第一話 仰げば青い空
6月某日、本日は我が御宮山学園《おみやまがくえん》 では第42回体育祭が盛大に行われているようだ。
目を瞑りたくなるほど澄んだ眩しい青空の下で、どの生徒もみんないい顔をしている。なんと青春らしいのだろうーー
俺がどうしてこんな風に他人事のように話すのかというと、俺の実はこの高校の生徒じゃないとか、実はただのこの学園の隣人であるとか、そんな話の出鼻を挫くような人物設定ではなく、ただ御宮山学園の生徒であり、さらに俺自信がこの体育祭における競技という競技に参加していないからだで、したくないからだ。
別に運動神経もいいほうだし、身体的には問題ない。だが、それに心がついて来てないのである。
中学校から数えてこれで5回目となる体育祭ではあるが、毎年強い日差しが直接差し込む中でかろうじて涼しい場所を見つけては、そこをその日だけ自分だけの憩いの場所としている。今年は、グランドの隅のおそらく外部から来た人が利用するテントの中でぼーっと過ごしていた。こんな無気力感あふれるオーラを放ちながら過ごしていることを退屈だとは思わないが、時間を浪費しているという自覚はある。
この学園は小学校から高校までが同じ敷地内にあり、およそ校舎も隣接している。グラウンドも高等部の体育祭が行われている大グラウンドとサッカーなどの部活をするための小グラウンドがそれぞれある。
俺は訳あって中学から編入してきたが、だいたい半数近くの生徒が小学校からずっとこの学園の生徒である。高等部には約400人の生徒が在籍していて、県内ではそこそこの進学校として知られているので外部からの受験者も多い。
そんなわけで、こんなに生徒の多い学園の体育祭となると外部から来る人の量もバカにならない。俺を含めたすべての学園の生徒はみな学校指定の体操服を着ているが、おそらく各々のセンスによって選ばれたであろう服を着ている来賓方は本校の生徒の2倍近くいる。保護者だけではなく、地域のほかの高校の生徒もいるだろう。
そんな賑わった雰囲気の中で独りでテントのしたで何もしていない御宮山学園の生徒は言わば浮いた存在なのだろう。あまりの浮きっぷりに誰も話しかけてはこない。
「な〜にしてるの? バカみたいな顔してさ。あんた、今年はずっとテントで見張りでもしてるつもりなの?」
いや、違った。一人いた。
この女、桜萌子《さくらもえこ》は先程いったい小学校からずっとこの学園にいるいわゆる純学園生なのだ。幸か不幸か俺が転入してきた中学1年からずっと同じクラスで、何かにつけては俺に話しかけてくる。
外見だけならそこらの女子より一線を越えているのだが、これといった特徴も特技もない平凡な女子である。
「別に、いいじゃねーか…… こういうもの祭の楽しみ方の一つだろ。それに日差しも強いから日焼けなんかしたらたいへんだろうが」
「いや、よっちゃんさ、祭りは祭りでも前に体育ってのがあるんだから体育っぽいことしないと意味ないじゃん。」
とここにもう1人、俺の本名を完全に無視したあだ名で呼ぶ汗だくになっているロン毛をなびかせた男子生徒がひょこっと現れた。彼は白石優太《しらいしゆうた》いう名前から「優ちゃん」と呼ばれているらしいが、もちろん俺は呼んだことがない。白石は世間でいうお調子者というポジションでこういうイベントには喜んで参加したがるのだ。
「だいたい、あんたがそんな日焼けとか気にするような人じゃないし。どうせ、他校の可愛い女子生徒でも探してたんでしょ」
「確かにこのあたりの女子のレベルってのは高いからな」
「え、よっちゃん、もしかしてナンパとかするつもり? 俺もしたい!」
「残念ながら俺には、そんなことをする勇気もやる気もない。やるなら、食堂のおばちゃんが限界だな」
「すごい人見知りだもんね。でも、よっちゃんってイケメンだからチャンスはあるよ」
「チャンスって何だよ。おばちゃんゲットできるチャンスかよ……てか男に褒められてもなにもうれしくねーよ」
「まあ、あんたの容姿はともかくとして体育祭でずっとテントの中でぼーっとしてる男ってどうよ?」
こいつらとの会話はこんな感じでグダグダと続いたが、やがて2人とも次の競技に出るとか役員の仕事があるとかで10分もしないうちに持ち場に戻っていった。
やがて、夕方になると全プログラムが終了し無事に体育祭が終わった。どうやらみんなはどこのチームが優勝したとかの話をしていたが、自分のチームすらまともに把握していない俺にとってはどうでもいいことだった。
グラウンドにはまだ多くの生徒が残っていたが、そんなことをよそにさっさと更衣を済ませて、学園の正門をくぐった。
俺は基本的に電車通学であるのでラッシュアワーには幾分か慣れている。この日も平日なので、ちょうど都市部の会社から帰ってくるサラリーマンが大勢乗車していた。
学園の最寄駅から自宅までは普通電車で5駅。今日もその普通電車に乗って帰っているので自宅近くの駅までは約20分程かかる。その間は身動きできない電車内でつり下がっている広告でも眺めて時間をつぶす。
いつもそうだった。
自宅からの最寄り駅に着けば10分もかからず、まもなくアパートに着くはずだった……
いつもはこの駅も多くの御宮山学園の生徒が利用する。
