もし、世界に触れることが出来るのなら、私はそれを『世界』と呼ぶ。
「く、ら、、げ、、、?」
目が覚めると、海月の上に浮いていた。これは夢なのか現実なのか。夢だとしたら、あまりにも現実的だ。
月明かりに照らされた凪の海。水面は輝き、星々は煌めいている。私は大きく深呼吸をする。潮風が混ざって肺に流れ込んできた。海月の上に仰向けになって夜空を見上げる。天の川にかかる白鳥。小さな熊。女神。はるか彼方にいる彼らを見つめる。
突然、彼らが歪み始めた。見ていたはずの景色が狂い、調和が崩れていく。波は荒れ始め、月は真っ赤に染まる。血塗られたような赤。空間のバランスが崩れて、理論が崩壊していく。大荒れの海から一匹の鯨が飛び出した。体を水面に打ち付けて蒸音と共に水飛沫が降ってくる。鯨は、もう一度飛び跳ねて水飛沫を上げる。そして、三回目。その鯨は水面を荒らすことなく、歪んだ空に飛んで行った。
自転車に跨って、坂を下る。制服のスカートが風に揺れている。遠くに入道雲が流れ、蝉が歌を歌っている。太陽が照り付ける。青すぎる空に、目の奥が沁みる。今更になって、日焼け止めを塗るのを忘れていたのを思い出した。住宅街を抜けて大通りを横切る。踏切を越えると、同じ制服に身を包んだ生徒が増えていく。セーラー服に学ラン。なんな、紺色のスカートをひらつかせて歩いていく。男子の黒い長ズボンを見るたびに「暑くないのかな」と思う。校門を抜けて自車置き場に停める。下駄箱で靴を履き替える。途中の自動販売機でジュースを買ってから教室に入る。クーラーで寒いくらいに冷やされた教室。毎日、同じ時間に同じ生徒が入ってくる。三年目にもなると、朝の動きが定番化するのだろう。朝からお菓子を食べている女子もいれば、ゲームに夢中な男子もいる。
教室に刺している陽の光が、ものすごく眩しい。カーテンでシャットアウトしても入ってくる。一番窓際の一番後ろが私の席。目立たないから、私にとって落ち着く席だ。始業のチャイムが鳴って、先生が教室に入ってくる。淡々と話し出す声に耳を傾けることなく、外の景色を眺めた。校庭の赤い土の先に小さく見える高層ビル郡を見つめていた。
「自由になりたい」何度、神様に願っただろうか。何かに固執されている気がして、縛られている気がして。「自由」って何だろう。学校に行って家に帰る。この流れる様に過ぎていく日々に嫌気がさして、たまらない。何処か、何にも縛られず自由になれる場所に行きたい。
三時間目の授業が始まった。
「二十四節気、七十二候。皆さんは知っていますか?」
意識していないのに、その言葉が耳に入ってきた。何故だろうか。
「これは、一年を二十四個と七十二個の季節に分けて、それぞれに名前を付けたものです。」
普段なら意識して、集中してノートを取る事はないのに、この授業は真面目にノートを取った。
「今ぐらいの季節は、そうね、『温風至』かしらね。」
先生の声が深いている。話をしながら黒板に文字を書く後ろ姿が目に入った。綺麗な、いや『美しい』と言った方が似合う字で書かれた文字を見つめた。生き生きとしている文字が並んでいて、黒板が一枚のキャンバスになったかの様だった。
「これは、ほかにもあるので皆さんで調べてみてくださいね。」
二十四節気、七十二候か。初めて聞いた言葉だった。四季しかないと思っていたのに、それをさらに細かく分けているなんて。まるで、初めて読む小説に出会ったみたいだった。
こんなにも、一つのことに興味を持ったのは久しぶりな気がする。自分の考えていることが自分でも分からない時がある。
決して、誰とも共有できない世界がある。自分だけの世界。誰も入れない、干渉できない、そんな世界だ。その反面、私は『世界』に独りぼっち。一人で悩んで、一人で解決する。共有できない悲しみや、理解してくれない苦しさ。たまに、それらに負かされることもある。そう、私は常に一人だった。
放課後、夕陽が傾いた教室で一人、本を読む。今読んでいるのは単純な推理小説。推理小説と言っても、愛の本質について語っている。この時間が私にとってどれだけ幸福だろうか。思いのままの想像で、自由な解釈ができる。小説は空と一緒だ。色を変えて、雲を連れて、気の向くままに流れる。
遠くで、野球部の掛け声や、吹奏楽部のトランペットの音が聞こえる。放課後の教室に一人。これには妙な優越感がある。何故なのだろう。ただ、この優越感には『寂しさ』が存在している。
読者に集中していると。急に教室のドアが開いた。『現実』に引き戻された。入ってきたのは男子生徒だった。
目が合う。彼の目は丸く見開いていた。まるで、珍しいものを見るようだ。
「そこ、俺のいつもの場所なんだけど。」
頷いた。彼から私と同じ空気を感じ取った。何処となく落ち着いていて、孤高な人のような感じがした。
「え?」
私は小さく口を開いた。今まで見たことがない生徒だと思う。そんな人に、急に邪魔だからどけ、と言われても、理解ができない。
