03 Karma Police
登場人物
須藤江奈……女子高生。
鴇田玖珠……〃
但馬那珂……〃
三浦茅夜……〃
永野紗乃……〃。死体となって発見される。
生籟……警部補。
その他警察関係者多数。
〈北西〉……江奈の上位人格。
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玖珠に背を撫でられ、衰弱した病人めいた顔つきの那珂がティッシュで洟をかんでいる。
紗乃の最期の相貌は、悲痛に引き攣った血塗れのそれだった。
周辺に漂っていた異様な臭気は、紗乃の躰から流れ出た血の臭いだったのだろう。
不謹慎なのは江奈自身でも判っているが、思ったほどに嫌悪感を助長させるような不快な臭いではなかった。
「被害者自身の手に握られていた、」
ここで警部補は言外の意を仄めかすように寸刻口を鎖したが、すぐさま続けて、
「凶器の包丁からは、残念ながら指紋を見つけ出すことが出来ませんでした。刃にも柄にも、被害者本人の血液が満遍なく付着してましてな、あれでは誰の指紋も検出できんでしょう」
警察にとっての有力な証拠が、一つ消えてしまったわけだ。
警部補はそんな落胆ぶりをおくびにも出さず、手帳を懐に収めたのち、初めて机上のコーヒーを手にすると、場にそぐわぬ滑稽な仕種で美味そうに中身を呷った。
「包丁は被害者の手にありましたが、被害者及び現場の状況からいって、明らかに何者かによって無理矢理持たされたものです。あれが本当に自殺だとしたら、剖検の勉強を基礎からやり直す羽目になると、検死の者がぼやいてましたよ。永野さんの死を、自殺であるように見せかけたかったんでしょうな、彼女を殺害した人物は」
警部補のさりげない台詞に、居合わせた各々の視線が交錯した。
まるで映写幕の向こう側の出来事のようだった。
実感が湧かない。
江奈が眼にしたリビングの亡骸は、間違いなく紗乃その人だった。
けれどもあの凝血した海に沈んでいた一個の物体と、昨日までの朗らかな紗乃の笑顔を重ね合わせるのには土台無理がある。
学校生活やその外側での、紗乃との数々の思い出がそれを認めてくれない。
現実感が稀薄になっていく。
那珂の泣き声が虚ろに聞こえるのも、多分そのせいだろう。
……この四人の中に、紗乃を殺した犯人がいる?
隣室からの、互いに囁き交わす捜査官らの声色に、少し変化が現れたようだった。
現場検証に何か収穫でもあったのかも知れない。
「さて、そろそろ皆さんへの質問に移ろうと思うんですが」
「尋問の間違いじゃないの」
長い髪を振り立ててプイと顔を逸らし、茅夜が憎らしげに返す。
辟易気味に眉を上げた警部補は、鼻頭をカリカリと掻いた。
「まあ、心配は無用という奴です。君たちみたいな可愛らしいお嬢さん方に、手荒な真似は一切致しませんよ」
そう言う警部補の一見穏やかそうな風貌には、確かに獲物を追う猛獣じみた凄味は窺われなかった。
寝間着姿の女子高生四人を猥褻な眼で見るでもなく、冷淡な感情を崩すこともない。
そう装っているだけとも考えられるけれど。
「事件発生当時、皆さんは既に二階の各自の寝室に引き取っていたそうですね」
確認を兼ねて警部補は言った。
誰からの応答もない。
「先程皆さんの許可を得て、二階のほうを調べさせて貰いましたが……いやいや正直驚きましたよ。外から見ても立派な住まいだというのは判りましたがね、まさか皆さんを相部屋にする必要がないほど部屋数が充実してるとは」
茅夜が小さく嚏を放った。
返事のつもりだろうか。
紗乃には齢の離れた二人の姉と、それから兄が一人いた。
