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恋愛小説

ふたつのバレンタインチョコ

1.

都心から電車で数駅離れた住宅街。


俺は都内にある小錦大学付属高校の3年生で、名前は滝沢明という。


小錦大学は上位の私立大には一歩及ばないが、全国的な知名度は高い。


この高校からは、およそ7割が内部推薦で小錦大学へ進む。


2割は、より上を目指して国立や難関私大を受験し、残りの1割は推薦もされず、受験して小錦大学より下の私立に進むことになる。


俺は勉強はあまり好きじゃないが、野球部ではやれるだけのことはやった。


この高校の野球部は、校内の狭いグラウンドしか使えないのだ。


思い切りバットを振ると、打球が校舎の壁にぶつかったり、他の運動部の練習を邪魔したりする。


別の場所に広いグラウンドを持ってる強豪校にはかなわない。


最後の夏の高校野球東京予選も、5回を終えた時点で10点差のコールド負けだった。


俺の高校野球生活は終わった。


だが、俺に悔いはない。


サードのレギュラーにはなったし、最後の試合では打点も叩き出した。


俺の成績なら、希望の小錦大学経済学部には推薦で行ける。


翌年2月14日。


冬の陽射しが、校舎のガラス窓に白く反射していた。


その日、クラスの中で誰もが一目置く存在である小林由紀子が、俺の机の前に立った。


艶のある黒髪を肩のあたりで切り揃え、凛とした瞳で俺を見つめている。


「滝沢君、これ・・・」


差し出されたのは、小さな包み。


リボンの結び目がやけに丁寧だった。


チョコレートだと気づいた瞬間、胸の奥で、何かが小さく跳ねた。


由紀子は学年でも指折りの秀才だ。


私学の最難関・若松大学を受験すると聞いていた。


「本当に、俺に?」


彼女は微笑んだ。


「そう。ずっと、好きだったの」


彼女は少しうつむいた。


「1年生のときから、ずっと。でも、もうすぐ大学が別々になるでしょ。だから、これが最後のチョコになるかもしれないの」


「俺も君が好きだったんだ。でも、俺なんか相手にされないと思ってた。本当に付き合ってくれるの?」


「私の方から言ったんだから、当然でしょ」


俺は校舎の陰に由紀子を連れていき、そっと唇を重ねた。


若松大学の合格発表の日、由紀子は受験したすべての学部に落ちた。


俺は由紀子に話しかけた。


「なんだ、全滅かい?それでどこの大学に行くんだい」


「小錦大学に行くことにしたの」


「俺と同じか。それなら、これからも毎日会えるな」


「そうね」


「俺はもう野球はやらない。テニス同好会でもどう?」


「いいわね」


その夜、俺は由紀子に電話をした。


時間を忘れて話し続け、いつの間にか日付が変わっていた。


メールのやり取りも毎日のように続いた。


だが、1週間が過ぎたころ、突然、電話がつながらなくなった。


メールを送っても返ってこない。


由紀子の家に行っても、会わせてもらえない。


小錦大学のテニス同好会に入っても、彼女の姿はなかった。


一体どうなってるんだ?


2.

俺は小錦大学のテニス同好会で中村民子という女性と知り合った。


彼女は付属の出身ではなく、九州のある県から上京してきていた。


訛りが残る垢抜けない純朴な少女で、目鼻立ちがスッキリ整っている。


色黒の肌が南国育ちを感じさせる。


だが些細なことで喧嘩になり、それ以来口を利いていない。


6月のある晩のこと。


俺は練習疲れの身体を休めつつ、自分の部屋で寝転んでテレビを見ていた。


ニュースを見ていたら、何やら国会議事堂で議員たちが万歳している。


テロップには「衆院解散」と流れている。


俺でも衆院が時々解散されることくらいは知っているし、選挙権が18歳になった事も知っている。


それから数日後のこと。


郵便受けの中に、俺宛の封筒が入っていた。


差出人の名は小林由紀子。


俺は急いで部屋に戻り、封を切った。


白い便箋に、彼女の整った文字が並んでいる。


(あのときの気持ちは嘘ではありません。実は若松大学には補欠合格していたのです。今は都議会議員の田安亀之助先生の秘書として働いています。もしお時間があるなら、選挙運動のお手伝いをお願いします)


