10 Street Spirit (Fade Out)
登場人物
須藤江奈……女子高生。
鴇田玖珠……〃
但馬那珂……〃
三浦茅夜……〃
永野紗乃……〃。死体となって発見される。
生籟……警部補。
その他警察関係者多数。
〈イーストウッド〉……江奈の上位人格。
何を見ているのかも定かでない、血管を浮かべた〈イーストウッド〉の青白い眼球が、細かく、不安定に揺れ動く。
「ふ、ふざける、な、」
〈イーストウッド〉の洩らした喘ぎは信じられないほどに弱々しく、異常なまでに強張ったその面持ちは、打ち続く苦痛に耐えきれぬ重篤患者の瀕死の顔貌を思わせた。
「まさか……そ、そんなことが」
それから硬い床面に膝を突き、悩ましげに頭を抱える。
一方のポケットからは〈北西〉が見つけた真珠色のピアスが、
そしてもう片方のポケットからは、
……警部補や捜査員すら見た記憶のない、丸いキャップの形状をした黄土色のプラスチック部品が滑り落ちた。
足許の床に落下したそれらは大して転がりもせず、軽い無機質な音を最後に自らの動きを止めた。
息を呑み、場に佇む一同は切れ切れに呻く〈イーストウッド〉の挙動を一心に見守り続けた。
「……えぐっ、ぐっ、えぐっ……」
〈イーストウッド〉の低い低い呻きは、いつしか女性的なか細い泣き声に変わっていた。
頭部を押さえていた手も、今度は顔を覆うようにその場所を頭の前側へと移動させていた。
留め処ない涙も洟も溢れ出るに任せ、今や江奈の総身の支配権を手に入れた彼女は、ぐずついた声を上げた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ミナミ、ただ、寂しかっただけなの……エッちゃんも、北ちゃんも、イーちゃんも……みんなミナミに気付いてくれないし……エッちゃんは、ほかにもお友達いっぱいいるのに、ミナミには誰もいないから……ミナミ、独りぼっちだから……だから、だから、もう死んじゃおうと思って」
ほんの一瞬、〈ミナミ〉と名乗った彼女の涕泣が収まった。
ヒクヒクと咽喉を引き攣らせながら、盛大に洟を啜ったのだ。
「エッちゃん、持ってきたお薬のことも忘れて、すぐ眠っちゃって……そのときは、ミナミも、イーちゃんたちと一緒に、すぐ寝っちゃったけど……三時ぐらいに、ミナミだけ眼が覚めて、それで、チャンスだと思って……ミナミ、エッちゃんのカバンから、お薬のビン出して、一階に降りて……水道のお水で、お薬飲もうとしたの……でも、台所行ったら、キレイな包丁があったから、これで手首切ったほうが、簡単に死ねると思って……そしたら、エッちゃんのお友達の、サッちゃんが、二階から降りてきて……ミナミ、包丁持ってるとこ、サッちゃんに見つかっちゃって……」
なんとも稚拙な彼女の自供内容に、しかし公然と口を挟むほど勇気のある者はおらず、それだけの余裕を持つ者もまたいなかった。
「ミナミ、リビングに逃げたけど、そこで、サッちゃんに捕まっちゃって……江奈、何してるの、そんなことしちゃ駄目だよって、ミナミの腕押さえて、サッちゃんが言って……でも、ミナミ、すごく暴れて動いたから、お薬の粒がこぼれて、イーちゃんも起きちゃって……もう、ミナミの思う通りに、脚も、腕も動かなくなっちゃって……イーちゃん、サッちゃん殺しちゃった……」
口を窄め、玖珠の胸に頬を預けたまま、那珂が思い出したように小さくしゃくり上げた。
彼女の泣き様が感染してしまったのだろうか。
他方、こちらは余程人前で話したかったのだろう、顔を真っ赤に泣き腫らしながら、彼女は堰を切ったようにか弱い声を発し続けた。
「イーちゃん、お部屋に戻って横になったら、すぐ寝ちゃったから、ミナミ、もう絶対死んじゃおうって思って……もう一回下に降りたの……でも、サッちゃんが死んでるの見たら、包丁で手首切るの、すごく怖くなっちゃって……だから、こぼれてたお薬の粒拾って、台所行って全部飲んで、あと、空になったビンに、サッちゃんの血が付いてたから、それもキレイに洗って、またお部屋に戻ったの……廊下の窓開けて、カーテンの端っこで拭いたビン、お花のキレイな、外のお庭に捨てて……」
〈イーストウッド〉にとってさえ未知であった当時の事情をそこまで明かしたのち、やっと彼女は頬を伝う涙を拭い、一息吐いた。
何故壜を……とは誰も尋ねなかった。
彼女がそうした理由は、彼女自身の言葉の節々にはっきりと浮き彫りになっていた。