「だから、そこは、俺がいつも使ってる席だから、どいてくれませんか。」
はっきりと言われて、ようやく理解した。ごめんなさい、といって私は席を立った。
彼はスケッチブックを持っていた。私は、彼が座るのを確認して、教室を出ようとした。でも、それ以上に何かを感じた。
「あの。絶対に音とか立てないし、干渉しないから、ここで本を読んでても良い?」
すると彼は、何も言わずに私の二つ隣の席を指さした。音を立てないように座る。読書を再開すると同時に、シャーペンの音が鳴り始めた。
何を描いているのだろう。彼の横顔は凛としていた。集中して周りの音を一切、自分の中に入れない。
三十分ほど経って、私は口を開いた。さっきの約束を破る形にはなるけど。
「あ、あの、、、」
うまく話せなかった。今になって改めて、自分のコミュカ不足に嫌気がさす。
「、、、何?何も音を立てないって言ったよね。」
少し鋭い目で私を見つめてくる彼に、少し怖くなった。
「ごめん。でも、何を描いているのか気になって。それに、私は音を立ててないけれど、貴方はペンを走らせる音、立ててるよ。」
「言ったところで、お前に関係あんの?それに、絵を描くのに音を立てないって、生きるのに呼吸するな、と同じだろ。」
その通りだ。別に、誰が何を描いていようと私にとって全く関係ない。全ての論理が、正しい。もしかしたら、彼を怒らせてしまったかもしれない。
少し後悔した。
「別に、そこまで上手くないけど。」
しばらく黙り込んでから、彼は私にスケッチブックを手渡した。その中を見ると、あの都会のビル群が描かれていた。白と黒の絵なのに、私にはそれが青く見えた。確かに青く見えた。一本一本の線が混ざり合って、融け合って、重なって、形を作る。見惚れていた。彼の世界観に惹き込まれた。初めて、他の『世界』に入った気がする。びやかな空間に入って、しばらく抜け出せなかった。
「もう、、良い?」
彼の声で、現実に戻る。
「あ、、、ごめん、、」
申し訳ないことをしたかな。少し反省した。
「それじゃ、俺は帰るから。」
彼が数室を出ようとして、ドアの取っ手に手をかけた時だった。いつもの私だったら絶対にしないことをしていた。
「名前、教えてよ。」
私から他の人の名前を聞くことなんて無いのに、その時は違った。彼のことを。知りたいと本能的に思った。
「瀬凪。」
そう言い残して、彼は足早に教室を去っていった。
学校を後にして、自転車を走らせる。朝と同じ道を通る。踏切を超える。駅前の喫茶店に自転車を停めた。
「こんにちは。」
ドアを開けて店内に入る。
「学校、お疲れ様。今日も、よろしくね。」
店長が声をかけてきた。私は軽く会釈をして奥のロッカールームへ入っていった。
この喫茶店は私が小さい頃からずっとある。たまに、日本に帰ってきたときに家族で訪れたこともある。いわば、老舗喫茶だ。老若男女問わず、多くの人が訪れる。私の学校の生徒も、先生もよく来る。ちゃんとバイト届も出してるし、生徒には私が働いていることは知られていない。むしろ、同じ制服を見かけても、何とも思わない。言ってしまえば、ただの「お客様」だ。
「あ、和葉ちゃん。今からシフト?」
この人は藤森美咲。大学生だ。私の二つ年上で、バイト歴も先輩だ。
「藤森さん、こんにちは。今日は、ラストまで入れてます。」
「働くねえ、ま、私もなんだけど。と言うか、ちゃんと勉強してんの?高三でしょ。」
確かに、高校三年生にもなってバイトをしている人は、そんなにいないだろう。よほどの事情がない限り勉強に専念するのが『普通』だ。
「私、推薦で芸術大学志望なんで、そこまで考えてないんです。ほら、美術館の隣にある芸術大学、あるじゃないですか。」
小さい頃からずっと芸術に触れてきた。特に、音楽。幼稚園の頃からずっとピアノを習っていた。しかも、両親ともに音楽家で、ある程度有名だ。両親は、そこの大学の音楽科を卒業した。そのせいか、私も同じ大学を志望している。
「ああ!あそこね。結構、倍率高いんじゃないの?人気だし。芸術系志望の人みんなが憧れる場所じゃない。まあ、好きな人生を歩んだらいいわ。こんな、フラフラしてる大学生にならなきゃいいけど。」
自虐のように笑いながら言った。藤森さんみたいに、気楽に、自由に生きたいな。何というか、この人は「お姉さん」という言葉が似合う。何かにつけて面倒くさがりだけど、ちゃんと仕事はするし、私がミスをしてもそっとフォローしてくれる。さっきみたいに、進路のことについても話すし、この前も一緒に買い物にも行った。バイトでもプライベートでもいつでも信類できる人だ。たまに、彼女の大学での交友関係が気になる。確か、一度だけ大学でのことを聞いてみた。
「私なんて、大学での話はまともに聞いたことないわ。面白くもなんともないし。授業はつまんないし、彼氏も出来ない。あ、でも教育実習は楽しかったな。」
