最終巻
神域と呼ばれるに相応しいほどの【神気】に満ち溢れている。
そこに立っているのは人の形をした小次郎と着物姿の女性【狐神】である。
己が神域に呼ばれたことに小次郎は気付いていなかった。戦いの後、一人休んでいたところを呼ばれたのだ。頭の中は鈴の事でいっぱいで、そして、己の弱さを悔やんでいた。
狐神が小次郎と会うのは三度目。その内に甲斐は泣いている場面に出くわした。
なんと弱弱しい姿だこと、と憐憫の視線を向け、その一因に自分も含まれている事を知っている彼女は激しい後悔の念にさいなまれる。
自分の心の平穏と少しでも小次郎の助けになればと、頭を優しく撫でた。
彼女に向けられた目は泣き腫れていた。
はっと息をのむが、彼に伝える事があるのだと自分を叱咤する。
「よくぞ、試練を乗り越えた。すでに貴殿の実力は神と呼ばれるにふさわしい。
これから伝えるのはこれまでの貴殿の苦労に報い、悲しみを和らげる一助になる事を願う」
そう言って彼女は袖から線香のような匂いと金色の煙を放つ香木を取り出した。
◆ ◆ ◆
里の存続をかけた闘いから、何百年も過ぎた。
鈴がいなくなった虚無感からか、あの後すぐに里を出た。
誰にも言わなかったけれど、時宗や寧々、劉石は黙って付いて来てくれた。
皆で色んなところに行った。砂漠を渡ったり、狼の国へと行ったり、南の極寒の地域に住む褐色の肌を持つ耳の長い見た目麗しい部族と交流したり。
砂漠に行ったときは、寧々が干上がって大変だったなぁ。必死に冷たい風を送ったり、常に劉石が石の壁を張り移動に合わせて作り続けたな。
旅を続けるうちに最初に時宗に異変が起きた。その頃の時宗の剣の腕は右に並ぶ者がいないほど極められており、神刀を使う俺と互角に切り結ぶことの出来る唯一の相手だった。
ある日、時宗に一つの神託が下る。それは【憑き神】への道が開けたのだという。それから何十年後、ついに神界へと旅立った。
それに続いて寧々もまた【雪神】へと選ばれ、いなくなった。当時の寧々もまた類稀な力を持っていた。その気になれば、広大な砂漠を凍らせることが出来るほどだ。
残った劉石とともにさらに旅を続けた。思えば、俺たち白尾は全員才能に恵まれていた。その中でも最後まで悩み続けたのは劉石だった。しかし、それは彼が劣っていたということにはならない。単に大器晩成型だったというだけにすぎないのだ。彼もまた【天神】になり、去る前にはその拳一つで山を割る事も出来るようになっていたのだから。
里もあれから変わった。いつしかあそこに住む者は皆妖気を扱えるようになる。それを見計らったかのように何処からともなく人間がやってきた。不思議な術を使う人間だった。だが、この世界を知りひどく戸惑っていた。その様子を見た俺は異世界から来たのだと悟る。
色々と騒動が起こったり、苦労したりしたが、手を取り合い共存の道を選んだ。
妖怪は人間に神の使いとして崇められ、妖怪たちもまた舞台を人間たちにゆずり、闇に消えた。俺たちは陰ながら支える存在となったのだ。
残った俺は御霊山へと戻り、後進の育成に励んでいた。時折、里で暴れ回る師匠を止めに行くこともあるが、楽しい毎日だ。
俺がこの世に居られる時間はあと少しだ。
俺もまた【狐神】として選ばれている。それ引き延ばし続けて、五百年余り。俺に引け目を感じていた【狐神】はそれを許してくれてはいたが、そろそろ限界だ。
最後の日、俺は次代を担う金色に輝く毛を持つ狐を呼びつけていた。
その狐の名は頼光。俺とは違い【八尾の雷狐】という種族だ。百年と少しという短期間で八尾となり、一族の皆からの信頼も厚い。
そして、頼光は見事俺の課した試練を乗り越えてみせた。もっとも、今の頼光の姿は何本も骨が折れ、あちこちが傷だらけで見れたものではない。
「頼光」
「あぁん?」
何の因果か、師匠のような口調で喋る頼光を傍に呼び寄せた。俺は託さなければならない。
「頼光、お前は見事私を打ち破り、時代の長に相応しい力を示した。これからはお前が皆を護るのだ」
「ふん、言われなくてもそうするさ」
ぶっきらぼうだが、頼りがいのある言葉に安どする。
「そうか、ならば言う事はあと一つだ」
「んだよ」
「師匠はお前が止めろ」
それを聞いた頼光はびくりと体を震わせ、硬直する。間を空けた後叫ぶ。
「ちょ、無理無理無理。
おい、逝くな族長!
