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彼女の弟の身代わりで三年服役した俺を、彼女は情夫に指を踏み砕かせた

作者: 熾星
掲載日:2026/06/19

 

 1.砕かれた月華


 望月千春と別れて三年目。

 俺は銀座の慈善オークション会場で、何の準備もないまま彼女と再会した。


 彼女は最前列のVIP席に座っていた。シャンパン色のドレスをまとい、耳元のダイヤが

 ライトの下で冷たく光っている。


 今の彼女は、鷹宮財団の御曹司、鷹宮啓介の妻だった。誰もが羨む鷹宮夫人であり、俺はオークション会場の入口に立つ臨時雇いの警備員にすぎなかった。

 着ている制服も先輩から借りたものだ。袖口には、洗っても落ちない古い汚れが残っていた。


 オークションの目玉商品が運び込まれた瞬間、俺はその場で固まった。

 それは、一体の木彫だった。

 俺がかつて千春のために彫った作品――「月華」だった。


 老山白檀を一塊使い、雲霧に支えられた細い三日月を彫ったものだ。あの年、俺は木材選びから構想、最初の一刀まで含めて、丸一年を費やした。

 細い彫り跡の一つ一つに、当時の俺が口にできなかった愛情が眠っていた。


 鷹宮啓介は白い手袋をはめ、嫌そうに二本の指でその木彫をつまみ上げた。まるで、埃をかぶった古い玩具でも持つような仕草だった。


「この小さな物は、妻が若いころにもらった玩具です」


「本日はチャリティーの添え物として出すことにしました。廃物利用というやつですね」


 会場のあちこちから、低い笑い声が漏れた。

 鷹宮啓介は木彫を半回転させ、軽蔑するように一瞥した。


「開始価格は、一千円」


 宴会場は一瞬、静まり返った。

 すぐに、押し殺した笑い声が広がった。コレクター、企業家、美術評論家たちが、舞台上の木彫を見世物のように眺めていた。

 まるで、その作品がこの場に出されたこと自体が、このオークションへの侮辱であるかのようだった。


 俺は扉のそばに立ったまま、指を少しずつ握りしめた。

 千春はシャンパンを手に取り、一気に飲み干した。

 グラスを置いた時、彼女の視線が人波を抜け、正確に俺の上へ落ちた。

 その瞬間、彼女は笑った。

 薄い笑みだった。

 けれど、刃物のように鋭かった。


「一万円」


「縁起物として買っておきます」


 彼女の声がマイクを通して会場に流れた。

 優しく、そして残酷な声だった。


「ついでに、そちらの警備員さん。あとでその芸術品をゴミ箱に捨てておいてくださる?」


 周囲の笑い声がさらに大きくなった。

 その時、電話入札席のほうで誰かが札を上げた。

 オークショニアが一瞬固まり、耳元のイヤホンの声を確認するようにうつむいた。


「場外の匿名購入者より、八百万円」


 会場が揺れた。

 オークショニアは少し間を置いてから、俺のいる方角へ目を向けた。


「購入者からの特別な指定です。会場にいる、そちらの警備員の方に保管していただき、大切に扱ってほしいとのことです」


 その言葉が落ちた瞬間、宴会場中の視線が俺に集まった。

 誰かが目を細め、俺の顔を長く見つめた。

 すぐに、人混みの中から甲高い女の声が上がった。


「藤原朔也?」


「あれって、三年前に紫檀偽装で逮捕された藤原朔也じゃない?」


 ざわめきは火のように広がった。


「覚えてる。昔、あの人の木彫観音を買おうと思ってたんだ。買わなくてよかった」


「安い染色木材を本物の紫檀だと偽って、何人ものコレクターを騙したんだろ?」


「森川工房の百年の名声を潰した男だよな」


「森川宗一郎先生はあれで倒れて、今も病院にいるって聞いた」


「そんな人間が、よくこんな場所で警備員なんてできるね」


「主催者は身元調査しなかったの? 縁起が悪いわ」


 俺は帽子のつばを少し下げた。

 けれど、その程度で視線が遮れるはずもなかった。

 それらは舞台のスポットライトのように、冷たく俺の上へ落ちた。俺に残された最後の隠れ場所まで、無理やり剥ぎ取っていく。

 壇上の千春は、一瞬だけ笑みを凍らせた。


 業界を追われ、工房を追放され、刑務所にまで入った廃人の作品に、まだ八百万円を出す人間がいるとは思っていなかったのだろう。

 けれど、その驚きはすぐに冷たい怒りへ変わった。

 彼女は再びマイクを手に取り、電話入札席の方を見た。


「八百万円ですか?」


「場外のお客様は、本当に見る目がおありですね」


 その声には、はっきりとした嘲りがあった。


「ただ、一つだけご忠告します。この作品の作者は、私の昔の兄弟子です。彼は当時、偽物作りで有名になった人です」


 彼女は一度言葉を切った。

 そして、視線をまた俺へ向けた。


「どうやら私の兄弟子は、落ちぶれても人を騙す腕だけは落ちていないようですね。これは事前に仕込んだ芝居ですか? 銀座で一発逆転の演出でもするつもりだったの?」


 空気が少しずつ冷えていく。

 千春は鷹宮啓介の腕に手を絡めた。甘えるような仕草でありながら、その言葉はさらに深く俺を刺した。


「あなた、私があなたを選んで本当によかったわ。私のこの兄弟子、わずかな見栄を取り戻すために、こんな芝居まで用意するのよ」


「八百万円。警備員の彼がいったい何年働けば稼げるのかしら」


「ねえ、また外で誰かを騙したんじゃない?」


 俺は口を開いた。

 けれど、声が出なかった。

 俺は彼女に言いたかった。

 俺は、その匿名購入者など知らない。

 それ以上に、三年前の紫檀偽装事件は俺の仕業ではない、と。

 あの木材を持ち込んだのは、彼女の弟、望月明人だった。鑑定書を偽造したのも明人だった。


 事件が発覚した後、明人は海外へ逃げた。

 千春は工房で崩れ落ち、三日三晩眠らなかった。手首には、いくつもの傷が残っていた。

 だから俺が名乗り出た。

 師匠に、顧客に、警察に、全部俺一人がやったと告げた。


 俺は望月明人の代わりに服役し、千春のために師匠を裏切った汚名を背負った。

 彼女に恨まれてもよかった。

 ただ、自分が一番かわいがっていた弟こそ本当の犯人だと知って、彼女が完全に壊れてしまうのが怖かった。


 あの時の彼女の精神状態は、もうこれ以上の衝撃に耐えられなかった。

 俺を憎むことで、彼女が生きていけるのなら。

 それでよかった。


「藤原朔也。これがあなたへの報いよ」


 千春の声がかすれた。

 その中には、抑えきれない震えが混じっていた。

 彼女は勢いよく立ち上がった。ドレスの裾がライトの下で、冷たい水のように揺れた。

 そして、鷹宮啓介の手から「月華」を奪い取った。

 俺の心臓が喉元まで跳ね上がった。


「八百万円ですって?」