なんて言っていた。まあ、あんまり現らないでおこう。彼女の人生だ。
「さ、仕事始めますか。」
「そうですね。」
ふたりでロッカールームを後にした。
平日の夕方は、常連客以外、あまり人がいない。店長も、カウンターの席でお客さんと会話をしている。たまに生徒がデートしてたり、女子が集まって女子会を開いたりしている。仕事も、あまり多くなく、コーヒーを淹れたり軽く料理をしたりするくらいなので忙しくない。
「和葉ちゃん、注文ね。コーヒーとシフォンケーキ。コーヒーはブラックで良いよ。」
「分かりました。」
席を訊くと、常連のおじさんが窓際の席に座っていた。いつも同じ時間に来て読書をしている。目が合ったので軽く会釈をした。そのおじさんは、軽く微笑んでくれた。
コーヒーを淹れるのは何杯目だろう。バイトを始めたときは何も分からなかった。豆の挽き方すら知らなかった。味の強いや香り、種類も全く知らなかった。それが今では少しは分かる。普段からコーヒーを飲んだりはしないけど、香りは好きになったし、ミルの音が心地いい。やっぱり、ここでアルバイトをしていてよかったと思う。
「店長、お疲れ様です。」
「おぉ、お疲れ。気を付けて帰ってね。」
「失礼します。」
夜十時半。店は閉まり帰路につく。夜になっても暑い。湿気が多くて余計暑く感じる。もっと空気が乾いていたらいいのに。
自伝車を潤いで坂を参っていく。この時間になると、人出もなく街灯が点いているだけ。この坂を登りきったところにある公園に入る。近くに自伝車を停めて、人気のなくなったベンチに腰掛ける。コンビニで適当に買ったサンドイッチを食べる。併間の中で無機質に光を放っている自動販売機。遊具は眠っている。ここにいると時間が止まったようで少し怖い。それでも、この空間が好きだ。
時計に目をやると十一時をまわっていた。公園を出て、自転車を押しながら歩く。登ってきた坂道を進むと、私の家がある。玄関の外灯が消えていて、もぬけの殻だ。それもそのはず。両親は今、海外にコンサートに行っている。日本には来月未まで帰ってこないらしい。こういうことは何度も経験している。私が十二歳になるまでは、一緒に世界中を回っていたけど、中学校に進学するタイミングで両親は私を日本に残していった。きっと、私に興味がなくなったんだろう。
悲しくもなかった。仕事のことしか考えない両親と一緒にいても、私が気疲れするだけだったから、むしろ好都合だった。一度、興味を失った存在に、人間が再び興味を持つことはありえない。
玄関を開けて電気を点ける。無駄に広い玄関に、スニーカーとランニングシューズだけが寂しそうに寄り合っていた。ローファーと靴下を脱いで、リビングに荷物を置く。リビングにあるのは殆ど座らないソファと、付けたことのないテレビ。テーブルに積み重なっている郵便物。それらには一度も目を通したことはない。そのまま資源ごみとして出している。
洗面所で手を洗って髪を下す。右後ろに金のインナーカラーを入れた髪。高校入学の春休みに美容室で染めてもらった。学則で髪染めは禁止されているらしいけど、先生は黙認している。そのままシャワーを浴びる。今日一日分の汗が流れていく。高三になって体つきが大人びてきた。こうして心も体も『女性』になっていくんだろうな。
冷蔵庫からエナジードリンクを取り出してタブを開ける。夏の夜のシャワー後のエナジードリンクは格別に美味しい。そういえば、ストックが無くなりそうだから買い足さないと。これを得ると、世の中がどうでも良くなる。何でも出来るような気がする。頭の中だけでなく、体も心も軽くなって、自由に羽ばたける。周りにある世界から切り離されて、頭の中にある空想が眼の前に『現実』として広がる。その瞬間、全てが吹き飛ぶ。もし、この世が空想だけで組み立てられれば、どれほど幸せだろうか。だけど、その空間が秩序も何もない、混沌とした空間になってしまうことは明白だけど。それでも、その空間に行きたい。
自室に入ってパソコンを立ち上げる。画面に作りかけのDTMが表示された。DTM用とゲーム用、ノートパソコン。とれもスペックの高いものにした。DTM用とゲーム用に関しては、自分で一から組み立てた。CPUも品質の良いものだし音も静かだ。おかげでゲーム画面も滑らかに動く。ゲームなんてたまにしかやらないけど。音楽を作るときは一曲の容量が大きいから一回ずつ外付けのメモリに保存している。
音楽を作りたいと思ったのは中学生の時だった。携帯で動画を流し見しているときに流れてきた局に感動した。調べてみると、パソコン一台で作ったものらしい。しかも作った人も結構有名な人だった。その時、私も作ってみたい、そう思った。