おい、待て!
俺には銀様を止めるなんて――」
何やらまだまだ頼光が叫んでいるが、この世での為すべき事を為した俺にもう悔いはない。若者の言葉を聞かずに旅立った。頼光ならば喜んで引き受けてくれると信じて。
◆ ◆ ◆
そこは野を越え、山を越え、果てには雲さえも越える。そこからは白い雲と太陽、この世界で最も高い山と云われる原初の山の頂きが微かに見えている。確認する事が出来るのはその場所だけ雲が存在しないからだ。
そのような場所でひと際目立つ存在が何と言っても神々が住まう場所神域である。そこは薄らと辺り一帯に不思議な紋様が浮かび上がり、その上にある剥き出しの大地を木の根が絡み合うように覆っている。木々に囲われた場所の中央部には神域に住むに相応しい者たちが住む居住区がある。神域に住む者たちは元居た場所が各々異なっているため、様々な文化を表す建物が存在する。また、その建物を和風であったり、洋風であったりと表現できるのは偶然ではないだろう。
その中でもひと際混沌としたものがある。周囲には堀と物見櫓。その防備を抜けた先にあるのが様々な様式が入り混じり、それでいて見る者に不快感を与えない不思議な荘厳さがあった。それは一重にこれを作った者の力が表れているからである。
そこに新たに一柱の神が降り立った。
その名を小次郎。狐と人の姿を併せ持つ【狐神】である。
新たな神を出迎えるように、どこからともなく音も立てずに現れる神々。
一人は和服を着て、整った顔立ちをし脇に刀を差す男。一人は白い和服に妖艶さを隠した美女。一人はその肉体こそが鎧であると言わんばかりの大男。
時宗、寧々、劉石。小次郎の現世での仲間たちである。
「遅かったね、小次郎」
「ああ、悪い。遅れた」
柔和な笑みを浮かべて出迎える時宗に向かって、砕けた口調で小次郎は答える。
「本当、いつまで待たせるのかしら?」
「いやぁ、悪かったって」
咎めるような素振りこそみせているものの顔には笑みが浮かんでいる。
黙って頷く劉石もまた笑顔。小次郎を待ち望んでいたのだ。
そして、ここにいない鈴を誰よりも想っていたのは小次郎に他ならない。
あの時、前の狐神は小次郎に告げた。
『これは反魂香。死人を輪廻の輪から呼び寄せる効果をもつ』
『主が願い、想えば、その者を呼び寄せることができる』
『だが、今の主の力では呼ぶに足りん。力を蓄えよ。
そして、神域で想うのだ』
『強く想え、さすれば待ち人は現れる』
あの時の感動は忘れられない。小次郎に一筋の希望の光が差したのであった。
小次郎が袖から取り出した希望。反魂香、輪廻の輪から魂をこの世に呼ぶ。
それは世界の理から外れた行為だ。神域でしか行うことが出来ない。
そして、当時神として相応しい力を持っていた小次郎でも足りない位の力を要求するもの。
この五百年、長く切ない時間だった。
しかし、この瞬間願いが、想いが叶うのだ。
そう思うと手が、足が震えた。
そして、尾の先に灯した小さな火にありったけの力を込める。
すると、香木から懐かしい匂いが漂う。
金色の煙が小次郎たちの頭上で輪となり、クルクルと回転し始める。やがて、その回転から弾かれるように少しずつ煙が分離していく。
元の輪は消え、分離した煙は一か所で塊となった。
その塊は人の形をとり始め……
見覚えのある耳、いつも忙しなく動いていた細長い尻尾、愛らしい笑顔が浮かぶ口元。
そして、元気で明るい声が小次郎の耳に。
「小次郎っ!」
一目散に小次郎の胸元に鈴が飛び込んだ。
それを優しく受け止める。
「お帰り、鈴」
小次郎の瞳に涙が溜まる。だが、間違いなく笑顔が浮かんでいた。
「ただいま!」
こうして、神となった狐とその従僕となった亜神の猫が再び巡り逢う。
これから二人の手は決して離れる事はない。
二人の周りには笑顔だけが満ちていた。