現在は三人とも家を離れており、ここには父母と紗乃だけで暮らしていた。
この邸宅はまだ上の三人が家にいた頃に建てられたのだそうで、二階のトイレ以外の部屋は全部寝室で、新築当時は夫妻と四人の子供たちに、一部屋ずつ割り当てられていたという。
夫妻は番いで一つの部屋を使用していた。
「……茅夜が、テレビのある部屋がいいと言い出したんです。で、紗乃は自分の部屋を茅夜に譲って、ご両親の部屋に移動しました。あとはわたしたち三人で適当に」
部屋割りはどうやって決めたかの質問に、玖珠が低い声でそう答えた。
主人格の人間がいない以上、自分が話すしかないと思ったのだろう。
以前から紗乃を含めた彼女たち五人組は、万事につけ紗乃・玖珠のどちらかがリーダーシップを執っていた。
休日を利用し、江奈たちを自宅に招いたのも紗乃の提案だった。
「皆さんは、永野紗乃さんと同じ高校に在学している同級生だそうですね。クラスも同じで?」
やはり玖珠が、場を代表して頷いてみせた。
「仲間内の誰かの家に泊まりに行くというのは、これまでにも頻繁にあったんですか?」
「いえ。ここにお邪魔したのも、昨日が初めてでした」
「ほう! それにしても、お互い仲が好いはずの君たちが、寝るときは全員別々の部屋というのは、ちょっとおかしくないですか。敢えて空き部屋を利用する必要もないような気がしますし、もしや皆さん、相部屋になるのが厭だったんじゃありませんか?」
「何言ってんの」
挑発的な口振りの警部補を睨み上げ、茅夜は挑み返すような険しい声を放った。
「違うわよ。あたしたちいつも一緒に行動してるから、休む部屋まで同じにしなくてもいいと思ったの」
「なるほど。そういう逃げ道、いや失敬、考え方もありますな」
警部補に堪えた様子は些かもない。
「人付き合いの減少やら、アイデンティティの喪失がどうのと世間で騒がれ出してから、もう随分経ちますが、そうやって寝室を別個にしないと自己の確立すら困難な時代に、今はなっているのかも知れませんなぁ。ま、軽い人付き合い程度でなら、それも問題ないんでしょうが」
聞く耳持たぬとばかりに茅夜があらぬほうを向いて、フンと息を吐きつけた。
友人の死を、彼女はどう思っているのだろう。
応接室とリビングを結ぶドアが、忙しげに開いた。
制服を着た小柄な警官が一人、警部補の許に歩み寄ってくる。
洟を啜っていた那珂の動きが、呼応するように一瞬止まった。
周りの者に聞かれぬよう、警官は警部補の耳に小声で何か囁いた。
「判った。鑑識に回せ」
顔色を変えずに警部補は言うと、その警官を現場に戻して何事もなかったように一同へ向き直った。
「皆さんがこちらに来たのは、昨日のいつ頃のことですか?」
「……わたしと那珂がここに着いたのは、七時頃です。午後の」
「昨日は金曜日でしたな。授業を終えて一旦自宅に戻ってから、寝泊まりの荷物を持ってこちらにやって来たというわけですか」
「はい。那珂とは家も近いので、一緒に行く約束をしてたんです」
玖珠はそう答え、肩を落として俯く那珂を愛しげに見やった。
仲好し五人組の間でも、玖珠と那珂は幼稚園時代からの親友同士で、江奈の眼から見ても取り分け二人は仲が好かった。
「では、茅夜さんと……えー、須藤江奈さんにお訊きします。いつこちらに到着されたんですかな」
「さあ憶えてないわ」
と、反発心剥き出しに答えたのは茅夜だ。
呆れがちに首を竦める警部補。
「大体の時間帯でいいので、どうか教えて頂けませんかね。参考程度に伺ってるだけなんですから」
「参考にならないわよ。あたし事件とは関係ないし」