俺は由紀子に電話をかけてみた。


「久しぶりね。滝沢くん」


「手紙、読んだよ。学生が秘書になれるのか?」


「わたし、都議会議員・田安亀之助先生の私設秘書なの。先生が衆院総選挙に打ってでるの。先生は高校時代ラグビー部にいたの」


「田安って、今もラグビーをしているのか?」


「母校・茎先高校で顧問をしていらっしゃるわ」


「それで、何の仕事をすればいいんだい?」


「駅前の歩道で、ラグビーボールをパスしながら、先生の名前を連呼してほしいの」


「わかった。行くよ」


3日後の朝。


梅雨が明けきらない空の下、俺は玉錦区にある田安亀之助の選挙事務所を訪れた。


建物は粗末なものだが、選挙事務所の看板だけが新しい。


由紀子は赤い派手な色のスーツ姿である。


「滝沢君、来てくれてありがとう。」


事務所の中では、運動員たちが慌ただしく駆け回っている。


俺はラグビーのユニフォームを選挙事務所の責任者に渡された。


「これを着て駅前に並んで立ってくれ。ボールをパスしながら、田安先生の名前を連呼するんだ」


俺は「田安亀之助」と何度も繰り返しながら、ボールを他の運動員にパスした。


歩行者には少しオーバーなパフォーマンスに映ったようだ。


夜の6時になって、ようやく終わった。


夕暮れの中を、彼女が駆け寄ってきた。


「お疲れさま、滝沢君。明日もお願いね」


かつて校舎の陰でキスを交わした少女とは別の成熟した表情だ。


選挙戦は、あっという間に過ぎ、投票日の夜8時、開票速報が始まった。


「与党、過半数は微妙な情勢」


玉錦区には与党の井上春子という現職がいる。


田安にもチャンスが出てきた。


次々に当確者の名前がテレビに流れる。


なかなか玉錦区の当確者が決まらない。


事務所には緊張した空気が漂う。


深夜零時、田安当確のテロップが映し出された瞬間、全員総立ちとなり、万歳の声が木霊した。


「万歳!万歳!」


由紀子が駆け寄ってきて、俺の手を取った。


「ありがとう、滝沢君。これからも、私を支えてね」


「もちろんさ」


初めからそのつもりで協力したのだ。


3.

俺は由紀子と宮神球場に行き、八大野球リーグ戦の若松大学対小錦大学の試合を観戦にいった。


若松大学にはもう優勝の目はなく、この試合に小錦大学が勝てばリーグ優勝する。


「わたしも小錦大付属のOBだし、今日は小錦大の応援をするわ」


由紀子はライト側の小錦大の内野スタンドに応援に来てくれた。


試合は9回裏に劇的なさよならホームランが出て、小錦大の優勝が決まった。


紙吹雪が舞り、学生が立ち上がり、全員が肩を組んで母校の校歌と応援歌を繰り返し歌った。


俺は由紀子と肩を組んで歌った。


彼女の顔をチラリと見ると、ちゃんと歌っている。


さすが秀才だ。


まだ小錦大の歌を覚えている。


それとも、俺のために覚え直してくれたのかなと思うと少し嬉しい気持ちになった。


4.

季節が一巡し、また同じ日付が巡ってきた。


2月14日。


テニス同好会の練習が終わり、皆が更衣室に戻るとき、去年喧嘩して以来、口を利いていない中村民子が近づいてきて、綺麗な包装紙に包まれた箱を渡した。


「去年はごめんなさい。わたしと付き合って下さい」


俺は面食らった。


由紀子とはまだ付き合っている。


だが由紀子は忙しいらしく、最近はあまり連絡してこなくなった。


俺は民子のチョコを受け取った。


「わかった。俺の方こそ悪かった。君と付き合うよ」


一緒に駅まで歩いた。


「滝沢君、手をつないでいい?」


「もちろんさ」


民子がそう言ったとき、俺はその手を握った。


その瞬間、俺の心のどこかにつかえていた、長い冬が終ったような気がした。


図書館で民子と並んで本を読み、帰り道でアイスクリームを分け合う。


俺は民子の肩を抱き寄せ、静かに息を合わせるように歩いた。


季節はまだ寒いのに、風が春の温かさが二人を包み込むような気がした。


5.