周りに反対されようが、せつかくのチャンスを無駄にしたくない。そう思って作り始めた。ピアノを習っていたおかげで、曲のイメージをするのは簡単だったし、何より楽しかった。初めてできた曲に自分で感動してしまった。ネットや動画投稿サイトにアップロードはしないけれど、これからも趣味として続けていきたい。今回の曲で、七曲目になる。過去の作品はこのひとの丁部に保存してある。この曲は、東京のネオン街をイメージして作っている。メロディは決まっているけど、それに各わせるピアノが決まらない。結構、激しめのピアノラインを入れたくて、試行錯誤をしている。色んな曲からインスピレーションを受けているけど、なかなか決まらない。そうして、ただ時間だけが過ぎていった。
窓から入る光で目が覚めた。どうやら、昨日のまま寝落ちしてしまったらしい。携帯で時間を確認すると九時を過ぎていた。でも、もうその頃には、遅刻してでも学校に行く気力なんて皆無だった。ベッドから身を起こして部屋を出る。足が動に痛い。
ゆっくりと階段を降りてキッチンで冷蔵庫を開ける。いつものようにエナジードリンクを明けて寝起きの体に流し込んだ。
顔を洗って、暖をとかす。ハイライトの入っていない目。死んだような虚ろな目。それが、私の心を見透かしている。低い重低音がどこかで響いていた。部屋に戻って、クローゼットを開ける。広い空間の中に、両手で収まる程度の服が掛かっている。オーバーサイズのTシャツと膝上までのプリーツスカートを着る。財布と学生所を持って家を出る。いつもの自車に乗り込んで、坂を下る。バイト先の喫茶店を通り越して駅前の駐輪場に自転車を停めた。券売機でICカードにお金を入れて、都心方面の電車に乗り込んた。電車のなかは冷房が効きすぎていて寒いくらいだった。平日の朝ラッシュを過ぎた車内はそこまで混んでなかった。
こうして学校を休むのは久しぶりだ。平日の、いつもなら学校のある時間に、こうして自由に過ごす。今日は、ずっと行こうと思っていた美術館に行くつもりだ。志望大学の隣にあるし、あわよくば大学に入れたら、なんて思っている。ヘッドホンで音楽を聴きながらドアの隣に立って外を眺める。空には夏の雲が浮いている。窓から学校が見えた。この時間は二時間目ぐらいだな。今日は確か世界史だった気がする。
二十分ほど揺られて、目的の美術館の最寄り駅に着いた。大きな公園の中にある美術館だ。公園は木が植えられていて、木陰がいくつも出来ていた。おかげで少しは涼しく感じる。駅の中で買った水を飲んだ。どうせなら、家から持ってくればよかった。美術館は公園の真ん中の方にある。道中、幼稚園児くらいの親子と老夫婦とすれ違った。あまり人がいない。時折、暑い風が吹いて木が揺れる。
大きな池を回ると見えてくる建物が美術館だ。学生証を提示したおかげで無料で入れた。受付の人に少し不思議な顔をされたけど、そんなのはどうでもいい。中に入ると、暗い荘厳な雰囲気が漂っていた。今月は近代ヨーロッパ店が開かれているらしい。一つひとつ作品を見ていく。ミレー、モネ、ルノワール、シャルル、ハント、マネ、ルング、ゴヤ、多くの作品が並んでいた。一枚の絵画に見えるストーリーや背景を考えるのが好きだったりする。世界的要素を知っていると、より一層深く考察できる。そういえば、志望大学の入試にも世界史が必須科目だった気がする。歴史と文化のつながりが面白い。
音楽にしろ、絵画にしろ、彫刻にしろ、『文化』と『歴史』は表裏一体だと思う。
ゆっくりと時間をかけて回る。時間だけが過ぎて行って『自分』という存在を忘れてしまう。頭のなかが作品で埋まっていく。どんな意味が込められているのか。何故、この作品を描いたのか。そんなことを考えながら回った。
私の目に一つの空間が映った。ある作品の前のベンチで必死にシャーペンを動かしていた。その姿は、その空間だけを切り取った『絵』だった。私はその『絵』に違和感を覚えた。あの姿、どこかで見たことある気がする。すると、絵の中の人が私を見つめてきた。不思議そうに私を見つめている。その作品の中に入りこんでいく。彼はベンチに座っていたので、見下ろす形になった。
「、、あなたは、、、」
「、、、、平日の昼過ぎに何してんの?」
「それは、あなただって同じでしょ、、、」
この話し方、やっぱりそうだ。この前、教室に入ってきた人。確か、結城瀬風だ。
「俺が、お前の顔だけ覚えていてもしょうがないんだけど。名前、何?」
二回しか会っていないのに、こんな高圧的な態度に苛立ちを感じた。
「志賀和葉。」
「、、何年?」
「三年、、、、二組。」
「俺と同じ学年か。」
私と話していても彼はベンを止めなかった。目に入ったスケッチブックの中には。モノクロの作品が模写されていた。
「座んないの?」
「、、、え?」
不意に聞かれたからか、情けない声が出た。
「そこに立ってても邪魔だから。」