「でも、これが偽物かもしれないなら、売るわけにはいかないわ」


 彼女は電話入札席のほうを見た。

 唇の端に、青白い笑みが浮かぶ。


「藤原朔也。あなたは昔から変わらないわね。すぐに偽りを並べる」


「そのつまらない自尊心のために、こんな芝居まで見せるの?」


「こんなことをすれば、三年前の汚点が消えるとでも思った?」


「私、この作品を見るだけで吐き気がするの」


 言い終えた瞬間、彼女は勢いよく腕を振り上げた。

 次の瞬間、「月華」は大理石の床へ叩きつけられた。

 鈍い音が響いた。


 老山白檀の割れる音は鋭くなかった。

 けれど、胸を打つ重い雷のようだった。

 木屑が四方に散り、弓なりの月は真ん中から二つに折れた。

 ライトの下に、静かに横たわる。


 その瞬間、三年前に死にきれなかった俺の心も、一緒に折れた気がした。

 会場は死んだように静まり返った。

 電話入札席のほうからも、もう何の声も聞こえなかった。


 最初に笑ったのは、鷹宮啓介だった。

 彼は見事な余興でも見たように、大きな拍手をした。


「いいね。よくやったよ、千春」


 彼はスーツの内ポケットから一万円札を数枚取り出した。

 壇の端まで歩いてきて、それを高く掲げると、俺の顔に直接投げつけた。


「警備員、早く来て掃除しろ。床のゴミも、この金も、全部お前にやるよ」


 赤い紙幣が床に落ちた。

 木屑を覆い、俺に残っていた尊厳まで覆い隠した。

 俺は金を見なかった。

 視線の先には、壊れた木だけがあった。

 俺はゆっくりと腰をかがめた。

 膝が冷たい大理石にぶつかり、鈍い音を立てた。

 手はひどく震えていた。


 それでも、俺は折れた月の半分に手を伸ばした。

 指先が木目に触れようとした、その時。

 磨き上げられた革靴が降ってきた。

 鷹宮啓介の靴底が、俺の手の甲を強く踏みつけた。

 鋭い痛みが手の甲で弾け、神経を伝って肩まで焼け上がった。呼吸が一瞬止まり、額に冷たい汗がにじんだ。


 俺は木彫師だ。

 この手は、俺の命より大切だった。


「なあ、藤原先生」


 鷹宮啓介が、俺を見下ろした。


「どうして金を拾わないで、こんなゴミばかり拾うんだ?」


「ああ、忘れてた」


「ゴミの目には、ゴミしか映らないんだな」


 彼はそう言って、靴先にさらに力を込めた。

 俺の指の骨が、わずかにずれる音がした。

 ごきり。

 それでも、俺は手を引かなかった。

 俺は掌で折れた「月華」を必死にかばった。自分が手を離さなければ、まだ完全には死んでいないと信じたかった。


「鷹宮さん。足をどけてください」


 声は低かった。

 一文字一文字が、歯の間から絞り出されていた。

 鷹宮啓介は身をかがめ、俺の耳元に顔を寄せた。声を落とし、俺にしか聞こえないように囁いた。


「藤原朔也、実は俺は全部知ってる」


「三年前の紫檀の件は、お前とは関係なかった」


「千春の役立たずの弟の罪を、お前が一人で被ったことも知ってる」


 彼の笑い声が、耳の奥に入り込んできた。


「でも、それがどうした?」


「千春は今、俺の妻だ」


「あいつはお前を死ぬほど憎んでいる」


「あいつの目には、お前は工房を潰し、師匠を倒れさせた詐欺師にしか見えていない」


 彼は突然足を上げ、今度は俺の右肩を蹴りつけた。

 俺はバランスを失い、後頭部を床に強く打った。

 視界のライトが砕けて滲む。

 それでも、俺は壊れた木片を胸に抱きしめていた。


 周囲の人間は、ただ見ているだけだった。

 誰も前へ出なかった。

 千春は数歩先に立って、このすべてを冷たい目で見ていた。

 彼女は鷹宮啓介を止めなかった。

 彼女の目には、俺が受けている仕打ちすべてが、罪にふさわしい罰に見えているのだろう。


 その時、ホテルの支配人が慌てて駆け寄ってきた。

 けれど彼は鷹宮啓介を怒らせることを恐れ、怒りの矛先を臨時警備員である俺へ向けた。


「何をしているんだ」


「早くここを片づけろ」


「お客様の気分を害したら、今夜の給料は一円も出さないからな」


 俺は何も言わなかった。

 床に散らばった木片を一つ一つ拾い上げ、制服のポケットへ大切に入れた。

 どの欠片も重さなどほとんどなかった。

 けれど、それは刃物のように俺の胸を切った。


 千春は鷹宮啓介の腕に手を絡め、俺のそばを通り過ぎた。

 その足が、一瞬だけ止まる。

 彼女は、赤く腫れ変形した俺の手を見下ろした。


 その目に、ほんの一瞬だけ複雑な何かがよぎった。

 だが、あまりにも短かった。

 俺の錯覚だったのかもしれない。


「藤原朔也。二度と私の前に現れないで」



「あなたが哀れなふりをする姿は、気持ち悪いの」


 彼女は俺の手を見た。

 声は氷のように冷たかった。


「それに、その手。汚いわ」


 そう言って、彼女は振り返らずに去っていった。

 俺はその背中を見つめていた。

 胸の奥を、見えない手に強く握りつぶされたようだった。

 汚い、か。


 この手は、かつて彼女に彫刻刀の握り方を教えた。

 彼女のために刃を研ぎ、彼女の弟のためにすべての罪を背負った。

 それでも彼女の目には、この手はもう汚れていたのだ。

 汚れすぎて、彼女が自分で壊した古い作品さえ拾う資格がないほどに。



 2.腐った大根と土下座


 警備会社の地下宿舎へ戻った時には、もう深夜だった。

 そこは十平米にも満たない地下室だった。壁の隅はいつも湿っていて、空気にはカビ臭、カップ麺の匂い、安い消毒液の匂いが混じっていた。

 頭上の薄黄色い電球は、点いたり消えたりを繰り返している。部屋全体が、湿った井戸の底のように見えた。


 俺はぐらつく折りたたみ椅子に腰を下ろし、消毒液の瓶を開けた。

 綿棒に液を含ませ、手の甲へ少しずつ塗っていく。

 薬液が破れた皮膚に触れた瞬間、腕までしびれるような痛みが走った。右手はすでに、元の形が分からないほど腫れていた。

 人差し指と中指は、まったく言うことを聞かなかった。

 拳を握ろうとしても、半分の力さえ入らない。


 机の上には、古い彫刻刀が置いてあった。

 それは俺が弟子入りしたばかりのころに使っていた、最初の一本だった。柄は長年の手入れで、つやつやに磨かれている。


 俺は左手でそれを持ち、廃材の上に一本だけ直線を引こうとした。

 からん。

 彫刻刀がコンクリートの床に落ちた。

 音がやけに耳障りだった。

 俺は自分の手を見た。


 その瞬間、鷹宮啓介の一踏みがどれほど残酷だったのかを理解した。

 彼は、ただ人前で俺を辱めたかったわけではない。

 俺の生きる道を、完全に断ち切ろうとしたのだ。

 彫刻刀さえ握れない木彫師に、何が残る?


