もちろん、みくちゃんの行動は注視してほしいけど、自身の身を第一優先よ』
「分かった。ありがとう」
『礼には及ばないわよ。これが仕事であり、義務であるもの。じゃあ切るわ』
彼女の言葉はどこまでも安心できる。義務だなんてなんと心強いことか。
この15分37秒の間に俺の状況は少しばかりよい流れに乗ってきた気がした。
もちろん、まだまだ解決しなければならない問題は山積している。
ただこの時間で俺は彼女にまた救われてしまったようだ。彼女にはそういう人を助ける力があり、俺はその力によって今があるのだ。
俺の師匠、クリス・ピースとはそういう途方もない、いろいろな意味で化物のような人間だ。