それもそうか。ただ、ベンチの前に突っ立っている。いくら人がいないとはいえ、さすがに目立つ。彼の前を通ってベンチに腹掛ける。我ながら、この状況を不思議に思う。この前、初めてあったであろう人と美術館で隣り合って座っている。彼と同じ作品を眺めてみる。その絵は朝焼けに照らされた二軒の家が描かれているものだった。家が輝いていた。どことなく、懐かしい雰囲気を感じる。彼を見つめると真剣な眼差しをしていた。ただ、彼の隣で座って、その絵を眺めた。
三十分ほど経った頃、シャーペンがスケッチブックを走る音が止まった。どうやら終わったらしい。彼は息を吐いてゆっくりと立ち上がった。私も釣られて立ち上がる。
彼の後ろを、少し離れた距離を保ちながら追いかける。どんな表情なんだろう。右脇に挟んだスケッチブック。その中には幾つの絵が描いてあろんだろう。
「何で、付いてくるの?」
鋭い目つきで私に聞いてくる。
「、、、特に理由はないけど、何となく、、、?」
「、、、あっそ。」
それ以外、何も言わなかった。自分自身でも分からないが、こうしていると不思議な気分になる。
「ねえ。」
私は静かに呟いた。
「 何?」
尖った目が私の心を突き刺している。
「この後、、、時間ある?」
まただ。自分の本心とは全く違うことをしている。決して、彼とどうこうなりたいなんていうしい気持ちはないのに。
「ある。」
彼は、携帯で時間を確認して、一言呟いた。
私達は美術館に併設されているカフェに入った。
「ごゆっくりどうぞ。」
目の前にアイスティーが置かれる。彼はアイスコーヒーをブラックのまま飲みだした。
「で、俺に何の用なの?」
そう口にして、私を見つめてくる。
「単純に、あなたの描いてる絵が、気になって。」
思うように口が動かなくて、言葉が途切れ途切れになってしまう。
「それは、昨日見せたでしょ。」
確かに見せてもらった。あの青い都会を。
「嘘。あれの他にも描いてるんでしょ?」
「、、、まあ。」
すると、彼は渋々ではあるが、私にスケッチブックを渡してくれた。その中に書かれていたのは、この前の青い世界だけではなかった。1つのデッサンを何度も書いていて、それぞれに『色』が見える。
そこから私たちは少し雑談をした。主に美術についての話だった。彼曰く、今日美術館にいたのは私と同じく勝手に休んで来たそうだ。さらに、時々こうして学校を休んで色んな美術館に行っているらしい。こういう会話をするのは生まれて初めてだった。心の中がシュワシュワと音を立てて弾けていく。どうか、この時間が永遠に続きますように。
最寄駅に帰ってきたときは、もう六時を回っていた。
「それじゃあ、私は帰るね。なんか、いきなりごめんなさい。」
そういうと、彼は私の家とは反対方向に歩いて行った。その背中を見つめる私はどんな表情だっただろうか。心の底からの感情だろうか。それともうわべだけの感情だろうか。
自転車に跨って加速していく。途中、バイト先の店の前を通ると店内で薬森さんが接客をしているのが見えた。いつもなら不快な夏風が今日だけは心地よく感じた。じっとりと体から溢れ出してくる汗も、今日だけは冷たくて気持ちよかった。夜になっても不思議な感覚は滴えなかった。あまり覚えていないが、今日は夢の中にすっぽりと堕ちることができた。
朝はいつもとは違って、自然と目が覚めた。時間を見るとまだ五時半だった。この時間でも窓から入ってくる光が本棚を照らしていた。玄関を開けて、まだ涼しい空気の中で雀が鳴いていた。
思いっきり伸びてみる。全身の筋肉がほぐれるように。少し身長が高くなったように感じた。目線が上がって、全身の緊張が解けていく。空を見上げると青い空が透き通っていた。今日は珍しくちゃんとした朝食でも食べていこうか。そう思って、適当にパンを焼いてスープを作った。ついでにカフェオレも淹れてみた。いつもは、ブラックのコーヒーにするけれども、今日は、少し甘めのカフェオレにした。温めたミルクに、コーヒーの粉を混ぜ込んだ。
制服に着替えて家を出る。夏の空気が始まり、しばらく立ったのに、体がまだ、それに慣れていない。一体、何月まで暑いのだろう。そろそろ、この暑さにもうんざりしている。
自転車を停めて教室に入ると普段と変わらない光景が広がっていた。そういえば、もうすぐで夏休みが始まる。どうせ両親は帰ってこないし、自由気ままに過ごそうか。期末テストの返却も終わって学校に来てもずっとHRばっかりだ。無駄な「進路」の話ばかりで、頭がおかしくなりそうだけど。みんな、それを真面目に聴いている。きっと、洗脳されているのだろう。でも、一つだけ言いことがある。学校は午前中で終わる。おかげで、私はバイトのシフトを多く入れられる。本当なら受験勉強をするべきなのだろう。幸い、勉学に困っていることはない。それよりか、勉強する気になれない。最後の高校生活ぐらい満足のいく日々を過ごさせてほしい。