 その時、机の上のスマホが震えた。

 電話に出ると、師匠の妻である森川佐和子の声が聞こえた。年老いた声は焦りに震え、泣き声が混じっていた。


「朔也、あなたなの?」


「師匠のおかみさん?」


「あなたの師匠が、この数日でまた悪化してしまってね。医師に言われたの。このままでは、リハビリ手術も受けられなくなるかもしれないって」


「本当は三百万円を用意していたの。でも今日支払いに行ったら、そのお金が突然なくなっていたのよ」


「弟子たちに連絡したけれど、つながらない子もいれば、どうにもできないと言う子もいて……千春ちゃんの番号も、もう変わってしまっていて……」


 森川宗一郎。

 俺の師匠。

 三年前、俺の偽装騒動が表に出た時、師匠はその場で倒れた。以来、半身不随になり、薬とリハビリで命をつないでいる。


 俺は毎月、警備の仕事で稼いだ金から最低限の生活費だけを残し、残りをこっそり師匠のおかみさんに振り込んでいた。

 それでも、一度も会いに行けなかった。

 俺という不肖の弟子を見たら、師匠がまた倒れてしまうかもしれない。

 そう思うと、怖かった。


「おかみさん、落ち着いてください」


 俺はスマホを握りしめた。

 喉がひどく乾いて痛かった。


「お金のことは、俺が何とかします」


 電話を切った後、俺は湿った地下室を見回した。

 壁際に積まれた廃材。

 汚れた布団。

 使いかけの消毒液。

 そのすべてが、急に息苦しく思えた。


 三百万円。

 三年前なら、俺の作品一つの予約金にも満たなかった金額だ。

 けれど今の俺には、三万円さえかき集められない。


 俺は連絡先を片端から開いた。

 かつて取引のあった木材商、コレクター、同業者。その一人一人に、恥も尊厳も捨ててメッセージを送った。

 返ってきたのは、ほとんどが嘲りだった


「藤原の詐欺師、まだ生きてたのか?」


「金を貸せ? 縁起が悪い」


「俺に連絡してくるな。鷹宮家を敵に回したくないんだ」


 かつて数日だけ俺に教わったことのある若い弟子が、一人だけ電話をくれた。


「朔也兄さん。助けたい気持ちはあります」


「でも、鷹宮さんがもう言い回っているんです。あなたを助ける者は、鷹宮家を敵に回すことになるって」


「兄さんは、この業界ではもう死んだことになっています」


 いつの間にか、外では雨が降っていた。

 雨水が地下の窓の隙間から流れ込み、コンクリートの床に小さな水たまりを作っていた。


 俺は冷たい壁にもたれ、接着剤で半分だけつないだ「月華」を手に取った。

 割れ目の接着跡は荒く、醜い。

 まるで、ばらばらに砕かれた俺の人生そのものだった。


 その時、スマホの画面がまた明るくなった。

 千春からのメッセージだった。


 そこには、美しくデザインされた宴会の招待状の写真が添えられていた。招待状の横には、高級腕時計をつけた男の腕が写っている。

 その腕は、千春の腰を抱いていた。

 メッセージには、こう書かれていた。


「今夜七時、六本木森タワーホテル最上階の宴会場」


「主人が、今夜うっかりあなたに怪我をさせてしまったから、稼げる機会を与えたいと言っているわ」


「それから、オークション会社の人が言っていたけれど、八百万円の匿名購入者も来るそうよ」


「あなたが仕込んだ相手がどんな人なのか、見てみたいわ」


 夜七時。

 俺は時間通り、六本木森タワーホテルに着いた。

 最上階の宴会場は、まばゆいほど明るかった。巨大な窓の外には、東京の夜景が広がっている。


 三年前、俺はこの場所で個展を開いた。

 そのころの俺は、光の中にいた。誰もが「森川工房から百年に一人の天才が出た」と言った。


 三年後。

 俺は雨に濡れた安物の警備服を着て、同じ宴会場に立っていた。

 まるで、舞台に引きずり出された道化だった。

 円卓には、人がぎっしり座っていた。


 かつての同業者、俺を褒めたことのある評論家、俺の作品を追いかけてくれたコレクター。

 彼らは俺を見ると、驚きではなく、見世物を待つような興奮を目に浮かべた。

 千春と鷹宮啓介は主賓席に座っていた。

 彼女は床に置かれた一籠の腐った白大根を指さし、薄く笑った。


「皆さん、少しお静かに」


「今夜は食事のほかに、余興を用意しています」


 彼女は俺を見た。

 その声がマイクを通して会場に広がる。


「かつての天才木彫師、森川工房が最も誇った弟子、藤原朔也さんが、皆さまの前で大根の飾り切りを披露してくださいます」


「よくご覧になってくださいね。こういう腕前は、外ではなかなか見られませんから」


 彼女は微笑んだ。


「一輪彫るごとに、一万円で買い取ります。皆さまへの記念品にいたしましょう」


 宴会場は、笑いに包まれた。

 伝統木彫師に、西洋料理用のナイフで腐った大根を彫らせる。

 それは、人間の尊厳を泥に押し込み、さらに踏みつける行為だった。

 俺は泥のついた大根の籠を見た。

 次に、千春の前に積まれた現金を見た。

 あれは師匠の命をつなぐ金だ。


 三百万円を手にできれば、師匠は手術を受けられる。

 俺に選択肢はなかった。

 俺は歩いていき、籠の中から大根を一つ取り上げた。

 それから、テーブルの上の西洋ナイフを握った。

 右手はまだ勝手に震えていた。左手で右の手首を支え、無理やり柄を握り込む。


 最初の一刀で、力加減が狂った。

 大根の皮が大きく削れ落ちた。

 会場に、また笑いが起きた。

 千春はテーブルの上のピーナッツをつかみ、俺の顔に投げつけた。


「皆さん、見ましたか?」


「これが天才の手つきだそうです」


 彼女は笑っていた。

 目尻だけが赤い。


「藤原朔也、手が病人みたいに震えているわ」


「大根も彫れないなんて。当時の受賞作も、誰かに代わりに彫ってもらっていたんじゃない?」


 鷹宮啓介が隣で、わざとらしくため息をついた。


「千春、もういいだろ。彼は昔、君の兄弟子だったんだから」


「もういい?」


 千春は急に声を荒らげた。

 まるで、とんでもなく馬鹿げた言葉を聞いたかのようだった。


「この人は私の名を傷つけ、森川工房に泥を塗り、師匠を倒れさせたのよ。どうしてもういいなんて言えるの?」


 彼女は俺を憎んでいる。

 それでいい。

 彼女が俺を憎み続けていれば、その矛先が自分自身へ向くことはない。

 俺は唇を噛んだ。

 血の味が口の中へ広がる。

 大根の汁が顔に飛び、雨水と泥水に混ざった。俺は側溝から這い上がったようにみすぼらしかった。