大学近くの商店街は学生たちの憩いの場でもある。


民子とはよく大学近くの古本屋に行った。


民子は小説を手に取っている。


俺は経済学のレポートを書くとき、利用するだけだ。


「古本は誰かが、他の人に読んでくださいといってるみたいね」


俺は経済学部なので、そういう問答は苦手である。


「古本というのは、読んだけどつまらなかったとか、金に困ったやつが売り飛ばしたのさ。第一、読んだ形跡がほとんどないじゃないか」


「そんなことを言ったら身も蓋もないじゃない」


民子は不快気な顔をした。


「まあ、確かに他の人に読んでほしいという気持ちがないわけでもないけど」


夏の日差しが容赦なく照りつける。


俺は民子と涼しい場所を探し、話し込むようになった。


6.

ある午後の日差しが照りつける夏の日のことである。


俺は由紀子とマクドに向かい合って腰掛けていた。


「あなたは卒業したら、どうするの?」と由紀子が訊いてきた。


「俺は体力だけが取り柄だから、運送会社にでも就職するさ」


「わたしは、政治家になりたいの」


「それで若松大にいって、政治家の秘書になったのか」


「もちろんそうよ。小錦大付属の友達に聞いたんだけど、あなたにはもうひとり付き合ってる人がいるらしいわね」


俺は沈黙した。


「中村民子さんという人でしょう?」


「誤解だよ。彼女は同じサークルにいるただの友だちだ」


「友達に頼んで調べてもらったの。デートしてるらしいじゃない」


「嫉妬かい?」


「そうかもしれないわね」


「まあ、いいじゃないか。彼女とはよく喧嘩になるし、いつ別れるかもしれない。それにまだキスもしていない」


キスしていないと聞いて、由紀子の目つきが穏やかになった。


「君こそ、どうなんだ?」


「秘書と勉強の両立で、遊んでる暇なんてないわ」


「そうか。忙しいんだね。衆院議員の私設秘書ともなると」


「わかったわ。同じサークルじゃあ、仕方がないわね」


「大人げない喧嘩はよそう」


「じゃあ、田安先生の演説会のポスター張りの仕事があるんだけど、手伝ってくれる?」


「わかった、今度の日曜日に行く」


7.

日曜日に田安事務所に行くと、人気ひとけが多かった。


キョロキョロと辺りを見回すと、由紀子が待っていた。


「滝沢くん。来てくれてありがとう」


由紀子が微笑みかける。


そこにはあったのは、無数のポスターと両面ガムテープであった。


「これをポスターの裏側に貼って、選挙区の目立つところに貼るの。もちろん、その家の人の許可を貰って。あなたはガムテープを貼るだけでいいわ」


「これは大変な手間だな」


俺はガムテープを貼るだけで、その日曜日は潰れてしまい、へとへとに疲れてしまった。


8.

夕暮れのテニスコートは、ボールが見えにくくなるので、勝敗は二の次であるが、翌日、俺は民子に負けてしまった。


「おい、滝沢。彼女だからって、わざと負けるんじゃねえよ」


仲間にそう言われた。


「バイトで疲れてるんだ」


そう言って誤魔化した。


「嘘をつけ。お前は若松大の女と付き合ってるんだろう」


同学年の山本がそう言った。


「なぜ、そんな事を知ってる?」


「俺は知らないよ。ただ言ってみただけだ」


「カマをかけたのか?」


「そうだ。これではっきりしたな」


民子が険しい目で俺のことを睨みつけた。


9.

その日の練習後のこと。


俺は屠殺場に引き出される家畜のように、民子とマクドに行き、事の詳細を打ち明けた。


「つまり、その人は小錦大付属から若松大学に行って、政治家の秘書をやってるわけね」


「頼まれて選挙運動の手伝いをしているのさ」


「名前を言いなさいよ。私が話をつけてあげる」


「その必要はないさ」


「どういうことよ?」


「あの子は政治家になることしか考えていない。恐らく10年以上先の話になるだろう。もう付き合わないよ。昨日も雑用を頼まれたが、もう沢山だ」


「信用していいんでしょうね?」


「心配だったら、毎日君とデートしてもいいぜ」


その日、初めて民子とキスをした。


俺の迷いはようやく吹っ切れた。


大学卒業後、俺は運送会社に就職して、民子の両親に会いに九州まで行き、正式に婚約した。


長い遠回りの末に、ようやく落ち着く場所が見えた気がした。














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