あの日から二週間ほどが過ぎた。彼ともたまに連絡を取り合っている。頻繁にやり取りはしていないけれど、その時間が意外に好きだったりする。先週の日曜日には一緒に別の美術館に行ったりもした。彼はスケッチブックを肌身離さず、ずっと持っていた。私があの中に入ることはあるのだろうか。
いつもの場所へ向かう。彼は、教室の後ろで一心不乱にペンを動かしていた。気付かれないように、そっと隣に腰を下ろす。この空間に二人きり。私は、隣で本を開く。栞を机の上に置いて読み始めた。
その動かない『絵』は夕陽に照らされて切り取られる。6時ごろになって、ようやく二人で学校を後にする。途中まで一緒に歩いて帰った。日が長いせいか、二人の影が伸びて並んでいる。彼の方が少しだけ長い。
今日は、彼と別れてからバイト先に向かって自転車を漕ぐ。一週間ぶりのバイトだ。今日は確か藤森さんとシフトが同じだった気がする。
「おおー。和葉ちゃん。」
「こんにちは。今日もよろしくお願いします。」
「よろしくー。」
いつもの様に挨拶をしてから仕事を始めていく。常連客と話している店長に会釈をしてキッチンに入る。窓際の席にいつものおじさんが座っている。今日も本を広げてコーヒーを飲んでいる。
バイト終わり、ロッカールームで着替えていると藤森さんが話しかけてきた。
「そういえば、和葉ちゃん、最近良いことあった?」
「え?」
突然そんなことを言われて驚いた。
「いやー、最近の和薬ちゃん見てるとさ、妙に幸せそうなんだよね。」
自覚が無かった。いつもと変わらない表情をしているはずなのに。
「もしかして、恋とかしちゃってる感じ?」
冗談を言うように聞いてきた。この人の、こういう当たり降りのない雰囲気がみんなから好かれるところなんだろうな。
「、、、、分からないです。」
ほっそりとした声が漏れた。私はどうしたいのだろう。どうなりたいのだろう。
「え、私、ちょっと気になっちゃってるんですけど?まあ、歩きながら話そっか。」
私は、何も答えられなかった。
着替え終わった私たちはロッカーの鍵を閉めて店長に挨拶をした。
「それは、、、恋っていうんじゃないかなあ。」
「そうなんですか?」
私は心の内を話した。
「だって、その男の子の事が気になる訳でしょ?それは恋よ。」
「でも、彼とどうこうなりたいとかありません。」
「そうは言ってもねえ。まあ、恋愛はよく分からないけど、私が思うのは、その人とちゃんとしたセックスができるかどうかだと思うな。」
いきなり、とんでもないことを言う先輩に、私は目を丸くした。
「何言うんですか!?」
思わず、私にしては大きな声が出た。それに、余計に暑く感じる。
「まだ致してない感じかあ。でも、大事なことだと思うよ。だって最高の愛情表現じゃない。詳しくは分からないけどね。」
「そう、ですけど、、、」
「とにかく、じっくり考えな。簡単に流されないようにね。この世には、弱みに付け込む悪い男もいるからね。」
そう言い放って葉さんは歩いて行った。
「セックスができるかどうかなんて、高校生に言わないでしょ、、、」
自転車に乗りながら呟いた。そんな関係になりたい、なんて望んだことも無いし、そこまで望まない。そもそも私が彼に『恋』しているのか
すら分からない。でも、彼と一緒にいると落ち着くし、その空間が好きだ。安心感もある。これは『恋』と言うのかな。
全身を突き上げるような快感が私を包む。指から放たれる不思議な魔力に溺れていく。溢れ出た液体が滴っていく。一滴。一滴。全身の力が抜けていく。思わず漏れた声が私をさらに狭くする。目の前が真の白になったかと思うと、もう一度見えてくる朧げな姿。それを追いかけようとするけど全身が痙攣して動けない。再び包み込む快感。もう一度、もう一度だけでいいから、あの快感に溺れたい。そう思って角の取れた体を撫でた。
窓にあたる雨音で目が覚めた。昨夜から降り続いている雨。じっとりとした重たい空気がわりついてくる。こんな日に家を出るのはあまり好きではない。
いつもなら、雨でも自転車で学校へ行くか、休むのに、今日は無性に生きたくなった。でも、合羽を着るのが面倒くさくなって歩いて学校まで向かう。いつもより早く家を出た。靴下が濡れなければ良いな。
少し歩けば、駅に向かうバスの停留所がある。駅までの間、適当に音楽を願いて過ごした。窓から外の景色を見ても、バスの中の広告を見ても、何にも思わない。冷房の風が冷たすぎて何度も腕をこすった。いっそ、このまま電車に飛び乗ってどこか遠くまで行こうか。そうすれば私を包み込む『世界』から解き放たれるのに。
最近、夜になると無情な寂しさと虚しさを感じる。何かに飢えているのか、それとも求めているのか。あの日に感じた眩しさなんて、今となっては空っぽ同然になった。
誰に願わずとも勝手に流れる時間に、見たくもない現実に、逃げたいこの世界に、私の後ろ髪が引かれ続けている。忌まわしい過去に目を背けたい。
酷い過去と同じものを私達は積み上げていかないといけないの?