キレイな包丁で自殺しようとした、血の付着した壜をキレイに洗浄した、花々のキレイな庭に捨てた……彼女はキレイな物が好きで、つまりキレイ好きなのだ。
少なくとも、ほかに理由と呼べるようなものはない。
彼女は彼女自身の思考論理に忠実に従い、行動したまでなのだ。
壜の表面の指紋が拭き取られていたのも、彼女の思惑とはなんの関係もない。
それは結果論に過ぎない。
彼女は被害者の血を拭っただけなのだから。
「そっか……お薬の粒、まだリビングに落ちてたんだ……全部、拾ったと思ったのに」
距離感を喪失した眠で間近の床にある睡眠薬の蓋を呆然と見つめ、彼女は硬直してしまった全身の力を緩めるように、今一度溜め息を吐いた。
「その一粒も残さずに飲んでたら……ミナミ……死ねたかも知れないのに」
氷のように冷たい、恐ろしい悔恨の一言を最後に、彼女はがっくりと肩を落とし、遂にはなんの反応も見せなくなった。
居並ぶ人々の思いを暫し遠い世界へと運び去り、爽やかな朝の日光を矩形に差し入れた応接室には、不随意な身体活動だけを淡々と進行する人型の物質たちと、無性に息詰まる深海めいた静けさが、
それらだけが残った。
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――上気した顔が、ゆっくりと持ち上がる。
たった今目覚めたかのような無垢な表情。
取り乱したのを恥じる様子もなく、しかも己の顔やパジャマが水っぽく濡れているのを知り、びっくりしたように上下の睫毛を叩き合わせている。
呆けたように開いた眼は、やがて己を見下ろす室内の人々の、実に似通った奇妙な眼差しに出くわした。
玖珠に、
那珂に、
茅夜。
この三人は、同じ学校のクラスメイトだ。
いかつい骨格と人相の生籟警部補と、縦に顔の長い捜査員と、小柄な警官。
彼らは皆、警察の人間だ。
繋ぎの作業着を着た男には見憶えがない。
やはり警察関係者だろうか。
なんで皆、わたしのこと見てるんだろう。
……あれ?
わたし、どうしてこんな所に座ってるの。
「ねえ、玖珠……何かあったの」
ユラリと立ち上がり、最も近い場所に座っていた玖珠に、彼女は小声で問い掛けた。
「どうしたの、玖珠?」
いつまで経っても、返事は返ってこない。
玖珠にはこちらの言葉が聞こえていないのか?
彼女は不審に思った。
どうも表情がおかしい。
尋常じゃない。
玖珠のみならず、那珂も茅夜も。
この室内にいる、全員の表情が。
極度の不安と安心を共時的に体験すると、ひょっとしたら、こういう相貌になるのではないか。
振幅を繰り返した感情が、許容量を突き破ってオーバーヒートした状態。
「取り敢えず、四番目でストップか……取り敢えず、な」
「探偵、殺人者、自殺志願者、更には何も知らない彼女、ですか……」
警部補の後を引き取っての、感情を読み取れぬ捜査員の発言。
何も知らない彼女には、警察の二人が何を言わんとしているのか、およそ推測のしようもない。
「警部補。一応解決はしましたけど、まるで彼女の一人芝居でしたね、この一件は。実際に演技をしていた者は、一人もいなかったんでしょうが」
驚きの余り、彼女はその身を凝固させた。
今、捜査員の口にした解決した事件とは、勿論紗乃が無惨に殺害された事件のことだろう。
解決した?
じゃあ、誰が犯人だったの?
やっぱり茅夜が?
それとも、玖珠か那珂のどっちか?
犯人は、誰だったの?
「まぁ、解決はしたがな。こんな奇天烈な事件は、これっきりにしてもらいたいものだよ。四人だと思っていた参考人が、蓋を開けてみれば、全部で七人もいたわけだからな。今のところは」
クラスメイトの三人をジロジロと順番に見渡し始めた彼女から眼を逸らし、昔を懐かしむような眼で天井の白板を見上げた警部補は、途端に幾条もの皺を眉間に寄せ、突き出た咽喉仏を角張った指の爪で力強く引っ掻いた。
こんなものがあるからいけないんだ、とでも言いたげな、首周りの皮膚ごと毟り取るような荒々しい手つきで。
「アイデンティティの喪失という奴は、私が考えていたより、遥かに深刻なようだ。近頃の、特に多感な時期にある彼女みたいな人間は、自分が幾つあっても足りないらしい。多分、そういうことなんだろう……多分、な」
額に君臨する太い眉毛が、主人の洩らした言葉に情けなく震えた。
(了)