 ようやく、歪んだ大根の花が一つできあがった。

 花と呼べるかどうかも分からない形だった。

 俺はそれを両手で持ち、一歩ずつ千春の前へ進んだ。


「鷹宮夫人。一万円です」


 千春はその大根の花を受け取った。

 しばらく眺めてから、隣のゴミ箱へ投げ捨てた。


「これが花? こんなもの、コンビニの値引き弁当の横にある飾りにもならないわ」


 彼女は立ち上がり、テーブルの上にあった汁物を俺に浴びせた。

 熱い汁が髪を伝って流れ、皮膚を焼いた。

 それでも俺は避けなかった。

 ただ、頭を下げて立っていた。


「藤原朔也。お金が欲しいんでしょう?」


「跪きなさい」


 宴会場が一瞬で静まり返った。

 千春は俺を見つめていた。

 その目には狂気があり、今にも割れそうな痛みもあった。


「跪いて、私に懺悔しなさい」


「あなたが当時、どうやって私を捨て、師匠を騙し、森川工房を壊したのか、一つ一つ言いなさい」


「言えたら、この三百万円はあなたのものよ」


 俺は床に積まれた金を見た。

 師匠のおかみさんの泣き声。

 師匠の年老いた顔。

 病院の手術室の灯り。

 それらが、頭の中で交互に浮かんでは消えた。

 分かっていた。

 ここで跪けば、藤原朔也という名前は二度と立ち上がれなくなる。

 それでも。


 師匠は手術を待っている。

 俺の膝が、少しずつ曲がっていく。

 床に触れようとした、その瞬間だった。

 宴会場の重い扉が、外から開かれた。

 老いているのに、力のある声が雷のように響いた。


「今日、誰がその子を跪かせるのか、私が見届けよう」



 3.師匠がもたらした真実


 入口に、師匠のおかみさんが車椅子を押して立っていた。

 車椅子の上の老人は、深い色の和風外套を羽織っていた。顔は青白く、片腕は力なく垂れている。

 それでも、その目だけは、何十年も研がれ続けた彫刻刀のように冷たかった。

 すべての嘲笑は、彼が現れた瞬間に消えた。


「師匠……」


 千春の顔から血の気が引いた。

 彼女は信じられないものを見るように、車椅子の森川宗一郎を見つめていた。身体は抑えきれないほど震えている。

 鷹宮啓介の笑みも固まっていた。

 病院にいるはずの森川宗一郎が、突然この場に現れるなど、彼も想像していなかったのだろう。

 俺は何とか立ち上がり、その懐かしい姿を見た。

 視界が熱く滲む。


「師匠」


 森川宗一郎は、すぐには俺を見なかった。

 その目は長年研ぎ続けた刃物のように、千春へ向けられていた。


「私、森川宗一郎の弟子を、いつからお前たちが好きに辱めていいことになった」


 声は大きくなかった。

 だが、誰も呼吸できないほど重かった。


「師匠、私は……」


 千春は口を開いた。

 けれど、言葉にならなかった。


「私を師匠と呼ぶな」


 森川宗一郎は厳しく遮った。


「恩を忘れ、是非を見失った弟子など、私にはいない」


 師匠のおかみさんが、車椅子を少しずつ会場の中へ押していく。

 一歩分進むたび、千春の顔色は白くなった。

 誰もが無意識に道を開けた。鷹宮啓介でさえ、もう口を挟めなかった。


「当時、朔也がなぜ刑務所へ入ったのか。お前は本当に何も知らなかったのか?」


「この三年間、誰が毎月おかみさんに医療費を送っていたのか、本当に知らなかったのか?」


「お前の出来損ないの弟のために、誰が自分の前途を潰し、すべての罪を被ったのか。忘れたのか?」


 一言落ちるたび、会場の空気はさらに冷えていく。

 客たちは小声でざわめき始めた。彼らの表情は、見物から驚愕へ、そして疑念へ変わっていた。

 千春は顔面蒼白になり、視線をさまよわせた。


「師匠、何をおっしゃっているんですか。私には分かりません。明人はずっと前に海外へ行きました」


「あの時のことは、藤原朔也が欲に目をくらませてやったことです。彼がやったんです」


「分からない?」


 森川宗一郎は冷たく笑った。

 彼の背後に立っていた男が前に出て、タブレット端末を掲げた。

 画面が明るくなり、一本の動画が再生された。

 そこは銀座の会員制バーの個室だった。

 望月明人が若い女の肩を抱き、顔を赤くして大声で吹聴している。


「藤原朔也って知ってるだろ? 昔は有名だった木彫師」


「今?今は刑務所帰りの廃人だよ」


 彼はひどく得意げに笑っていた。


「あの時の偽紫檀は、俺が仕込んだんだよ」


「うちの姉貴は馬鹿だから、俺が誰かに騙されたと思い込んでる」


「でもな、鑑定書は最初から最後まで俺が偽造した」


「藤原朔也の馬鹿は、姉貴のために一人で全部被ったんだ」


 そばにいた誰かが、鷹宮啓介は知っていたのかと聞いた。

 明人はさらに大声で笑った。


「もちろん知ってたよ」


「あの偽造報告書は、そもそも鷹宮さんが手配してくれたんだ」


「鷹宮さんは前から藤原朔也が気に入らなかったんだよ」


「藤原が倒れれば、姉貴は完全にあいつを恨む。そうすれば、素直に鷹宮家へ嫁ぐってわけ」


 動画は短かった。

 だが、その中身は会場全体を押し潰すには十分だった。

 すべての視線が、千春と鷹宮啓介へ向いた。


「違う!」


 千春が悲鳴を上げた。


「これは偽物よ!」


 彼女は俺を振り返った。

 目が真っ赤だった。


「藤原朔也、あなたが誰かに作らせたんでしょう?」


「私に復讐するためなら、どんな卑怯な手でも使うのね!」


 鷹宮啓介もすぐに我に返った。

 彼は森川宗一郎を指さし、虚勢の混じった声を張り上げた。


「森川先生。私はあなたを年長者として敬っています」


「ですが、出どころの分からない動画一本で、私と千春を侮辱するのはおかしいでしょう」


「ここにいる方々が、そんなものを信じるとでも思っているんですか?」


 森川宗一郎は怒らなかった。

 ただ、手を上げて軽く二度叩いた。

 オークション会社の支配人が、スーツ姿の中年男を連れて入ってきた。その男は金縁の眼鏡をかけ、書類鞄を持っている。

 後ろには、二人の助手がついていた。


「皆さま、こんばんは。白石美術財団の顧問弁護士、三浦と申します」


 三浦弁護士は、会場に向かって静かに頭を下げた。


「三年前、当財団の理事長は藤原朔也氏に紫檀の観音像を依頼しておりました。後に、いわゆる偽装事件によって、この取引は中止を余儀なくされました」


「しかし理事長は、藤原氏が自ら名声を壊すような人物ではないと考えておりました」


「そのため、私どもはこの三年間、密かに調査を続けてまいりました」