自分の本心を口にすれば、見えない力によって消されてしまうの?
過ちに対して何もしてこなかった過去に練られるのはもう嫌だ。
皆が口を揃えて言う。同じような服を着て、同じような表情で、同じような毎日を繰り返す。『幸せだよ』なんて言いながら、目は死んでいる。訳の分からないレールの上を強制的に歩かされて、搾取され、力に屈して、自分を満足させる。それは、本当に『幸せ』か?
甘い言葉で言われて強制的に飲まされる『劇薬』。行きたくもないのに連行される『楽園』。下手くそな言い訳で潰される『個人』。それなのに、自分が守るべき存在を付じて『幸せ』を妄想する。『これを我優すれば』と妄想する。
逃げる勇気がなくて、死に絶えるのが怖くて、後ろ指をさされるのが気持ち悪くて、本心が分からなくなって、仕方なく続けている。社会の駒として使われても、不当な課題を課せられても、自分で作った『笑顔』で『喜んで』遂行する。いい加減そのポーカーフェイスを破り捨てて、楽になればいいのに。
でも、分かっている。認めたくないけれど、それが『現実』だと理解している。その『笑顔』の下にある、苦しみ、憎しみ、怒り、悲しみ、嫉妬、絶望、でも、皆が、それ以上に自分を守るのに必死なんだ。結局、自分さえ良ければ、それで良いんだ。そんな世の中に嫌気が差して、不情な『現実』から逃げたくて、少しでも楽に生きたくて『世界』を作り出したのに。逆にその『世界』に縛られて、逃げられなくなって、八方寒がりになっている。この空間から解き放たれたい。ねぇ、貴方の名前を呼んでいいの?
授業中、何処か落ち着かない。奇妙な暗い空のせいで遠くの高層ビル群が見えない。淡々と過ぎていく時間。クラスのみんなが黙々とノートを取る。みんな、何を目的に生きているんだろう。このまま勉強して、大学に行って、就職して、ポーカーフェイスを被る。学校で教わったことは、従順の方法と、マスクの被り方。そして、その『価値』のない人生の送り方だ。私は、そんな生活はしたくない。決して特別な存在になりたい訳ではない。ただ、みんなと同じように生きて、同じように死んでいくのが嫌なだけだ。典型的な『人間』になりたくないだけだ。『現実』を飲み込ませ、諦めさせる不合理な『世界』に生きるくらいなら、私は死を選ぶ。
放課後、いつもの様に彼の教室に行った。彼の姿が目に入ってくる。隣に座って本を開く。私は何も考えずに口を開いた。
「ねえ、毎日同じことを繰り返してて楽しい?」
「急に何?」
そこから私は止まらなくなった。頭では何も考えていないのに、勝手に言葉が溢れてくる。
「あなたは、いつも絵を描いている。それは楽しいことなの?」
「俺にとって絵は『楽しいこと』と言うより、俺の『存在』そのものだから、絵を描くことに感情なんてない。俺は、描くことで自分が『存在』出来る。俺から、絵を奪い取ったら、その瞬間、俺は、死ぬ。」
「そっか。」」
少しの間、沈黙が流れる。
「ねえ。」
私は、口を開いた。
「何?」
「私を描いてよ。」
「良いけど、人物画なんて描いたことないから、あまり期待しないでほしい。」
「違う。私じゃなくって『私』を描いて。あなたの『存在』そのものになりたいから。」
雨の中、二人で歩く。傘にあたる雨音が乾いたように蒸いた。普家は行かない場所に行くような感じで妙に浮ついていた。
玄関が開けられると『彼』の匂いが広がった。靴を脱いで彼の後ろを付いていく。私の家とは全然違う雰囲気だった。扉を開けると、リビングが広がった。
「俺の部屋、二階の右奥。先行ってて。」
階段を上って部屋に入る。机の上には見慣れたスケッチブックが散らかっている。本棚には美術関係の雑誌や本が並んでいて、部屋の真ん中には丸い木製のスツールとキャンバス台ある。床は、スケッチブックから剥ぎ取られた紙が散乱していて、フローリングが見えない。
「描いてって言われてもなあ。」
そう言いながら彼は部屋に入ってきた。
「そこまで上手くないけど、、、」
あまり自身が無さそうだ。
「まあいいや、そこに座って。」
彼が指さしたのは机とセットなのであろう木製の椅子だった。
「それか、ベッドの上でもいいけど。」
恐らく、冗談で言っているのだろう。それじゃあ、私も対抗する。
「ベッドの上。」
私は一応、靴下を脱いで、ベッドの上で体勢を作る。
「どんなのが良いの?モデルなんて分からないから。」