茅夜はクールに言い切ったが、警部補の威圧的な顔よりも、向かいに座る玖珠の刺々しい視線に怯んだのか、やがて憤然とした口調で、
「仕方ないでしょ、憶えてないものは憶えてないんだから。あたしが着いたときは玖珠と那珂がもうここにいて、江奈はまだ来てなかった。あたしに言えるのはそれだけよ」
浅い溜め息と共に警部補は江奈に眼を移し、同じ質問を繰り返した。
昨日、江奈は午後八時まで残り数分というところで、この邸宅に辿り着いた。
ほかの三人は既にリビングで――数時間後、心胆を寒からしめる惨劇の舞台となるあのリビングで――各々寛いでおり、招待客の中では自分が最後の到着となった。
江奈が到着時刻を告げたのち、玖珠が、茅夜はその十分ほど前に来たのだと警部補に言い添えた。
不貞腐れた面持ちを外方に向け、茅夜は軽く舌打ちした。
「皆さんはこのお宅に集まって、一体どんなことをなさってたんですか。あー、例えばテレビゲームとか?」
「いえ、ゲーム機はなくて。それにリビングのテレビが、一昨日急に壊れちゃったとかで」
警部補の眼に、懐古的な色調が灯ったように見えた。
「うちのテレビも何年か前に故障しましたよ。いきなり画面がプツッと消えて、それからウンともスンとも言わなくなって。なんの前触れもなく、突然壊れたんです。まあ、えらく年季の入ったブラウン管ではあったんですがね。テレビも映らないとなると、相当退屈なされたんじゃありませんか」
「そうでもないです」
「ああ、ワンセグ観たりとか?」
「いえ、世間話したり、あと本を読んだりして」
「健全ですな。結構なことです。で、食事のほうはここでは摂らなかったんですか?」
「ここで食べました。みんなコンビニのお弁当でしたけど」
自分の分のコーヒーを飲み干してしまうと、警部補は名残惜しそうに空のカップに視線を落とし、それから威儀を正して声の調子を改めた。
「表の車庫の横に一台、カゴ付きの自転車が停まってましたが、あれはどなたので」
茅夜がむっつり顔で手を挙げた。
「防犯登録は、ちゃんとしておいたほうがいいですな。あれじゃあ盗まれても文句も言えない」
毒のある声音に、茅夜も睨めるような眼つきで応じる。
その自転車が、彼女の盗んだものでないという確証も、何処にもないのだ。
警部補もその件についてはそれ以上触れず、なるべく音を立てぬようカップを黒テーブルに置き戻した。
真っ赤に腫らした生気の無い眼で、那珂はそんな警部補の挙動をただじっと見つめていた。
全員でコンビニに出掛けたんですか、との問いに、玖珠は最小の単語で肯定を示した。
江奈の記憶する限りでは、九時前後にこの家を出発し、九時半には弁当を手にここに戻って来ている。
茅夜も自転車には乗らず徒歩で同行した。
警部補に答える玖珠の証言にも、相違は殆どなかった。
タオルで髪を乾かしながらリビングに入って来た紗乃に、先に休むからと告げ、江奈は独り二階へ上がった。
それが午後十一時半。
リビングに居た紗乃を除く三人に、取り立てて変わった点はなかったように思う。
真っ直ぐ自分に宛がわれた部屋へ向かい、すぐにベッドに潜り込んだ。
慣れぬ蒲団では早々に眠れないのではという思いも、ふっくらと柔らかい寝床の感触に対しては要らぬ心配だった。
床下から小さく聞こえてくる誰かの話し声や、即座に茅夜と判る余り上品とは言えない笑い声を耳にしながら、江奈はいつの聞にか寝入っていた。
当然、後のことは全く憶えていない。
次に眼が覚めたのは、顔を蒼白にした玖珠が紗乃の死を報せに来たときのことだ。
玖珠たちの証言を纏めると、江奈が寝付いた後の四人の行動はおおよそ以下のようになる。