 彼は書類を開いた。

 助手がいくつもの資料をスクリーンへ映し出す。


「こちらは、望月明人氏の出入国記録です」


「こちらは、彼が木材鑑定書を偽造した際の原本データ」


「こちらは、鷹宮啓介氏が海外法人名義の口座を通じて、望月明人氏へ送金した銀行記録です」


「そしてこちらは、当時、鑑定報告書の偽造に関与した鑑定士の供述書です」


 三浦弁護士は少し間を置いた。

 その声は、会場全体へはっきり響いた。


「すべての証拠は、すでに警視庁の経済犯罪捜査部門へ提出済みです」


「望月明人氏は二時間前、現地警察によって身柄を確保されました」


 動画が一撃なら、この証拠の束は完全な裁きだった。

 鷹宮啓介の顔は紙のように白くなった。

 彼は椅子に崩れるように座り、唇を震わせたまま、一言も言えなかった。


 千春は呆然と大画面を見つめていた。

 その目は少しずつ空になっていく。

 口の中で、同じ言葉を繰り返していた。


「ありえない……」


「そんなはずない……」


 彼女は突然、俺を見た。

 かつて明るかったその瞳に、初めて本物の恐怖、後悔、そしてすがるような色が浮かんだ。


「師兄……」


「嘘だって言って」


「全部、嘘だって言ってよ」


 俺は静かに彼女を見た。

 何も言わなかった。

 その沈黙こそが、彼女を最後に押し潰したのだろう。

 千春は悲鳴を上げた。

 頭を抱えてしゃがみ込み、折れた枯れ枝のように全身を震わせた。


 宴会場は一気に混乱した。

 誰かが警察に通報し、誰かが動画を撮り、誰かが鷹宮啓介に向かって怒鳴った。

 師匠のおかみさんが車椅子を押して、俺のそばへ来た。


 森川宗一郎は顔色が悪く、半身はまだ思うように動かない。それでも、俺の赤く腫れた右手をじっと見ていた。

 おかみさんは涙を浮かべながら、師匠の膝にかけられていた深い色の外套を取り、汁と雨で濡れた俺の肩にそっとかけた。

 森川宗一郎は、動くほうの手をゆっくり持ち上げ、俺の手首を苦労して握った。


「馬鹿な子だ。よく耐えたな」


 俺はうつむいた。

 喉の奥が詰まって、声が出なかった。


「師匠。俺は、あなたに申し訳ないことをしました」


 森川宗一郎は、俺の肩に軽く手を置いた。


「帰ろう」


「今日から、誰にもお前を跪かせはしない」



 4.晴れた冤罪


 真実が広がる速度は、東京の冬の風よりも速かった。

 翌朝には、伝統工芸界と美術収集界がそのニュースで揺れた。


「驚愕の逆転。かつての天才木彫師、藤原朔也の冤罪が晴れる」


「鷹宮財団の御曹司、愛する女性を奪うため若き木彫師を陥れる」


「望月姉弟、紫檀鑑定書を偽造。森川工房偽装事件の真相が明らかに」


 ニュースサイト、美術雑誌、テレビ番組が、俺の名前を一斉に報じた。

 三年前、俺がどれほど無残に叩かれたか。

 今、その反動のように、周囲は俺を持ち上げていた。

 かつて俺を避けていた人間たちから、次々に電話が来た。


 当時は自分も騙されていたと言う者がいた。最初から君が偽装するわけがないと思っていたと言う者もいた。展覧会へ再び出てほしいと誘う者もいた。

 俺は一つの電話にも出なかった。


 俺は森川工房の裏庭にある縁側に座っていた。

 陽射しが肩に落ちている。

 それがあまりにも暖かく、現実味がなかった。

 師匠のおかみさんが、湯気の立つ味噌汁を運んできた。横には焼き魚と白米も添えられている。

 彼女は頬のこけた俺の顔を見つめ、ずっと目を赤くしていた。


「朔也、温かいうちに食べなさい。この数年、どうしてそんな身体になるまで自分を追い込んだの」


 俺は箸を持った。

 指はまだ痛みで震えていた。

 味噌汁の香りは懐かしかった。少年のころ、稽古の後に毎日のように嗅いでいた匂いだ。

 涙が椀の中へ落ちた時、俺は自分がまだ泣けることに気づいた。


「おかみさん。俺は師匠にも、工房にも、取り返しのつかないことをしました」


 おかみさんは、昔と同じように俺の頭を撫でた。


「馬鹿な子」


「あなたの師匠は、あなたが偽装したなんて一度も思っていなかったのよ」


「怒っていたのは、あなたが馬鹿みたいに全部一人で背負って、命まで捨てようとしたこと」


 師匠は、ずっと気づいていた。

 俺を憎んでいたわけではなかった。

 もっと早く俺を引き戻せなかった自分を、悔いていたのだ。


 午後、白石美術財団の三浦弁護士が再び工房を訪ねてきた。

 彼は二つのものを持ってきた。

 一つは、三年前に制作予定だった紫檀観音像の注文清算書だった。残金はすでに全額支払われており、その額は三千万円だった。

 もう一つは、黒い銀行カードだった。


「藤原先生。こちらは当財団理事長からのお気持ちです」


「カードには三千万円が入っています」


「理事長は、あなたの手は日本木彫界の宝だと申しております。このまま失わせるわけにはいかない、と」


 三浦弁護士はさらに、一通の聘用書を取り出した。


「加えて、財団はあなたを首席芸術顧問としてお迎えしたいと考えています。年俸は三千万円です」


「理事長の唯一の希望は、あなたに創作を続けていただくことです」


 俺はその銀行カードと聘用書を見つめた。

 長い間、何も言えなかった。


 三日前、俺は三百万円の手術費のために、宴会場で腐った大根を彫らされ、跪かされる寸前までいった。

 三日後、目の前には数千万円が置かれている。

 あまりにも簡単で、冗談のようだった。

 俺は注文の残金だけを受け取った。

 銀行カードと聘用書は、静かに彼の前へ押し返した。


「白石理事長にお伝えください。お気持ちはありがたく受け取ります」


「けれど、お金は結構です」


「顧問の件も、少し時間をください」


 俺には手を治す時間が必要だった。

 そして、この三年間で少しずつ砕かれてきた心を治す時間も必要だった。

 三浦弁護士を見送った後、警視庁から電話が入った。


「藤原朔也さんでいらっしゃいますか」


「こちらは警視庁経済犯罪捜査部門です」


「鷹宮啓介および望月明人が関与した商業詐欺、鑑定書偽造、名誉毀損、傷害事件について、詳しい供述をお願いしたいのですが」


 電話の向こうで、一度声が止まった。


「なお、望月千春さんも現在、事情聴取を受けています」


「精神状態が非常に不安定で、あなたに会いたいと繰り返しています」


「こちらへ来ていただくことは可能でしょうか」


 俺はスマホを握ったまま、長く沈黙した。