「楽なら、何でもいい。」
「それじゃあ、こういうのはどう?」
私は、セーラー服の胸元のリボンを解く。布の擦れる音が暮く。床に落ちたリボンが無造作な形になった。服を脱いでスカートのホックを外す。足を囲むように広がった布。そこで初めて、下着姿になったと理解して、少し恥ずかしくなった。それでも、この欲は止められない。更に、下着を脱いで彼の前に立つ。呆気にとられている彼を気に掛けることなく、私はベッドうえで形作った。
彼のぺンの音が閉こえてくる。一本ずつ丁寧に描いてくれているのが伝わってくる。時々、目が合うとすぐに逸らされてしまう。はずかしいような、悲しいような、複雑な気持ちだ。ペンと時計の秒針の進む音だけが部屋に響いている。どれくらい経ったのだろう。音が止んだ。
「終わったの?」
「、、、とりあえず。」
さっきから、ずっと目が合わない。少しだけ寂しい。無言で渡されたスケッチブックにははっきりと『私』が写っていた。細かいところま
で精巧に描いてくれた。鏡で見る私よりも生き生きして、ちゃんと血が流れていた。心臓の鼓動で、全身の血管が脈打ち、生を実感できた。
それに、美しさを纏った『私』がいた。でも、せっかく描いてくれたのに、不思議なことに、彼に対して小さな怒りが湧いてきた。
「ねえ、いつになったら私を見てくれるの?」
無言の返事が返ってくる。
「いい加減、私を見てよ。」
すると、何かに襲われるようにベッドに押し倒された。目の前にある顔はよく見えなかった。それでも、彼の息遣いと赤くなった頬は、はっきりと感じた。
私は少し嬉しくなった。そして、生まれて初めてのキスをした。初めは優しく。次第に強く激しくなっていった。そして、初めてのセックスをした。全身が心地よくて、離れたくなくて、強く抱きしめ合った。私の中に何かが注がれて、次第に心が満ちていく。
そうか、私が求めていたのはこれなんだ。今まで望まなかったけど、本当はこんなにも求めていたのか。『愛』が無くて、あんなにも苦しい毎日だったんだ。
全身が溶けて絡み合っていく。気取らなくて良い。無理しなくて良い。甘えて良い。そう思っていいんだ。初めて『私』という存在価値を見出せた気がする。
今まで、自分と相手の間に境界線を引いていた。本当は見えていた、扉の奥の現実にも、知らず知らずのうちに鍵をかけていた。そうして『私』と現実を切り離して、区別して、人を選別していたのに。私の『世界』に入れる、僅かな存在だけで自分を守ろうと、必死になって逃げ続けていたのに。全く知らない存在に侵入されないように、常に注意を払い続けてきたのに。
私の一部になれるのは、ごく僅かな存在だけ。久しく増えていなかったそれが、一つ増えた。
晴れた空の下をふたりで手を合わせて歩く。夏が過ぎて秋が来た。あの夏から、もう四回目の秋だ。流れる冷えた風が私たちの心の中過ぎていく。
きっと、私達は『社会』の一員にはなれないと思う。世間から『変わり者』と言われようと、後ろ指を指されようと、私達は『世界』から逃げない。
「ねえ、このまま『社会』に馴染めなかったらどうする?」
「そうなったら、俺はお前と生きていく。そうして、その『空間』を描く。」
酷い『現実』と、美しい現実。絶対に混ざり合うことのないこつの『空間』が互いに干渉し合いながら流れていく。時に現実へ。時に『現実』へ。
銀杏の葉っぱが舞い降りてきた。足元に、また一つ加わる。葉っぱの絨毯の上を歩く。季節は回り続け、時の流れは止められない。冬になって、また新しい春が来る。そして、梅雨を越えたら夏が来て、秋になる。一年のサイクルに合わせて、私達は年を取り、いずれ死んでいく。それは、誰にも止められない。人生なんて所詮、葉っぱと一緒だ。舞っている間、風に吹かれて色々な『空気』に染められる。向きを変え、道を変え、真っ直ぐに落ちていかない。地面に落ちたかと思えば、風に吹き飛ばされる。そして、人に踏まれ、車に潰され、いずれは腐り果てる。もしかしたら、次に繋げることが出来るかもしれない。でも、そんな存在になれるのは、ほんの一部の葉っぱだけだ。
こうして、時は流れて歴史が作られていく。
「瀬凪、好きだよ。」
あったかもしれない、もっとひどい『現実』から逃げるように現実へと駒を進める。私の人生は今のところ快適だ。
曇り空の奥で、飛行機の音がした。