午前零時、まず那珂が眠くなったと言って二階へ向かった。
残った紗乃・玖珠・茅夜の三人は、暫く自分たちの学校の教師連中について雑談を交わしたというが、零時四十分頃には玖珠が寝室へ引き取り、その二十分後、茅夜も部屋のテレビを見ながら寝ると言ってリビングを離れた。
紗乃もリビングの片付けを終えて明かりを消し、茅夜共々二階へ上がったという。
つまり深夜一時を回る頃には、階下には誰も居なくなっていたのだ。
各人の証言に嘘偽りがないとすれば。
それから九十分を経たのち、紗乃はリビングで、何者かに惨殺された。
虚構でもなんでもない、それは事実だ。
各々が寝付いた時刻について、那珂は自室に戻って聞もなくの午前零時ちょっと過ぎ、玖珠は一時頃、そして部屋のテレビを見ていた茅夜は二時半に達する少し前に就寝したと、それぞれ証言した。
玖珠は眠りに就くか就かないかの頃に、茅夜の部屋の方向からテレビの音がするのを聞いたと証言した。
時間的な矛盾はない。
その時刻、江奈は心地好い蒲団に包まれ、ぐっすり寝入ってしまっていた。
江奈の隣室にいた那珂も同様だろう。
「すると茅夜さん。紗乃さんが殺されたであろう時刻の三十分前に、君はまだ起きていたということになりますな」
「そうなるわね」
投げ遣りな返答。
「階下での物音や、廊下を誰かが歩く音なんかを何かしら耳にしなかったんですか」
「さあね。テレビに夢中で気付かなかったわ」
「茅夜!」
玖珠が非難がましい声を上げる。
茅夜は煩そうに向かいの席を睨んだが、何も言わずに視線を外し、不機嫌っぽく息を吐いた。
那珂が子供のように鼻をぐずらせる。
「ふむ、仲好しグループねェ。私はもっとこう、お互いをニックネームで呼び合ったり、非常時には一致団結したりとか、そういうものだと思ってましたがね、仲好しグループというものは。それでもまあ、仲好しではあるんでしょうな」
皮肉と揶揄が見え見えの警部補の言に、しかし口で反論する者はいなかった。
死体の第一発見者に、今一度警部補は尋ねた。
「玖珠さん。今朝君がリビングに向かった際、リビングの照明は点いていましたか」
「……いいえ」
「ということは、犯行ののちに犯人が明かりを消したのか、若しくは最初から明かりが灯されていない状態のリビングで紗乃さんを襲ったのか、そのどちらかということになりますな。事件の発生した時刻から考えると、多分前者でしょう。残念ながら、照明のスイッチに犯人のものと思しき指紋は見つかりませんでしたがね」
警部補の愛嬌のない眼が、ぎょろりと一同を見渡した。
「それとキッチンの流し台に、僅かでしたが血液が付着していました。犯人がそこの水道水で血を洗い落としたのは確かなようです。が、見たところ、皆さんは身体の何処にも傷を追ってはいないようですな。まだ検査結果は出てませんが、恐らく流し台に残された血は被害者自身のものでしょう。あれだけ大量に出血してるんですから、返り血の少しくらい犯人が浴びてもおかしくない。自身の犯行を証明してしまうような痕跡を、残したくなかったんでしょう」
現場の状況を次々と明かしつつ、警部補は冷徹に澄みきった眼差しを周囲に投げ掛けた。
開係者たちのちょっとした表情の変化から、犯人たる動かぬ証拠を見出そうとするかの如くに。
犯行の解析でなく、犯人の行動パターンを明示することで、警部補は場に潜んでいるであろう殺人者に、心理的な脅しを掛けているのだ。
私はここまでお前の行動を把握しているぞ、どうだ恐ろしくなってきただろう、さあ早く襤褸を出せ……。