「分かりました。伺います」


 終わらせなければならないことがある。

 それは、いつまでも避けられるものではなかった。


 警視庁の面会室は、白い蛍光灯に照らされていた。

 そこで俺は、再び望月千春に会った。

 彼女は灰色の服を着ていた。髪は乱れ、顔色は水に浸された紙のように白い。

 かつて宝石に囲まれ、高みにいた鷹宮夫人はそこにいなかった。


 俺の前に座っていたのは、目の空ろな、今にも崩れ落ちそうな女だった。

 俺が入っていくと、彼女の濁った目にわずかな光が戻った。

 彼女は勢いよく立ち上がり、俺へ駆け寄ろうとした。だが、そばにいた警察官に押さえられた。


「師兄!師兄、ごめんなさい。私が間違っていたの。本当に間違っていたの」


 彼女は声を枯らして泣き、必死に頭を下げようとした。


「許して。お願い、許して」


 彼女は泣きながら、自分の頬を叩き始めた。

 ぱん。

 ぱん。

 ぱん。

 乾いた音が面会室に響いた。

 すぐに彼女の頬は赤く腫れた。


 警察官が止めようとしても、彼女は聞こえないように、崩れた目で俺を見続けていた。

 俺は静かに彼女の前に立った。

 想像していたような快感はなかった。

 あると思っていた憎しみも、もうなかった。

 ただ深い疲労だけが残っていた。


「望月千春。俺たちは、もうとっくに終わっている」


 彼女は顔を上げた。

 涙が止まらず落ちていた。


「違うの。そうじゃないの」


「師兄、私の話を聞いて」


「あの時の私も騙されていたの。真実がこんなものだなんて知らなかった」


「あなたが工房を裏切り、師匠を裏切り、私を裏切ったと思っていたの」


「だから私は……」


「もういい」


 俺は彼女の言葉を遮った。

 彼女のすべての弁解は、あまりにも遅すぎた。


「お前が『月華』を砕いた時から」


「鷹宮啓介が俺の手を踏みつけるのを、黙って見ていた時から」


「俺たちの間には、もう何の関係もない」


 千春は完全に固まった。

 俺は彼女を見つめ、一言ずつ静かに告げた。


「今日ここへ来たのは、お前の懺悔を聞くためじゃない」


「鷹宮啓介と望月明人が、俺と森川工房に背負わせたものを、俺は一つずつ取り返す」


「そしてお前も」


「自分で選んだことの代償を払え」


 言い終えると、俺は背を向けた。

 背後から、千春の胸を裂くような泣き声が聞こえた。

 昔なら、その泣き声だけで、俺はすべてを捨てて振り返っただろう。

 だが今度は、足を止めなかった。



 5.夜明けの前に


 鷹宮啓介と望月明人の事件は、すぐに裁判へ進んだ。

 証拠は明白だった。白石美術財団の弁護士チームも加わり、審理は驚くほど速く進んだ。

 鷹宮啓介は、商業詐欺、鑑定書偽造、名誉毀損、故意傷害の主導者として、有期懲役二十年の判決を受けた。


 望月明人は主要な共犯として、十五年の判決を受けた。

 鷹宮財団も、この醜聞によって株価が暴落した。

 かつて何者にも屈しないように見えた鷹宮家は、一夜にして崩れた。


 ニュース番組は、鷹宮啓介が警察車両へ連行される映像を何度も流した。

 彼は頭を下げていた。


 あの日、宴会場で俺の手を踏みつけた時の得意げな顔は、もうどこにもなかった。

 望月千春は、隠匿、虚偽証言、証拠隠しへの協力により、懲役三年の判決を受けた。


 だが、裁判中の彼女の精神状態は極めて不安定だった。重い双極性障害と重度のうつ病と診断され、裁判所はまず精神科病院での強制治療を命じた。

 その結果は、俺の予想の範囲内だった。

 彼女にとっては、生きていることそのものが、死ぬより苦しいのかもしれない。


 裁判が終わった後、俺の生活は少しずつ元へ戻っていった。

 師匠はあらゆる人脈を使い、国内外で最も優れた手外科医を呼んでくれた。

 医師の判断は、決して楽観できるものではなかった。俺の右手の指骨と神経には損傷が残っている。昔のような繊細な動きを取り戻すことは、ほぼ不可能だと言われた。


 それでも、治療とリハビリを続ければ、もう一度彫刻刀を握れる可能性はあるという。

 良い結果ではなかった。

 けれど、絶望しかないわけでもなかった。

 少なくとも、希望は残っていた。


 それから半年、俺はほとんどの時間を病院とリハビリセンターで過ごした。

 治療、ストレッチ、鍼、握力訓練。毎日は、その繰り返しだった。

 圧迫されるたびに拷問のような痛みが走り、目の前が暗くなることもあった。それでも俺は歯を食いしばって耐えた。

 この手が本当に駄目になれば、藤原朔也は三年前に死んだのと同じだ。

 俺は諦められない。

 師匠の森川工房を守らなければならない。

 そして、かつて木を愛していた自分のためにも、生きていかなければならない。


 その日、俺はリハビリ室で握力ボールを握る練習をしていた。

 師匠が扉を開けて入ってきた。

 腕には、細長い木箱を抱えている。


「朔也。これを見てみろ」


 師匠は木箱を机に置き、ゆっくりと蓋を開けた。

 箱の中には、深い色をした木材が静かに横たわっていた。

 木目は落ち着いていて、長い年月を土の中で眠っていたような暗い光沢を帯びている。

 かすかな木の香りが漂った瞬間、俺の心臓がわずかに跳ねた。


「これは……千年古欅ですか?」


 半信半疑で尋ねた。

 千年古欅とは、長い年月を地中に眠り、掘り出された希少な木材だ。泥、水脈、そして果てしない時間を経て、ようやくこの深く落ち着いた色になる。

 現存数は少ない。

 硬く、重く、木目は深い。多くの木彫師にとって、一生に一度出会えるかどうかの素材だ。

 師匠はうなずいた。


「白石理事長が、古い所蔵品の中から探し出してくださった」


「良い素材は、それを理解する者へ渡すべきだそうだ」


「彼は信じている。お前なら、いつかこの木を目覚めさせられると」


 俺はまだ包帯の巻かれた右手を伸ばし、その千年古欅にそっと触れた。

 冷たく、静かだった。

 けれど、眠りから覚めるのを待っている命のようにも感じられた。


「師匠。俺は今、果物ナイフさえまともに握れません」


「焦るな」


 師匠は俺の肩を叩いた。


「手はゆっくり治せ」


「心も、ゆっくり治せばいい」


「この木はお前のそばに置いておけ。動かせると思った時に、刀を入れればいい」


 その日から、俺はリハビリを終えるたびに、その千年古欅の前に座るようになった。

 何度も何度も、頭の中で構想を練った。

 俺は何を彫りたいのか。

 観音か。

 仏像か。

 違う。