しかし、今日に限って言えば体育祭でほぼすべての生徒がいまだに学園内に残っているはずだった。自分だけが学園外にいる言っても過言ではない。
そんな状況下において目の前にはおそらく自分と同じ電車に乗ったであろう御宮山学園の制服を着た女子生徒が一人いた。
俺は彼女を少しばかり凝視してしまった。
ふっとこちらの視線に気づいたのか、目が合うなり体を自分の方に向けてきた。
が、驚いたことに彼女はそのまま無視するのでもなく、「何?」と無言の冷たい目線を送るのでもなく、まっすぐと俺との距離を縮めてきた。
「あなたが峰が原くん?……」
彼女の声には聞き覚えがあった。おそらくこの高校2年になってからだろう。
「そうです。俺は峰が原徹《みねがはらとおる》です。どちら様ですか?」
もしかしたら初対面なのかもしれないのでなるべく丁寧に答えようとした。
そこには女子が、いや、どちらかというと女性というような容姿の御宮山学園の生徒が立っていた。
その圧倒的存在感のある黒髪は夕方の少し冷えた風に揺られるようにサラサラと流れていた。
「あなたと同じクラスの獅子堂みく《ししどうみく》ですが……」
「そうか! それはすまなかった。人の名前を覚えるのは不得意なんだ。本当だ」
語尾には心なしか力がなく、駅構内の雑踏の中に消えてしまうようであった。
しかし、獅子堂は明らかに俺のクラスメイトにも関わらずまるで初対面かのような受け答えといい、嘘丸出しの言い訳に対してかなりご立腹のようだ。
ついには不愛想に「あら、そう……」と適当に受け流された。
するとふと
「峰が原くん、今時間ある?」
と聞かれたので「もちろん」となんとか関係を修復しようと試みた。
獅子堂は俺と横で並ぶようにして歩いた。
ここからは獅子堂が一方的に質問する形で会話をしていたが、内容は実に身のないものだった。そんな会話を数分ぐらいだろうか交わした。
突然、それが終わるとさっきの話に戻った。
「峰が原くんは本当に名前を覚えるのが不得意なのかしら?」
「ごめん…… 嘘だ。興味のない人間の名前を覚えるのが面倒なだけなんだ」
少し言い過ぎたかもしれないが事実だ。
が、ここから急に獅子堂の口調が重くなった。
「それは昔から?」
「あ、ああ……」俺は言葉を詰まらせ「そうだな」と答えた。
「昔ってどのくらい?」
「物心ついたときからだよ。育った環境があんまりよくなかったんだよ」
正直これ以上昔のことを思い出すのは気分が悪かったのだが、獅子堂はお構いなしに質問をぶつける。
「育った環境ね……あんまりいい家族ではなさそうがかんじだけれど」
このあたりから妙な違和感があった。この女何か知っているのか?俺の過去について――
「獅子堂、お前……何が言いたい?」
その問いに衝撃の答えが返ってきた。
「何がって……あなたが今も過去にしばられ続けた『奴隷』であるどうか、それが知りたいの……」
そうだ。幼いころに俺は奴隷だった。「だった」はずだ。
そんなこと知ったところで、所詮は貧相なドキュメンタリーが1本撮れるところだろうに。
「もう一つ問わせてもらう。お前は何者だ?」
間もなくさらなる衝撃が俺を襲った。
「3年前にあなたの大事な人を奪った男の妹よ」
この耳で確かに聞いてしまった。
すっかり忘れていたわけでもないが、自分のことなのに妙に現実味を感じることができずいた。
あれから3年間、その事件があったから今の自分があり、あの過去に背を向け続けている。
「エルマーの妹なのか?……」
「ええ。とはいってもほどんど会ったとこもないわ。今までほとんど電話だけね」
今は口にするだけでも吐き気がするほど鮮明に覚えている名前、そして今でもはっきり目の前に浮かぶその顔。覚えたくなくても、頭から離れない名前に俺は10年以上も苦しめられた。
恐怖すら通り越した不安も感じた。体中が不気味に震えているのが分かる。
乾ききった口で続けた。
「エルマーはお前に俺の監視を命じたのか?」
「まあ、そんなところよ。でもね、実際兄の考えることなんてぜんぜん理解できないのよ。だから、わたしはあんまり乗り気じゃないの。」
「今更なにを……」
「『奴隷』少年によろしく、とは言っていたけど、あんまりあなたに伝えるべきじゃないよね」
「で、結局奴は何が目的なんだ」
「だから……」獅子堂はここで言葉を詰まらせ俯きながら「理解できないんだって……」と呟いた。
「俺は過去と決別するためにここに来た。お願いだから邪魔をしないでくれ」
「私はいっこうに構わないけど、結局は兄は何がしたいのかよ」
初めて足を止め俺を見て言った。
「でも、あなたの願いは残念だけどもうかなわないと思う」
「どうして……」と言いかけた途端に進行方向を変え、「それじゃあね」と言って歩き出した。
その時の彼女は何か気がかりがあるようで、その言葉はあまりに頼りのない別れのあいさつだった。
俺はその背中に声をかける勇気もなく、一度頭を整理して後日ゆっくりとこの件に関して話そうと決心し、前を向き帰ろうとした。
そのとき、そのまま前に進もうとする『奴隷』に向かって獅子堂は呟いた。
「兄から峰が原くんへの伝言、伝えとくね。『運命の歯車は絶えずまわり続けているんだよ。今までも、これからも――』だって……」
この言葉が後の自分にとってどういうことを意味するのか、まだこの時には知りえなかった。