 どちらでもない。

 俺が彫りたいのは、新生だった。

 俺自身の新生。

 そして、この千年眠り続けた木の新生。


 さらに半年が過ぎ、右手の最後の固定包帯がようやく外れた。

 昔のような自由さには、まだ程遠い。彫刻刀を握ると震えも出る。それでも、軽い工具なら何とか制御できるようになっていた。

 俺は、刀を入れることを決めた。

 工房に自分を閉じ込めた。

 それから三か月、昼も夜も忘れた。

 手が痛みで震えると、作業を止めて冷やした。

 神経痛で眠れない夜は、木材の前に座り、木目を見つめながら夜明けを待った。


 三年間の屈辱、誤解、愛、憎しみ、痛み。

 そのすべてを、一刀ずつ木の中へ刻み込んだ。

 最後の一刀を入れた時、工房の窓から朝日が差し込んだ。

 新しい作品が生まれた。

 題名は――「雪を抱く枯枝」。


 作品が完成した日、師匠は森川工房で小さな鑑賞会を開いた。

 来たのは、日本の伝統工芸界で重みのある先輩たちやコレクター、そして数名の国立博物館の研究員だった。


 作品を覆っていた白い布が外された瞬間、全員が静まり返った。

 それは、雪の重みに折れかけた枯れ枝だった。

 枯れた枝の部分は荒く彫られ、ひび割れ、虫食い、腐朽の跡が生々しく残っていた。

 少し触れただけで崩れてしまいそうだった。

 けれど、その枝の最も細い先端に、小さな新芽が一つだけ雪を押しのけ、光の方へ顔を上げていた。

 新芽はとても小さい。


 だが、その葉脈まではっきり分かるほど繊細に彫られていた。

 死と新生。

 冬と春。

 絶望と希望。

 それらが一つの作品の中で、静かに向かい合っていた。

 余計な華やかさはない。

 激しい訴えもない。

 それでも、見る者は言葉を失った。

 長い沈黙の後、白髪の前辈が作品の前へ歩み出た。

 彼は手を伸ばしかけたが、途中で止めた。


「藤原朔也」


 その声は少し震えていた。


「君が彫ったのは木ではない。命だ」


 その日を境に、「雪を抱く枯枝」は美術界で大きな反響を呼んだ。

 数多くのコレクターやオークション会社から連絡が来た。海外の美術館からも高額で収蔵したいという申し出があった。


 最終的に、俺はその作品を東京国立博物館へ無償で寄贈した。

 俺にとって、それは商品ではなかった。

 俺の新生だった。

 藤原朔也という名は、再び木彫界へ戻った。

 今度は、汚名を背負った詐欺師としてではない。

 廃墟の中から立ち上がった木彫師として。



 6.遅すぎた最後の対面


 俺の仕事は、再び頂点へ向かっていた。

 三年前よりも、むしろ眩しいほどに。

 展覧会、注文、取材、共同企画が次々に舞い込んだ。俺は自分の工房を立ち上げ、才能があり、努力も惜しまない若い弟子を何人か取った。

 師匠から受け継いだこの技術を、これからも残していきたかった。

 日々は忙しく、穏やかだった。

 望月千春という名前は、もう俺の世界から完全に消えたものだと思っていた。


 そんなある日、精神科病院から電話がかかってきた。

 電話の向こうは、千春の主治医だった。


「藤原さん、こんにちは」


「望月千春さんの状態が、非常に悪化しています」


 医師の声には疲労がにじんでいた。


「彼女は誰とも話そうとせず、食事も拒んでいます」


「身体はすでに限界に近い状態です」


「この数日、彼女はずっとあなたの名前を呼んでいます」


「もし来ていただけるなら、彼女の状態に何らかの助けになるかもしれません」


 俺は電話を握ったまま、長く沈黙した。

 窓の外は初冬の午後だった。

 日差しは淡い。

 工房の庭の古い楓はすっかり葉を落とし、裸の枝が風に揺れていた。


「すみません」


「時間がありません」


 俺は最終的に断った。

 恨んでいるからではない。

 憎んでいるからでもない。

 ただ、もう必要がなかった。

 俺たちはすでに別々の世界にいる。

 会わないほうがいい。


 電話を切ると、俺は再び彫刻刀を握った。

 けれど、なぜか刀先が何度も意図した線から外れかけた。

 俺は道具を置き、庭に出て息をついた。

 遠い昔を思い出した。

 あれも、こんな冬の午後だった。

 俺と千春は森川工房の縁側に座っていた。彼女は俺の肩に寄りかかり、空を見上げながら言った。


「師兄。いつか小さな木彫店を開きたいね」


「あなたが木を彫って、私が手伝うの」


「東京にも行かない。面倒な展覧会にも出ない」


「ただ静かに、一生ここで暮らすの」


 そのころの彼女の目は、明るかった。

 俺も本気で、一生というものは長いのだと信じていた。

 スマホの震える音が、記憶を断ち切った。

 知らない番号からのメッセージだった。


「藤原さん。千春の母です」


「お願いです。あの子に最後に会ってやってください」


「もう、長くありません」


 心が沈んだ。

 結局、俺は行った。

 精神科病院は東京郊外にあり、外壁は白かった。

 温度を感じないほど白かった。

 病室の外へ着くと、廊下には千春の両親と親戚たちが立っていた。誰もが焦りと疲れを顔に浮かべている。

 千春の母は俺を見るなり、救いを見つけたように駆け寄ってきた。


「藤原さん、来てくださったんですね」


「お願いです。あの子を見てやってください」


「誰の言葉も聞かないんです。ただ、あなたの名前だけを呼んでいて……」


 俺は病室の扉を開けた。

 濃い消毒液の匂いが、鼻を刺した。

 病床には、骨と皮だけになった女が横たわっていた。

 かろうじて残る顔の輪郭がなければ、それが望月千春だとは気づかなかっただろう。


 髪の半分以上は白く、目は深く落ちくぼみ、唇はひび割れていた。手首には、濃淡の異なる古い傷跡がいくつも残っている。

 枕元の機械が、弱く、せわしない音を立てていた。

 心電図は、もう脆い一本の線に近づいていた。


 俺はベッドのそばへ歩いた。

 静かに彼女を見下ろした。

 胸の中にある感情は、うまく言葉にできなかった。

 足音が聞こえたのか、彼女のまつ毛が微かに震えた。

 長い時間が経ってから、彼女はゆっくり目を開けた。

 空っぽだった瞳に、俺を見た瞬間だけ、弱い光が差した。


「師兄……」


 声はほとんど聞こえなかった。


「来て……くれたの……」


 俺は何も言わなかった。

 彼女のひび割れた唇が震え、濁った涙が目尻から一粒滑り落ちた。


「ご……めん……なさい……」


「私……間違ってた……」


 彼女は苦しそうに手を上げた。

 俺をつかもうとしたのだろう。


「来世で……返すから……」


 その手は途中で止まった。

 そして、力なく落ちた。

 枕元の機械が、耳障りな長音を発した。

 線は、もう動かなかった。


 望月千春は死んだ。

 二十八歳の年に、最も痛ましい形で自分の人生を終えた。

 彼女の葬儀は簡素だった。

 家族以外に、弔問客はほとんどいなかった。

 かつて彼女の周囲に群がっていた富豪夫人、芸術界の名媛、メディア関係者たちは、きれいに消えていた。


 俺は最後の見送りに行った。

 墓地は山の斜面にあった。

 風が冷たい。

 彼女の墓前には、白い花が数束置かれていた。花びらが風に小さく震えている。

 俺は長い間そこに立った。

 泣かなかった。

 何も言わなかった。


 最後に、懐から接着剤でつないだ「月華」を取り出した。

 割れ目はまだはっきり残っていた。接着跡も醜い。

 それでも、もうばらばらにはならなかった。

 俺はそれを、墓前にそっと置いた。


「望月千春」


「これで、俺たちは何も残っていない」


 そう言って、俺は背を向けた。

 今度こそ、振り返らなかった。

 これから先、俺の世界に望月千春はいない。

 いるのは、藤原朔也だけだ。



 7.雪降る旧工房


 数年後、俺はフランスのルーヴル美術館で個展を開くことになった。

 日本の現代木彫作家が、あの場所で独立した展示室を持つのは初めてだった。

 展覧会は大成功した。

 ヨーロッパのメディアは俺を「東洋から来た木の彫刻師」と呼び、「雪を抱く枯枝」を東洋工芸と現代的な傷跡の美学を結びつけた代表作だと評した。


 展覧会最終日、主催者は俺のために祝賀会を開いた。

 会場ではグラスが触れ合い、フランス語、英語、日本語が混じっていた。

 俺は多くの芸術家やコレクターに囲まれ、あまり流暢ではない英語で質問に答えていた。

 金髪碧眼のフランス人の少女が、シャンパンを二杯持って俺の前に来た。


「藤原先生、一杯ご一緒してもいいですか?」


 彼女の日本語は少したどたどしかった。

 けれど、とても真剣だった。


「私は、あなたの大ファンです」


「あなたの『雪を抱く枯枝』を見て、長い時間泣きました」


 俺はグラスを受け取り、彼女と軽く合わせた。


「ありがとう」


 彼女は俺を見つめた。

 瞳は明るかった。


「一つ、質問してもいいですか?」


「あの作品には、とても深い痛みと、とても強い生命力があります」


「きっと背後に、大切な物語があるのでしょう?」


 俺はグラスの中のシャンパンを揺らし、少し笑った。


「誰の人生にも、雪の重みで折れそうになる時があります」


「大切なのは、春が来る前に、自分を折ってしまわないことです」


 少女は分かったような、分からないような顔でうなずいた。

 祝賀会が終わった後、俺は一人でセーヌ川沿いを歩いた。

 パリの夜景は美しく、川面には灯りが映っていた。

 けれど、心はそれほど揺れなかった。

 橋のそばまで来た時、俺はスマホを開いた。

 国内ニュースの通知が一つ、画面に浮かんでいた。


「かつての鷹宮財団御曹司、鷹宮啓介。服役中の態度が評価され、減刑により出所」


 記事には一枚の写真が載っていた。

 写真の中の鷹宮啓介は、安いジャージを着ていた。髪は白くなり、背中も少し丸まっている。

 かつて意気揚々としていた財団の御曹司はいなかった。

 そこにいるのは、疲れ切った中年男だけだった。

 記事によれば、鷹宮家はすでに破産していた。


 両親も、財団崩壊の後に相次いで亡くなったという。

 出所の日、彼を迎えに来た親族は一人もおらず、今はコンビニや工事現場のアルバイトで暮らしているらしい。

 俺はスマホを閉じた。

 遠くの灯りを見つめる。

 胸には、快感も同情もなかった。

 生きていても、もうとっくに死んでいる人間はいる。


 パリに一週間滞在した後、俺は日本へ戻った。

 飛行機が東京に着いた日、空からは小雪が落ちていた。

 俺は自宅にも工房にも戻らず、運転手に京都郊外へ向かうよう頼んだ。

 そこには、一軒の古い木造家屋がある。

 森川工房の最初の旧址だった。


 俺と望月千春が、幼いころから一緒に育った場所でもある。

 師匠が倒れた後、治療費のためにおかみさんが一度売った場所だった。

 俺は仕事が戻ってきてから、その家を買い戻した。

 それでも、ずっと中へ入る勇気がなかった。


 その日、俺は旧工房の門の前に立った。

 斑に色の剥げた木の扉を見つめる。

 扉の銅の輪は錆びていた。軒下の古い風鈴は半分壊れている。

 塀のそばの草は枯れ、薄く積もった雪が静かな白布のように荒れた庭を覆っていた。


 俺は門を開け、庭へ入った。

 庭の老楓は、まだそこにあった。

 木の下の石卓と石椅子には苔が生え、軒先には雪が積もっている。

 ずっと昔、俺はここで刀の握りを練習した。


 千春は窓辺に座り、真剣な顔の俺を見るのが好きだと言って笑っていた。

 俺は東側の小部屋の前へ歩いた。

 そこはかつて、千春が研磨を練習していた場所だった。俺たちが少年少女だったころ、最もよく過ごした部屋でもある。

 障子紙は破れ、中は空っぽだった。

 埃をかぶった古い木机だけが残っている。

 ふと、少女だったころの千春が見えた気がした。

 彼女は窓辺に頬杖をつき、明るい顔で俺を見ている。


「師兄、あなたはいつか日本一の木彫師になるよ」


「その時は、私が助手になる」


「私が不器用でも、嫌わないでね」


 人も、物も、時間も変わった。

 結局、すべては空だった。

 俺は庭で枯れ枝を拾った。

 雪はまだ降り続いている。

 地面には、薄い白が積もり始めていた。


 俺はしゃがみ込み、雪の上に二つの名前を書いた。

 藤原朔也。

 望月千春。

 俺はその二行を、長い間見つめていた。

 風が軒下を抜け、細かな雪を巻き上げた。


 すぐに、その二つの名前は少しずつ覆われていった。

 線がぼやけ、やがて完全に白雪の下へ消えた。

 戻れない少年の日々と同じように。


 俺は立ち上がり、枯れ枝を木の下へ戻した。

 そして、この旧工房を後にした。

 ここには、俺の青春と、痛みと、愛憎のすべてがあった。

 けれど、もう振り返らない。

 雪は音もなく降る。

 それでも、春は必ず来る。

 俺と彼女は、もう二度と交わらない。


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